そのあと、星夜は私をだっこして散歩に連れていってくれた。

 深い森のなかには、ところどころ和風の建物があって、ひとの気配や生活の気配がする。
 古ぼけているけれどよく手入れのされた鳥居が等間隔で連なる石畳を、進んでいく。

 ……鬼神たちの暮らすところなのに、鳥居とかあるんだ。
 ちょっと意外だった。

 ところどころ泉や小さな滝があって、とてもよい……清い水の香りがする。
 たぶんここは海に近いはずなのに、潮風ではなく清流の気配が濃厚で――それもまた、鬼神というあやかしのなせる業なのだろうか。

 なんで海に近いと思ったかというと──。
 おそらくだけど、ここは、夜澄島だから。

 夜澄島。
 東京湾にぽっかりと浮かぶ、鬼神の一族の暮らす島。

 地理の授業で、断片的にだけれど習った。
 夜澄島は、明治時代に鬼神の一族が東京湾につくった、森深き禁忌の島――そこに、日本全国あわせても数百名しかいない鬼神の九割以上が、ともに暮らしているのだという。
 そのおそろしい霊力を秘めて――。

 そんな、おどろおどろしい教科書の説明文から受けるイメージとは違って……早朝から朝の時間帯へ向かう夜澄島は、空気が澄んでいて、雰囲気も平和そのもの。

「あらまあ。星夜様。お早う御座います」
「今朝はどういうわけか、空気も水もとりわけ澄んでおりますよ」
「そちらは……可愛らしい御方ですね。ふふ」

 すれ違う和装のひとたち……鬼神のひとたちは、にこやかに挨拶してくる。
 それに対して、星夜もぶっきらぼうながらも丁寧に返していた。

 だれかとすれ違うたびに星夜は足を止めて堂々と対応するけれど、私をだっこして歩き始めると、私にばっかり話しかけてくる。

「犬、犬よ、楽しいか、楽しいだろうか? 上を見てみろ。さわさわと音がするだろう……あれはな、木々がこすれて音を立てているのだ。いま、雀が鳴いたな。ああ、今朝は風が気持ちいい。空気が澄んでいるというのは、まことだ。おまえが俺のもとに来てくれたがゆえだろうか。なんてな。はははは」

 なんでもかんでも話しかけてくる。
 賑やかだなあ、とは思ったけれど……おかげでだいぶ散歩を楽しめてしまったのも、ほんとうだった。

 散歩の折り返し地点は、石畳を進んだ、森の奥。
 石造りの鳥居がひとつあって、その奥は小さな神社のようだった。

「ここは、俺たち鬼神の一族にとって大事な場所だ」

 星夜は、私をそっと地面に降ろした。

「道中、悟った。おまえは聡い犬だ……言葉も、ある程度はわかっているようだ。すこし、ここに座って待っていることなどはできるか? このように言えば伝わるだろうか……おすわり」

 私は、とっさに反応できなかった。

 おすわりとか、まてとか、おてとか。
 家では、中身が人間である私には、犬に出す命令は必要なかった。

 弟の寿太郎が以前、犬の私におもしろがって言ってきたけれど……言葉で言えない私が寿太郎の手を抗議の気持ちを込めて思いっきり噛んで、流血寸前の大喧嘩。
 お姉ちゃんが喧嘩を止めてくれたけれど、めったに怒らないぶん怒るとすっごく怖いお姉ちゃんに寿太郎も私もこっぴどく叱られて、それからは寿太郎もおもしろがって私に犬の命令をしたりはしてこなくなった。

 ……私は人間なのだから、犬に出す命令に従う道理なんてない。
 たとえ、身体が犬になってしまうとしても……。

 星夜はしゃがみ込んで、私の頭をよしよしと撫でた。

「わからぬだろうか。おまえは、野良犬だったのだろうか。ならば仕方ない。無茶を要求した俺を、どうか許してほしい。……社の御前ではあるが、だっこしていこう」

 命令に従わなかった私に、星夜はとことん優しい。
 むしろちょっと、申し訳なさそうで。

 私のほうが申し訳ない気持ちになる。

 犬に出す命令に、心が人間の私が従うのは複雑だったけれど。
 でも……星夜にとって私は、一匹の犬でしかなくて。
彼は、私に対して犬に出す命令を通してコミュニケーションを図ってくるのだろうから。

 私は、犬のおすわりの体勢をとった。

「おお……! おまえ、もしやもう、おすわりを理解してしまったのか。なんたることだ。天才か!」

 星夜は、私の頭をこれでもかってほど、わしゃわしゃと撫でたのだった。