玄関から外に出ると、まだ朝日の残る時間帯だった。
 遅刻ぎりぎりなのか駆け足で学校に向かう学生や、職場に向かうらしい大人が、それぞれ目的地に向かって住宅街の道を行く。

 お姉ちゃんが玄関まで見送りに来てくれる。

「歌子。気をつけてね」
「うん」
「いつでもお家に帰ってきていいのよ」
「うん、もちろん」

 夜澄島に暮らすといったって、さらわれていくわけではない。
 いつでも家に寄っていいと、星夜には確認していた。
 長いお別れというわけではない。

 けれど。
 ぴかぴかの朝日のなかで、玄関に立って見送りをするお姉ちゃんと、これから別のところで暮らす私のあいだには、初めて経験する妙な距離感みたいなものがあった。

 お姉ちゃんは、私の両手をぎゅっと握る。

「本当に、気をつけてね」
「うん、気をつける」
「身体を大事にするのよ。風邪を引かないでね、病気をしないでね。手洗いうがいをちゃんとすること。ちょっと変だなと思ったら無理せず休むこと」
「わかってるよ」
「あと、夜澄島のみなさんにあまり迷惑をかけすぎないでね。挨拶をちゃんとして、ありがとうとごめんなさいをちゃんと言って、お手伝いをするのよ」
「うん、する」
「それと、元気かどうかちゃんと毎日連絡するのよ。なにかあったらすぐにお姉ちゃんを呼ぶのよ――」
「……叶屋舞子。貴様はどうも心配性すぎるな」

 うんざりしたように、星夜は言ったけれど――。

「歌子が心配だったら、夜澄島に引っ越してくればいい」
「……えっ?」

 お姉ちゃんはあっけにとられて、星夜に言った。
 星夜は私たち家族の暮らす一軒家を、確認するように眺める。

「貴様たち一家が暮らす程度の場所、夜澄島にはいくらでもある。この一軒家をそのまま敷地内に移動させてしまってもよい。歌子の様子をそばで見ていればよい」
「……えっ、えっ」

 お姉ちゃん。混乱している……。
 星夜はどこか自信たっぷりに続ける。

「まあ、歌子が犬になる期間だけは立ち入り禁止だがな」
「……えっと、それは、どういう?」

 しまったと言わんばかりに星夜は黙り込んだ。
 お姉ちゃんには、犬が好きってことは言ってないのに……。
 星夜……うっかりだ。

「……ともかくだ。望むのならば夜澄島に貴様ら一家の家を作ってやる」
「そ、そんな。お気持ちはありがたいですけど。お父さんとお母さんにも相談しなきゃですし、寿太郎の学校のこともありますし、急に言われても――」
「返事はいつでもいい。考えておけ。……行くぞ、歌子」
「は、はい」

 私はお姉ちゃんの顔を見つめた。
 小さいころはずっと見上げていたけれど――いつのまにか、私よりも背が低くなったお姉ちゃん。
 私の両手を握る手も、こんなに小さかったっけ……。

「お姉ちゃん、それじゃあ、いってくるね」

 私は、お姉ちゃんの手を――そっと、ほどいた。
 お姉ちゃんは、ちょっとさみしそうに……でも、私に向かって、微笑んでくれた。

「いってらっしゃい、歌子。……元気でね」

 いつでも会えるはずだけど。
 でも、やっぱり、これまでとはなにかが決定的に変わる気がして――私は思わず口にしていたのだった。

「これまで私を守ってくれて、ありがとう、お姉ちゃん」

 お姉ちゃんは、驚いたように目を見開いて――。

「……いいのよ、歌子のためだもの」

 やっぱり、きれいに微笑んだのだった。

 夜澄島に戻る車のなか。

「星夜様。つまらぬことを申しますが」
「なんだ」
「……あの女は、妹や弟を守るため若いころより気を張ってきたのでしょうね」
「だろうな」

 お姉ちゃんに関するふたりの会話は、それきりで。
 あとは仕事の話を始めたけれど――。

 しみじみとした、星夜と暮葉さんの会話だけでも。
 ……意外とお姉ちゃんのことを見てくれていたんだなって、わかって。
 胸にいっぱいになった感情を誤魔化すかのように、私は窓の外に流れる朝の東京の景色を眺めているのだった。