土曜日の午後のことです。
ビビの様子が少し変でした。

おつかいもそつなくこなす彼女ですが、
今日に限っては大事なメモを忘れてしまい、
仕事で出かけた母のティナに確認しました。

本も読まずに机に向かってため息ばかり。
そんなビビを赤い毛むくじゃらが
なにも言わずにベッドから眺めています。

「ごちそうさま。先におフロ入るね。」

ビビは晩ごはんをいつもどおり静かに食べ終え、
食器を洗い場に運んでリビングを出ました。

「なにかあった?」

いつもどおりに関わらず、姉のエリカが
いつもと違うビビの様子に気づき、
アンにたずねます。

「なにもない。」

アンは淡々と答えます。

学校では相変わらずのビビでしたが、
授業終わり間際の『帰りの会』から
沈鬱とした様子を見せ始めました。

その理由をビビはなにも言いません。
なのでアンは首を横に振りました。

ビビはフロから上がっても
本も読まずにベッドで横になって、
天井を見上げ、ひざを曲げては
足をバタバタと動かしています。

それもすぐに疲れてしまい、
ため息と共に視線を足元に向けると
部屋の扉に大きな赤いモップ。

アンの姿にビビはビックリします。

「アン、いたの?」

「ノックしたぞ。」

アンに自分のしていたことを気にして、
顔をそむけて壁の方を向きました。

「なに?」

「アイス食べるか?」

「いらない。」

「ビビの分、食べていいか?」

「ダメ。」

「ダメか。」

ビビは起きてベッドの上に座ります。

「ねぇ、宇宙ってどうやったら行ける?」

「パスポート持ってないとダメだぞ。」

「パスポートいるんだ…。」

アンはカップアイスをふたつ持ってきて、
ふたつとも蓋を開けています。

「宇宙は自転車ないからいいよね。」

「あるぞ。自転車。」

「あるの?」

「ある。月や火星は地球に比べて低重力だから。
 エクストリームスポーツもある。」

「そうなんだ…。
 ねぇ、あたしのアイス食べないでよ。」

「これはビビのじゃない。
 わがはいのアイスになった。」

アンからスプーンをひったくって、
ビビはアイスをひと口食べます。

「低重力はやっぱり制御が難しい。」

「アンでも自転車、乗れるんだ…。」

もうひとつのスプーンで
アイスを食べる毛むくじゃらを見て、
ビビはひとり言のようにつぶやきました。

「ビビは自転車で出かけない。」

ガレージの隅にあった赤い自転車は、
ホコリをかぶっていました。

「…乗れないもん。」

不貞腐れるように言って続けます。

「来週さぁ、学校で劇場まで演奏会を
 観に行くって言ってたじゃん。」

「言ってた? ビビがそれに出る?」

「出ないよ。楽器なんにもできないもん。」

「折り紙作れるのにな。」

「それは誰にでもできるし。
 じゃなくて、劇場まで
 みんな自転車で行くって言うのに
 あたしだけ自転車乗れずに歩きなのが。
 またアクタにバカにされるし。」

金髪のアクタはことあるごとに、
背の小さなビビに突っかかってきます。

「自転車に乗れない?」

「昔、お父さんと練習したんだけどね。」

「乗れなかった?」

「手のひらとか膝がボロボロになって、
 その日はおフロに入れなかった気がする。」

ビビは思い出話に乾いた笑いをこぼしました。
それからひとつ決心をして、アンを見ます。

「ねぇアン、明日自転車の練習付き合って。」

「わかった。わがはいが助太刀いたす。」

翌日、アンとビビのふたりは、
芝生のある広い公園へ行きました。

ホコリを払って拭き掃除をして空気を入れて、
赤色の自転車は新品同様です。

ビビは顔がこわばっています。

芝生の公園はコンクリートや
アスファルトよりもでこぼこしていますが、
手や膝を守るクッションになります。

「自転車はタイヤが回転すると
 ジャイロ効果が生まれるぞ。」

「ジャイロ効果?」

「だから自転車が倒れない。
 自転車が止まった状態で
 ずっと乗るのは難しい。」

そう言って試しにアンが乗ってみせます。

サドルが体格に合っていませんので、
高さを調節しました。

ハンドルさばきのぎこちない運転でしたが、
アンがペダルを強く踏んで漕ぐと、
自転車はスピードにのり
安定してまっすぐ進みます。

「できそうか?」

アンはサドルの位置を、
ビビの腰の高さまで下げます。

「やってみる。」

ビビはつばを飲み込んで、覚悟を決めます。

自転車をまたいで、ペダルを漕ぐと
先のアンのようにふらつくこともなく
スムーズな走り出しを見せました。

ビビは戸惑いながら自転車を漕ぎ進めます。

さらに自転車は綺麗にターンをして、
アンのもとに戻ってきました。

「乗れた…。」

「乗れたな。」

「なんで?」

肩透かしを食い、
乗った本人が首をかしげます。

アンは腕を組んで胸を張り、
ひとことこう言いました。

「わがはいのおかげだな。」

その演技じみた仕草のおかげで、
これまで募らせていた不安は吹き飛び、
ビビは芝生の上で涙ぐむほど笑い転げました。