星夜はこちらを見る。
 ふるふると、私は首を横に振る――私は犬の姿だけれど、心は人間なのだから、人間のジェスチャーを使ったっていい。

「どうした、歌子。これでおまえを苦しめたやつらを処分できる――」

 私は星夜の腰のあたりを鼻でつついて、橋の欄干に寄った。

「わん!」

 一声鳴いて、下を見るようにうながす。
 さすが、犬の気持ちのわかる星夜は、私の言いたいこともわかってくれて――。

 ……冷たい川では、落ちてしまった鬼神や天狗たちが、物のように浮いていた。
 人間の救助隊がひとりひとり助けてはいるけれど……。
 あまりに数が多くて、救助が追いついていない。

 星夜の顔色が変わったのを、私は見逃さなかった。

 ……いいの?
 私は、目で問いかける。

 このまま、争いのための存在になってしまって――いいの?
 星夜は争いが嫌いなのに。
 ひとを傷つけるのも、嫌いなのに。

 ただ、犬をもふもふして生きられれば、それでいいはずなのに。

 私はべつに、天狗たちの命を想ってとか、そういう理由で星夜を止めているわけではない。
 確かに鬼神のみなさんにはあまり犠牲になってほしくないけれど、そういう理由でもない。

 ただ、大好きなひとに、望まないことをしてほしくないだけ。

 離れていて、気がついた。
 私は、星夜のことを……こんなに好きだった、ってことに。

 星夜がもし、戦いが大好きで。皆殺しをしたくてしたくて堪らない、というなら。
 その道はなかなかに大変だろうけれど、私だって一緒に、その修羅の道を歩んでいこうと思う。そう、覚悟しようと思う。

 でも……そうではない。
 修羅の道からは、離れたがっている。
 そんな星夜の気持ちを私は知っているから――。

「……しかし……あいつらは……歌子を苦しめたんだ……」

 だからって。
 星夜が苦しんでいい理由には、ならないよ……。

 私は、星夜の足元に座って――おでこを、その脚に擦り付けた。

「歌子……」
「――ああ、もう! 今度こそ仕留めてみせるわ。まったく憎らしい犬! 星夜もあんたも死んでしまいなさい――」

 私は宝剣をくわえたまま、永久花を振り返って――。

「わん、わん!」

 星夜を振り返って、合図した。
 星夜は――両手で、紅い球をつくる。

「……殺しはしない。それでいいんだな……歌子?」

 そうだよ。
 そうしてほしいの。

 わがままかもしれないけれど。
 星夜が、苦しまないために――。

 星夜は、ゆるやかなカーブで、紅い球を永久花にぶつけ――隅田公園の岸の川に、ふわりと、着地させた。
 永久花は、そのまま救助される。
 なにかこちらに向かって叫んでいたけれど、……すぐに救急車に乗せられていったから、聞こえなかった。

 永久花がいなくなると、急に……戦場は、静かになる……。
 もうほとんど――勝敗は、ついたみたいだ。

 ……わがままだったかもしれないけれど。
 私は……あなたの飼い犬だから……。

「……くううん」

 ちょっとくらい許してもらえないかな――って気持ちを込めて、私は星夜を見上げる。
 星夜は、苦笑するような、それでいて泣き出しそうな笑顔で――私を持ち上げ、頭を撫で、抱きしめ、全身をこれでもかというほど、わしゃわしゃ、わしゃわしゃとした。

 ……あ。珍しい。
 っていうか……初めてじゃない?
 このひとがこんなふうに笑うのを見るの――。

「歌子。俺のためなのか」
「わん!」

 私は肯定した。

「危ないことを……苦しかっただろうに」

 星夜は、私をぎゅっと抱きしめた。
 苦しんでほしくなかったのは……私もおなじだよ。

「もう絶対に、離さない。……これからもずっと一緒に、俺といてくれないか」

 私は小さな身体で、星夜を抱きしめ返す。
 もちろん。
 これからも、ずっと一緒に――。

 隅田川の向こうには、気がつけばまぶしいほどに夕陽が輝いている。
 夕陽は一瞬、吾妻橋のすべてを紅色に染めると、そのまま静かに沈んでいった。