「……まだ何も言ってないではないか」
「いえ、わかります。いつものパターンですから。何年、星夜様にお仕えしていると思ってるんです」

 さっきまでの雰囲気だったら、ここでキッ! と雨宮星夜が暮葉さんを睨みそうなものだけれど、雨宮星夜はあきらかに圧されて、しどろもどろしていた。

「だが……しかし……実際、俺はまだ何も……この可愛い犬を、うちの子にしたいなどとはまだ一言も言っていないだろう……」
「ほら、そういうことじゃないですか。だから、駄目ですよ。犬を飼うなんて」

 雨宮星夜は、しゅんと肩を落とす。
 ……さっきまでの迫力と威厳はどこへ?

「なにゆえ……なにゆえなのだ……俺には犬を飼う権利すらないのか?」
「それにつきましては、再三説明申し上げているはずですけれどね。いいですか、星夜様。星夜様は、何者であられますか」
「愚かしい質問だ。雨宮家の後継ぎにして、鬼神の長よ」
「おっしゃる通りでございます。それでは、星夜様。雨宮家の正統な後継ぎであり、そのいと気高きお血筋、いと強き霊力により、あやかしのなかでも最も強く血気盛んな鬼神たちを堂々とおまとめになる貴方様が、犬が好きなどと――世間にバレていいとお思いなのですか」
「……よいではないか」
「よくありません! 貴方様は黒き修羅、そんな貴方様が犬が好きなどとバレたら、ああ、どうなるか……」

 暮葉さんは硬い表情のまま、おそろしい、おそろしい……と呟く。

「それに、星夜様。こちらも再三申し上げておりますが――これは、貴方様の大好きな犬という生き物たちを、守るためでもあるのですよ。犬だけではございません。おそれながら申し上げれば、愛する者というのは、貴方様の弱みとなり――枷となります。……けっして、愛する者をつくってはならない。鬼神族の頂点でいらっしゃる雨宮家の、鉄の掟です。……わたくしなどが申し上げずとも、星夜様はとっくにおわかりであると存じますが」
「それについては……わかっている」
「貴方様は力をおふるいになる選ばれし存在。身のまわりも、つねに鉄壁の防御でいなくては」

 雨宮星夜はおそらくほんとうのほんとうに、犬が好きだ。
 鬼神族の長で。権力も金も、あふれるほどあって。
 それなのに――犬一匹飼うことも、できないらしい。

 ……なんだか、鬼神のお家っていうのも大変なんだな。
 ふつう、犬を飼うってだけで、ここまで難しい話にはならないと思う。

 雨宮星夜は。いまこのひとたちが話していた、愛する者をつくってはならないという鉄の掟とやらに従うのであれば、これまでもこれからもずっと犬が飼えないのか……。
 犬が大好きなのに。
 道端に倒れている犬を拾って、手厚く手当して、あんなに美味しいお粥をつくって食べさせるほどに大好きなのに……。

「……わかっている。わかっては、いるのだが」

 肩を落としている雨宮星夜。
 これまで何度このひとは、こうやって落ち込んできたのだろう。

 鬼神族の頂点とか、鉄の掟とか、選ばれし存在とか、そういうのは雲の上の話すぎてぜんぜん実感がわかないけれど――自分の人生が自分で思い通りにならない、……ままならない、って点では、妙に雨宮星夜に共感してしまった。