――アパートへ帰り着いたのは、夜の九時半ごろだった。
 篠沢家の大豪邸とは月とすっぽんの、六畳しかない広さのこのワンルームが、僕が社会人になってからの住まいだった。絢乃さんと婚約し、同居するようになるまでは。

「――う~~~~ん、どうすっかな……」

 スーツから部屋着のスウェットの上下に着替え、座卓の前に座り込み、僕はスマホを手に悶々としていた。
 
「せっかく連絡先交換させてもらったし、こっちから連絡した方がいいのかな……。電話……じゃビックリされるだろうから、メッセージ? でも、何て送ればいいんだ?」

 彼女からの連絡を待つという選択肢もあったにはあったが、多分彼女が男と連絡先を交換したのは初めてのことだったのだろうから、自分から僕に連絡するのには相当な勇気が必要だったろう。

 そもそも、彼女がどうして僕と接点を持ち続けようとしたのか、その理由が当時の僕には想像もつかなかった。僕がお父さまに受診を勧めたから……というのが彼女の建前だったことだけは分かっていたが、本当の理由が実は僕への好意だったと知るのは、その数ヶ月も先のことだった。

「……なんか腹減ってきたなぁ。パーティーの料理、食った気しなかったもんな……」

 とりあえずキッチンでお湯を沸かし、夜食にストックしてあったカップラーメンを作ってすすっていた。(わび)しいひとり暮らしの男の食生活なんてこんなものだ。兄みたく料理が上手ければまた違うかもしれないが、僕は料理が苦手である。

 ――その時だった。座卓の上に放置してあったスマホが鳴り出したのは。

「……ん、電話? わわわっ、絢乃さんから!?」

 まさか彼女の方から電話を下さるとは思っていなかった僕は、慌てふためき、飲んでいたカップ麺のスープが喉のヘンなところに入ってむせてしまった。
 水を飲んでどうにか落ち着いた僕は、早くなる鼓動(こどう)と闘いながら通話ボタンを押した。

「――はい、桐島です」

『あ……、絢乃です。さっきはありがとう。――あの、今、大丈夫かしら?』

 彼女の声は少し震えていた。きっと僕と同じように緊張していたのだろう。

「今自宅にいるので大丈夫です」と答えると、絢乃さんはどこかホッとしたように「……そう」と言った。

 彼女は帰宅されてすぐに、僕からの助言をご両親に伝えたそうだ。ただし、僕の名前は伏せたうえで。
 僕は名前を出してもらってもよかったのだが……。源一会長は社内の全社員・役員の顔と名前を記憶していらっしゃったのだ。当然、この日のパーティー会場にいた唯一の平社員である僕のことも覚えていて下さったはずである。