「はい、おやすみなさい。湯冷めしないようにして下さいね? 最近、夜はちょっと冷えますから」

 この言い方は、ちょっと父親っぽかったかもしれない。もしくは彼女の兄っぽかったのだろうか。けれど、僕は彼女の体調が心配だった。
 日本には〝病は気から〟ということわざがある。父親が倒れて精神的にダメージを受けていたはずの彼女が、湯冷めしてカゼでも引かないかと心配だったのだ。

『うん。……じゃあ』

 そう言って電話を切った彼女の声は、最後笑っていたように僕には聞こえた。

「――さてと、俺も風呂入るか」

 翌日は平日で、僕ももちろん出勤しなければならない。けれど、投げやりだったその前日までとは違って、その日は少し前向な気持ちになれた気がした。
 今すぐの異動はムリでも、気持ちを切り換えて動き出せばいい。そう思えるようになっていた。

 ――僕の住んでいた部屋は、一応風呂・トイレ付き物件だった。ただし小さなユニットバス。篠沢邸の、独立したバスルームとトイレのあるホテル並みの豪華な部屋とは雲泥の差である。

 疲れていたのでシャワーだけにしようとも思ったが、彼女に「湯冷めしないように」と釘を刺しておいて、自分が風邪を引いてしまっては身もフタもないと思い直し、面倒だがバスタブにお湯を張って浸かることにした。

 ――入浴しながら、僕は彼女のことを考えていた。

 その日の彼女はメイクをしていたし、髪にもウェーブがかかっていたので気づかなかったが、彼女は素顔もキレイだ。
 肌は白くてきめ細かくてツルツルで、唇はグロスを塗らなくてもツヤツヤ。茶色がかったロングヘアーは(つや)があってサラサラである。きっと毎晩、入浴のたびに手入れを欠かさないのだろう。

 きっと今ごろも――。彼女は誰のことを考えてお手入れしているのだろう? ……と考えたところで、加奈子さんが「絢乃さんは初恋もまだだ」とおっしゃっていたことを思い出した。

 だったら僕のことを考えながら、お手入れしてくれていたらいいな。――そうこっそり思っていたのは、彼女には今でも内緒である。

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 ――翌朝。僕が総務課に出勤すると、島谷課長はご満悦の様子だった。

「桐島くん、おはよう」

「おはようございます、課長。昨夜のパーティー、しっかり代理出席させて頂きました」

「そうかそうか、ご苦労だったな。――そういえば、企画課の課長から聞いたんだが、昨夜は大変だったそうじゃないか。会長がお倒れになったとか」

 前夜の出来事は、彼の耳にも入っていたらしい。ただし、現場に居合わせていたわけではないので、言い方がどことなく他人事のようだ。