その翌日、ぼくはこれ以上ないほどに早起きをした。

 まだまだ寒いな、とかじかみそうな手に暖かい息を吹きかけながら、ぼくはそう思った。三月も終わりだというのに、太陽が上る前のこの時間では、まだ冬と言っても差し支えないほどに冷たい空気が肌を包む。

 真っ暗だった空にようやく青みが差してきたころ、隣家の玄関の扉がかちゃり、と小さな音を立ててゆっくりと開いた。

 中から、肩から大きめの旅行カバンを提げているさくらが姿を現す。

「さくら」

 ぼくはさくらに向かって、静かに名前を呼んだ。

「ハル?」

 彼女にはその声だけで、ぼくが誰だかわかったようだ。玄関脇に設置されたオレンジのライトに照らされながら、驚いたように目を見開いて、ぼくの愛称を呼び返す。

「おはよう」

「おはよ。どうしたの? こんな朝早くに」

 短いあいさつの後、さくらはそう尋ねてきた。わかってるくせに。だからそんなにすぐ、落ち着いた声で話せるんだろ。ぼくは心の中で呆れたようにそうつぶやく。

「駅まで送っていくよ、見送りもかねて。空港までは電車で行くんでしょ?」

 ぼくはそう言って、そばにあった自転車のハンドルを握り、スタンドを蹴り上げた。

「ほんとに?」

 さくらが素直に、顔を輝かせる。

「うん。歩いていくより早いし、疲れないよ。それに……」
「もう少し話、できるね」

 ぼくが言い終えるより先に、彼女はぼくの考えていることを見透かしているかのように、その続きを奪って言葉にした。ひょっとしたらそれはただ単に彼女も望んでいたからなのかもしれない。

 そう思ってしまうくらい、さくらは本当に、嬉しそうな顔をした。


 さくらは今日、この街を出ていく。大学進学が決まり、遠い街でひとり暮らしを始める。ぼくは昨日、さくらと話をして、彼女が夜明け前に家を出るということを聞いていた。引っ越し初日はやることが多く、午前中には新居に到着したいらしい。朝一番の飛行機に乗るために、こんな時間から電車に乗って空港まで向かわなければならない。ぼくらの家から駅までは、徒歩では三十分ほどもかかるため、出発時刻がよけいに早い。さくらは両親を起こさないように家を出て、歩いて駅まで向かうつもりだと言った。

 それを聞いてぼくはさくらを駅まで送り届けようと決めた。さくらは本当はぼくにそうしてほしくて、ぼくにそんなことを言ったのだと思う。そんな気がしたから。

 ぼくは自転車の後ろにさくらを乗せて、駅までの道を走らせた。空はまだまだ薄暗い。街は静まり返って、人影も車のライトもほとんど見えない。

「ひとりで全部の荷物運ぶの、大変じゃない?」

 さくらはどちらかというと華奢な体格だと思う。今まで運動部にいたこともないし、身体を鍛えようなんて考えたこともないだろう。引っ越しの荷物なんて、本当にひとりで全部運べるのか心配だった。

「うちの親は仕事休めなかったみたいだから、仕方ないよ。でも大丈夫、そんなに重い荷物は送らないよ。向こうでそろえられるものは少しずつ買うから。電化製品なんかは、電気屋さんが取り付けしてくれるみたいだし」

 ぼくはそれを聞いて納得した。さくらは自分の部屋にあまり多くの荷物を置かない。元々無駄なものはほとんど買わないし、いらないものを分別して捨てるのもすっぱりやってしまうから、部屋の中はいつも整頓されていた。たぶん今回も、本当に最低限必要なものだけを持っていくんだろう。