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――かくして、その日の夜。僕は退社すると一旦一人暮らしをしている代々木のアパートへ帰り、ビジネスバッグを置いて財布とハンカチ・パーティーの招待状(ただし課長宛てだ)・スマホだけをスーツのポケットに突っ込み、愛車である軽自動車で本社ビルへ取って返した。
この車は篠沢商事の内定が出た時、ローンを組んで購入したマイカーだった。
ローンの支払いは、あと数ヶ月分を残すまで終了していたが、退職を考えていた僕がなかなか踏み切れなかった理由は、退職した後のローンの返済に困るからというのもあったかもしれない。
依願退職なら退職金は出るだろうけど、入社三年目では金額なんてたかが知れている。だから、会社を辞めるわけにはいかなかったのだ。
……それはさておき。「パーティーに出席するのに、車で大丈夫なのか?」と疑問に思った人もいるかもしれないが、その心配は無用である。僕は下戸なので、アルコール類は一切飲めない。したがって、飲酒運転の心配は皆無なのだ。
地下駐車場に車を停め、エレベーターで二階に上がると、大ホールの前の受付で僕は課長から預かってきた招待状をジャケットの内ポケットから取り出した。
「――本日はご出席どうも……、あれ、桐島くん?」
受付にいたのは、会長付秘書を務められていた小川先輩だった。
「小川先輩、どうも。お疲れさまです」
「お疲れさま。……って、どうして桐島くんがここにいるの?」
目を丸くした彼女に、僕は「上司の代打で、仕方なく」と答え、課長宛ての招待状を提示した。
「はい、ありがとう。――島谷課長のウワサは色々聞いてるけど、桐島くんも大変ねぇ……。断ればよかったのに」
「断れないから困ってるんじゃないですか。先輩、僕がどういう人間がご存じでしょ?」
「…………そうだったね。あなた、学生時代からお人好しっていうか、頼まれると断れないくらい意思が弱いっていうか」
「……先輩、それ褒めてないですよね?」
笑いながらそう言った小川先輩に、僕はジト目でツッコミを入れた。
「ああ、バレた?」
彼女は悪びれた様子もなく、おどけてそうのたまった。僕はどう切り返したらいいか分からず、大きなため息をついた。
「それでも、桐島くんは偉いよ。『会社辞めたい』とか言ってたわりに、辞めないで仕事続けてるんだもん。昔っから責任感強いからねー、桐島くんは」
「…………それはどうも」
これは間違いなく、彼女の褒め言葉だった。学生時代から僕のことをよく知っている先輩だからこそ、言えたのだと思う。
「ほらほら、そんな辛気臭い顔しないの! 代打とはいえ、せっかくのパーティーよ。楽しんでいきなさい」
「……はい」
僕はあまり乗り気ではなかったので、戦場に向かう若武者のような気持ちで会場へ乗り込んでいった。
その会場で、僕は彼女に出会ったのだ。