さらに彼女は、加奈子さんが「『家に着いたら連絡する』と言っていたのに、まだ連絡が来ない」と言い、母親が自分に連絡をするゆとりもないくらい父親の具合が悪いのかと心配そうだった。そのつらそうな表情に、僕も身につまされる思いがした。

 僕は「それは心配ですね」と同意した後、もしものことを考えた。あの倒れ方は相当具合が悪かったと見え、命に関わる大病を抱えているかもしれないと。そうなれば、一日も早い受診を勧めるべきだ。

 一瞬、僕のようなイチ平社員がこんな出過ぎたマネをしていいものかと迷った。出る杭は打たれる。これで目立って、また島谷課長からの嫌がらせがエスカレートしたら……と考えなかったわけではなかった。でも、他にこんなことを進言できる人間が、あの会場にいるとも思えなかったので。

「――あの、僕のような平社員がこんなこと申し上げるのも差し出がましいとは思うんですけど……」

 僕は僭越(せんえつ)だとは思いつつ、おそるおそる前置きから始めた。彼女が「言ってみて」と続きを促してくれたので、本題にズバッと切り込んだ。

「お父さまには、ちゃんと病院にかかって頂いた方がいいと思います。できれば、精密検査も」

「え……?」

 彼女は大きく目を(みは)った。……やっぱり、気を悪くされたかな。僕は後悔したが、一度言ってしまったことはもう引っ込みがつかない。
 それに、これは他の誰でもない会長ご本人のためだった。たとえ彼女にとってつらい現実だったとしても、伝えないわけにはいかなかった。伝えると決めた僕自身が一番つらかったのだから。

「もしかしたら、命にかかわる病気かもしれないでしょう? だったら、発見も一日でも早い方がいいと思うので」

 彼女の表情が、より険しくなった。今にも泣きだしそうな表情に、僕の胸がチクリと痛んだ。
 なるべく感情を抑え、冷静に言ったつもりだった。そんな僕を、彼女は「なんて冷たい人だろう」と思ったかもしれない。彼女を失望させてしまったかもしれない。
 僕は彼女に、こんな顔をさせたかったわけではなかったのに……。後悔が、波のように押し寄せてきた。

 でも、彼女も僕ほどではないが冷静さを保っていた。ある程度の覚悟はできていたらしい。

「……分かったわ。ありがとう。パパにはわたしから話をしておく。わたしの言うことならパパも耳を貸してくれると思うから」

 つらそうな表情は変わらなかったが、泣き出すことなく僕にそう約束してくれた。

「はい」

 僕は内心ホッとしながら頷いた。彼女は僕が思っていた以上にメンタルの強い女性のようだ。やっぱり、彼女にアドバイスしてよかった。彼女なら、ちゃんとお父さまにこの話を伝えてくれるだろうと。
 今思えば、僕の一目惚れがただの〝一目惚れ〟ではなくなったのは、きっとこの瞬間だったのだと思う。