「かわいそうな人」
双葉姫は、そっとつぶやいた。
紀昭は、姫のそばにずっとあった。主の妹の輿入れに従って他国へやってきて、そのために、出世を逃した。
そして今もまた。
「鴻江の兵は、勝てないわ」
愚かな人。愚直で、疑うことを知らない、かわいそうな人。
「夫はお前の働きに気づいていた」
弟の動きにも、蠢動する鴻江家の動きにも。
彼は姫を夜ごと組み敷いて苛み、執拗に問うた。
「わたくしは、すべて話してしまった。弟君をそそのかしたのがお前であることも、鴻江の援軍を装った兵が、この城を取り囲むだろうことも。殿はすでに兵の手筈を整えて、鴻江が動けばその後ろを突く用意があるわ」
「姫……」
痛みにか、驚きにか、紀昭はやっとそう声を出した。力を無くした膝が、土に落ちる。それを見て、双葉姫は微笑んだ。
「わたくしはどうしたいのかわからないの」
これは同盟のための婚姻だ。婚家において、実家のために働くのが、嫁いできた者の勤めだ。
だが手駒として生きて、それを喜びとすることも、己の使命とすることも、できなかった。
もうなにもかもに飽いていた。
幼い頃は紀昭と目をあわせて笑い、時には手を取って小さな庭を駆けた。大好きだった。ずっと離れることはないと信じていた。
だけど、年を重ねて、それぞれの立場が邪魔をして、いつの間にか大きな隔たりが出来た。
仕方のないことだった。分かっていた。
紀昭はずっとそばにあった。ただそばにあっただけだった。実直な紀昭は変わらず姫に仕え続けた。
そういう姿を見ているうち、小さな恋心は、いつの間にか汚泥のように、姫の心の底に沈んでいた。
本当は彼が少しも平気でないことに、気づいていた。
姫と呼ぶその声音に、時折熱がこもるのも知っていた。嫁ぐと決まった時、重水家まで従ってきたこの男が、じっと耐え忍ぶのも。
だがそういったものは降り積もって、どんどん心の中に泥をためていく。
姫、と呼ぶ声を、徐々に凪いだ心で聞くようになった。
きらきらしい思い出は、塗りつぶされた。日月を経ようとも変わらぬ男を見て、同じ日月の間で姫は汚泥に沈んでしまった。
膝をついて傷を抑える紀昭を見下ろして、ただ憐れんで双葉姫は言った。相手も己をも憐れんで。
「光陰は戻りはせぬ」
枝から零れた花は、地に落ちて腐れるだけ。枝に戻り、咲き誇ることはない。
「もっと早く、言うてくれれば良かった」
口にしたところで、無駄だったろう。だが、もし、と思うのだ。
幼い口約束とて、何もないよりは良かったのではないかと。儚い宝物として、抱えていられたのはないかと。もしかしたら、もっとつらく苦しい思いをすることになったのかもしれないが。
得られなかったものは、輝いて見える。
だがもう、遅い。
「鴻江の娘としての役目は果たした。わたしは重水の妻として死ぬ」
そう口にしたものの、責務などどうでも良かった。そう言えば、紀昭が惑うから口にした。
体も心も重い。逃げ伸びるのが億劫だった。
姫は、応えられない紀昭を残し、踵を返して歩きだした。