そういえば、生贄花嫁の儀式時の洞窟でも、失言をした高官を『ちょっとからかってやった』と伊吹が話していたのを凛は思い出した。

 鬼には厳かなイメージしかなかったが、意外に伊吹はお茶目な性格をしている。だが、それにしても。

「私をどうこうするつもりがないって……。なぜです?」

 凛は不思議で仕方がなかった。血を吸わないというだけでも驚きなのに、そうではない欲求すらぶつけてこないなんて。それならなぜ、私はここにいるのかと。

 伊吹は驚いたように目を丸くすると、さも意外そうに言った。

「なぜって……。風呂すら一緒に入れない君に、それ以上のことを求めるなんてできるわけないだろう? まあ、俺としてはすぐに仲良くしたいところだけど」

 言葉に詰まる凛。

 確かに、伊吹の話は頭では理解できる。しかしそうなるとやはり、逆に伊吹の今までの行動が理解できなくなってしまうのだ。

「どうして伊吹さんは私にそんなに優しくするのですか。私は今日あなたと初めて会った、ただの人間です。あなたにとって血がおいしいだけの、平凡な人間の女です。なのに、どうして……」

 伊吹の瞳を見つめて真剣に凛は問う。

 彼はしばらくの間、凛を見つめ返すだけだった。

「花嫁には優しく。人間は違うのかい?」

 やっと放たれた伊吹の言葉は、一般常識的な事柄だった。もちろんそれでは凛は納得がいかない。

「でも私は普通の花嫁とは違います。夜血の乙女で、生贄花嫁と称される存在です。伊吹さんと私は、普通の夫婦では――」
「君は俺の花嫁だ。それ以上の理由なんていらないよ。花嫁だから優しくするし、心から愛する。そうだろう?」