自転車はぼくらの家からずっと連なる住宅街を抜けて、車が多く走る通りに出た。ゆるく小さな下り坂の多かった道から、平坦でゆるやかなカーブを長く描く歩道に変わる。この通りを走ると、まだ朝早いせいか人影はなかったが、車とは三十秒に一台くらいすれ違うようになった。

「昨日の夜、ちゃんと寝たの?」

 ぼくはふと気になった。ぼくとさくらは昨日の夕方公園で話をして、家に帰ってからも九時ぐらいまで、お互いの部屋の窓から顔を出して話をしていた。それから何時間か後に、ぼくが寝ようとして部屋の明かりを消した時には、まだ彼女の部屋の明かりはついていた。この時間に支度をして家を出てきたということは、起きたのは相当早い時間に違いない。そう考えると、二つの時間にほとんど差がない。

 ぼくがそう尋ねると、さくらは苦笑して言った。

「実はね、ほとんど寝てないんだ」

 やっぱり、とぼくはつぶやく。

「何やってたの? 今日の準備?」
「それもあるけど、なかなか眠れなかったの。何かちょっと、興奮しちゃって」
「興奮って、学校の行事じゃないんだからさぁ」

 ぼくは思わず呆れてしまう。さくらは昔から学校の行事―遠足、体育祭、文化祭、修学旅行、どんな時でも前日は興奮して眠れなかったといつも言っていた。ちょっと子供っぽい気もするけど、そこが行事好きな彼女らしさだ。だけど正直、初めてのひとり暮らしは、不安の方が大きくてとても学校の行事と同じようには興奮できないと思うのだけど。

 自転車は相変わらず、きれいに整備された平坦な歩道を走っていた。横に目を向けると、ぼくらの家がある住宅街が坂のずっと上の方まで広がっている。空の黒さが少しずつ薄くなるにつれて、明かりが灯りだす家も増えてきた。

「ほんとはね」

 会話が少し途切れた後、ふいにさくらがそう言った。

「え?」
「ほんとは、眠れなかったんじゃなくて、眠りたくなかった」

 どうやら、さっきの話の続きらしい。

「どうして?」

 ぼくは怪訝に思って、聞き返した。

「だって眠ったらさ、もうそこで『今日』が終わっちゃうんだよ。私にとってはさ、ここで過ごすのは昨日までだったの。だから、『今日』が終わったら、もう行かなきゃいけない。そう思ったらさ……」

 さくらはそこで言葉を飲み込んだ。ぼくはペダルをこぐ足を止めた。進む力は車輪に蓄えた推進力だけに任せて、さくらの声に意識を傾ける。車輪が回る静かな音が聞こえてくる。すると、

「……何かすごく寂しくて、不安だった」

 少し間を置いて、さくらがそう言った。

 ぼくは再びゆっくりとペダルをこぎはじめた。減速しかけた自転車が、少しずつ力を取り戻す。

 胸が痛い。眠るのが怖くなるほどの不安。さくらの気持ちがそのまま伝わってくるかのように、よくわかる。不安という言葉を口にした彼女の声が、本当に不安そうだったから。

 ただ残念なのは、本当に残念だけど、ぼくにはそのさくらに何を言ってあげたらいいのかわからなかったことだ。

 ぼくらは会話をなくして、ぼくはただ自転車を一定のリズムで走らせた。遠くの方の空から、光が見えはじめていた。ようやく夜明けらしい。街灯は消え、家々の明かりはさらに増え、犬の散歩やランニング中の人とすれ違うようにもなった。