「あ、あの。さすがにそれは……。心の準備が、ですね」
「どうしてだい? 夫婦なのに」
「わ、私はあなたに血を吸われてもう死ぬんだと思っていましたから。夫婦として一緒に過ごすとおっしゃられましても、まだ気持ちが追いついていないのです」

 自分の今の気持ちをやっと正直に伝える凛。伝えないと、本当にこのまま入浴を共にされるかと思ったから必死だった。

 すると伊吹は目をぱちくりとさせて何回か瞬きをし……。

「……そうか。わかった」

 シュンとして、心から残念そうな顔をする。

 鬼の若殿という大層な身分の者の意外な姿を、ちょっとかわいらしいと凛が思っていると。

 ダダダダという、廊下を乱暴に走る音が響いてきた。何事かと凛は音のした方を振り向く。

 見ると、輝くような金の髪をした青年が血相を変えてこちらに走ってきていた。

 黒いパーカーにジーンズといった、人間の若者がするような格好をしている。あやかしは和装のイメージがあったから、予想外な姿に驚いてしまう。

 ――人間の男性……? いや、あやかしよね。

 あやかしの国に人間が入ることは可能だが、警護をつけたお偉いさんや配送業者といった一部の外せない用事がある者のみが基本だ。

 鬼の若殿の家で廊下を走り回る人間など、いるはずがない。

 彼は伊吹と凛の前で急ブレーキをかけるような形で足を止める。

 年の頃は、二十歳である凛と同じくらいだろう。彼も伊吹に負けず劣らず整った容貌だが、伊吹がキリリとした印象なのとは対照的で、垂れ目でかわいらしい顔立ちをしていた。

 髪と同色の金の瞳は、凛を驚いたように見つめている。そして……。