大学二年の春。私はカフェでアルバイトをすることにした。

「急募!」

 友達の華とそのカフェに入る瞬間、ドアの張り紙に目がいった。

「バイト募集の張り紙があったね」

 席に着きながら華に伝えると、特に興味もないせいか「ふーん」の一言だけだった。
 華と二人、ケーキセットを注文した。頼んだショートケーキを前にして、まずはとカフェオレを味わう。このカフェはコーヒー豆に拘りがあるようで、壁には原産地や豆の挽き具合など、説明書きがイラスト付きでおしゃれに描かれていた。

「コーヒー、美味しいね」

 苦みと深みが、香りと共に鼻から抜けていく。

「ケーキも美味しいよ」

 ショートケーキの上にたっぷりとのった生クリームを、華がとても美味しそうに頬張っている。私も自分のケーキにフォークをさし、口一杯に頬張った。

「なに、このクリーム! めちゃくちゃ美味しいっ」

 あまりの美味しさに、突如として私のテンションが上がったところで、すぐ近くから「ありがとう」という優しい声が聞こえてきた。

「僕が作っているんです。あ、生クリームは北海道産です」

 屈託なく話して笑みを向ける男性は、このカフェの制服を着ていた。

「とても美味しいです」

 そう応えたのは、華だ。
 私は、突然他から反応されたことに驚き固まっていたわけだけれど。それ以上に、めちゃくちゃ好みの男性が目の前に現れたことに釘づけになっていた。

 スッと通った鼻筋。涼しげな目元は、ちょっとだけ狡そうに見えるのに、笑みを浮かべるとその目がクシャっと可愛らしく三日月になっているところ。耳周りがすっきりとした、刈り上げ過ぎないナチュラルツーブロックが似合い過ぎる。

 この人がこんなに美味しいケーキを作っているの? そして、コーヒーも淹れちゃってるの? 完璧すぎでしょ。

「コーヒーもとても美味しいです」

 再び華が話かけると、胸元の名札に「店長 椎名」と書かれた彼が笑みを浮かべた。

 ほら、この三日月の目。なに、これ、反則。めちゃくちゃ、キュンとくる。

「ごゆっくりしていってください」

 一生ここに居ます!

 私は一瞬で芽生えた、声にならない熱い愛を胸に秘める。

 ケーキの続きに取り掛かった華の目の前で、私の心臓ははっきりと主張していた。

 はいっ。今恋に落ちたっ! と。

「華。私ここで働く!」

 宣言する私を見て、華が面白そうに笑った。

 僅か数日後、私全てにおいて完璧と思えたカフェで働いていた。
 他のスタッフが帰ってしまった閉店後の店内には、椎名店長と私の二人だけが残っている。
 夜番の私は、店のレジ金を数えてあわせ。店内のイスやテーブルを整えつつ、軽く掃除をして回る。店長は、明日の開店に備えて在庫のチェックや、シフト表の確認などをしていた。

「奈々未ちゃん。外に看板出してくれる」
「はーい」

 椎名店長に指示され、CLOSEの看板を出しにいった。いつもの手順で自動シャッターを閉めようとボタンを押したのだが作動しない。

「あれ? 反応しない」

 何度かボタンを押してみたが、うんともすんとも言わない。

「店長ー。シャッターが下りません」

 店内のテーブルでノートパソコンを開いていた店長が顔を上げる。
 開いたパソコンをそのままに、店長も出入口へとやって来た。二人で開閉ボタンを何度か押してみたのだけれど、作動音の一つもせず結果は同じだった。

「古くなってきてるからなぁ……」

 まいったなぁ、と店長は小さくため息を吐いている。その後、スマホを取り出すと、時間でも確認しているのか画面を見て苦い顔をした。

「何か用事ですか?」
「あぁ、ううん……。とりあえず、業者に連絡しようか」

 何か誤魔化されたような気がしたけれど、シャッターが閉められないのでは帰るに帰れない。
 店長が業者に連絡すると、すぐに来てくれるとのことだった。

「対応が早くてよかったですね」
「そうだね」

 返事をしながら、店長はまたスマホを確認している。やっぱり何か用事があるのかもしれない。

「遅くなるかもしれないし、奈々未ちゃんはもう上がっていいよ。お疲れ様。気を付けて帰ってね」

 一緒に残っているのが他のスタッフなら、その言葉に甘え二つ返事で帰るところだ。けれど、相手は大好きな店長だ。二人きりのこのチャンスを逃すわけにはいかない。

「大丈夫です。業者さんもすぐ来るみたいですし、私も残ります」

 しかし――――。

「店長。業者さん、なかなか来ないですね……」

 電話をかけて依頼した時は、ものの数分で来てくれるような雰囲気だった。しかし、修理業者のくる気配は全くない。

「どうしちゃったんですかね……」

 店長は困ったような顔をして、また溜息をついている。
 そこへ、店内の電話が鳴った。どうやら修理業者からのようだが、店長の反応は良くない。

「どうしました?」
「事故渋滞に巻き込まれたらしくて、到着にはまだしばらくかかるらしい」

 言うや否や、またため息。シャッターが故障したとわかってから、店長は何度もため息をついている。

「やっぱりさ。奈々未ちゃんは、先に帰った方がいいよ。いつ来るかも知れない修理業者を待つことないし」
「いいんです。私も一緒に待ちます。二人でおしゃべりしながら待ってたら、きっとすぐですよ」
「奈々未ちゃんは、優しいよね」

 店長は「ありがとう」と笑う。

 私はただ、少しでも長く一緒に居たいだけです。店長のそばで、その笑顔を見ていたいだけなんです。

 シャッターの故障で店長が困っていると思っても、私は幸せだった。このままずっと修理業者が来なくてもいい。そんな風に思ってしまうくらい幸せだった。

 顔がカッコイイとか。ヘアスタイルが似合っているとか。好きになった理由をあれこれあげてみても、私が本当に心を惹かれたのは店長の笑顔だった。
 整った顔を、これでもかってくらいクシャっと崩して笑う表情を見て、私は恋に落ちたのだ。

「コーヒーでも淹れようか」
「私、店長が丁寧に入れてくれたコーヒー。大好きです」

 店長の事は、それ以上にもっと好きです。と言いたいけれど、まだその勇気はない。

 コーヒーを飲みながらテーブルで向き合うと、まるで恋人同士みたい。大好きな店長と二人きりで、飛び切り美味しいコーヒーを飲めるなんて幸せ過ぎる。
 けれど、さっきから目の前に座る店長は、ため息を交えながら何度もスマホを確認していた。

「約束でも……してました?」

 訊ねてしまってから、私はこのあと酷く後悔をする。

「うん……。実は、彼女と食事をする約束をしていたんだ」

 かの……じょ。

 スマホでメッセージのやり取りをしているのだろう。その画面に向かって既に二十回目になるため息を吐き出している。

 店長のことが好きすぎて、私は毎日のように目で追っていた。だから、つい数えてしまっていたんだ。笑顔の数も、ありがとうの数も。私にコーヒーを淹れてくれた数も。奈々未ちゃんと呼んでくれていた数も。そして、ため息の数も。そんな数を数えるなんて、やめておけばよかった。

 気づかなかったわけじゃない。休憩中に、スマホに向かって楽しそうにメッセージを打ち込む姿を見たのは、一度や二度じゃないし。裏口から外に出て、誰かと電話していることも知っていた。だけど、女性と二人でいる姿を見たこともなければ、恋人らしき人の名前を呼んでいる声も今まで聞いたことはなかった。確信がないから、違うんだって。そんな気はするけれど、私の思い過ごしだって。そう信じたかった……。

 私は、一つ息を吸う。

「きっと……、もう直ぐ来ますよ」

 いつも通り、普通に返せていただろうか。告白もしないうちから失恋するなんて情けない。店長を想う気持ちが、宙ぶらりんのままになってしまった。
 好きって、言ってしまおうか。フラれるのを覚悟で告白し、スッキリしてしまおうか。
 そうだよ。そもそもこのカフェで働こうと決めたのは、店長を好きになったからでしょ。近くに居られることに満足し過ぎて、好きって伝える勇気を誤魔化し続けてきてしまった。
 一緒に働けることに満足していないで、さっさと告白すればよかったんだ。

「あの、店長。私――――」
「遅くなりました。池溝シャッターです」

 私の告白を遮るように、待ちに待っていた修理業者がやって来た。その後ろには、落ち着いたヒールの音もついてくる。

「彰久。待ちきれなくて来ちゃったよ」
「智子!?」

 修理業者の後ろにつき従うように現れたのは、OL風の女性だった。
 突然の来訪に驚いた店長は立ち上がり、とても嬉しそうな表情でやって来た智子という女性へと駆け寄った。修理業者に作業を依頼したあとは、とても嬉しそうに二人で会話をしている。
 店長が彼女に向ける笑顔は、私が今まで見てきた表情とは比べ物にならないくらい素敵だった。

 あぁ、これが恋人同士ってやつなだね。

 テーブルにポツンととり残された私は、二つのカップを力なく眺める。一緒に飲んだコーヒーは冷めていて。浮かれた時間はおしまいだ。と言っているみたいだった。黒い水面が店内の灯りを映す。その波がどんどん揺れていくから、地震でもきているのかと思ったけれど違ったよ。私の目が涙で潤んでいるせいだったみたい。
 冷めてしまったコーヒーを、一度に飲み干し立ち上がる。

「店長。私、帰りますね」

 いつも通りに明るく言えていたと思う。普段通りに振舞えていたと思う。

「うん。ありがとね、奈々未ちゃん。一緒に待ってくれて、助かったよ」
「どういたしまして」

 笑顔を見せてから、勢いよく頭を下げた。

「お疲れ様でしたー」
「うん。お疲れ」

 お願い。いつも通りに振舞えたご褒美に、誰も私の涙に気付かないで。お願い……。

 零れる涙を拭いてから、二十一回目のため息は自分で吐いた。