さくらも大学に進学が決まっている。ただ自分の成績と見合わせて選んだぼくと違って、彼女の夢のために一番いいと、彼女が選んだ場所。そこはこの街とあまり変わらない大きさの街、だけど飛行機で何時間も、ぼくが新しく住む街へ新幹線で行く時間よりも、もっと長い時間をかけないといけないような街へ、彼女は行く。

 ぼくらは、ぼくとさくらは、離れ離れになるということ。それが、ぼくが最後に理解したこと。

 いや、当然わかっていたんだ、そんなことは。ぼくらが自分の進路を決めたその瞬間から、その日がやってくることは。

 ぼくが気づいたのは、その事実から生まれてくる感情に、ぼく自身が目を背けて逃げていたということだった。

 ぼくは戸惑いながら、さくらの方を振り向いた。彼女はまったく振り向く素振りも見せずに、その横顔も見えなかったけれど、ぼくは構わず彼女の背中に向かって尋ねる。

「明日って……何でそんな急なの」

 すると、さくらはその言葉を否定するように頭をわずかに左右に振った。

「急じゃないよ。ずっと前から決まってたの。私の部屋の荷物、もうほとんどまとめてあるもん」

 さくらはぼくに背中を向けたまま、妙に冷静で、落ち着いた声で、説明するように答える。

「だったら、何で今まで何も教えてくれなかったのさ」

 ぼくの声は、さくらとは反対に戸惑っている様子が自分でもよくわかった。さくらが引っ越しのことを今まで口に出さなかったこと、このタイミングで話したこと、驚くほど冷静でいること、すべてが不思議でならなかった。

「隠してたわけじゃない……ただ、私、わからなかった。今日になって、片付いた部屋を見て、明日には出て行くんだなって思うまで、ここを離れていく実感とか寂しさとか、全然わからなかったの」

 さくらが、今度は少し苦しそうに、絞り出すように声をこぼす。

「だけど、急にいろんなことわかってきて、ハルに話さなきゃって……」

 さくらは、そこで言いかけた言葉を飲み込んで、大きく首を左右に振った。

「ハルと話したいって、思った」

 ぼくはふいに、彼女が泣いていると思った。言い直したその言葉はそれまでで一番はっきりと彼女の意思が形を成しているように感じたけれど、ぼくには、その声が震えているように聞こえたからだ。

 さくらもぼくと同じだった。ぼくが彼女の言葉を聞いて理解したように、さくらも今日ふいに、ぼくらが離れ離れになることに気づいてしまった。そしてぼくと同じように、一瞬の寂しさや切なさに、苦しくなったんだろう。

 それくらいぼくらは長く、当たり前のように一緒にいた。

「ねぇ、覚えてる? 小一の夏休みのキャンプのこと」

 しばらくして、そう言ったさくらの声はとても澄んでいた。その昔話の意図はわからないけど、さくらが話したがっている、ぼくと話したがっているということはわかったから、ぼくは胸の辺りのもやもやを取り払って、よけいなことを考えずにただ真っ白な気持ちで、彼女と話をしようと思った。声に、言葉に、ひとつひとつに表れる彼女の心を、決して見逃さないように。

 ぼくは再び、さくらに背を向けて座った。

「覚えてるよ。近所の家族が集まって、みんなで一緒に行ったキャンプでしょ?」

 誰が言いだしたのかは知らないが、ぼくらのうちの近所にはひとりっ子の家庭が多かったため、交流を深めようと企画されたイベントだった。ぼくは喜んでそれに参加した。それまで家族でキャンプに行ったことはなかったし、それ以降も、学校の行事以外で行くことはほとんどなかった。だから、その時の思い出はよく覚えている。

「あの時は大騒ぎだったよ。夜になってさくらがいなくなってさ。みんなすごい怖い顔して、捜し回ってたの覚えてるよ。ぼくらもどうしたらいいのかわかんなくて、オロオロしてたし」

 くすっととさくらが小さく笑うのが聞こえた。

 キャンプの夜、さくらの姿が見えないと誰かが気づき、大人たち大混乱の中、捜索が始まった。そのころのさくらは好奇心が旺盛だったようで、みんなが寝ているテントを抜け出して、ひとり夜の探索に出掛けたのだ。今にして思えば、よくそんなことができたなと感心する。大人になっても夜の暗闇に包まれた山中は不気味で恐ろしく思うというのに。

「でも、見つけてくれたのはハルだったよね」
「うん」

 そう、その行方不明のさくらを見つけたのはぼくだ。夜の山中だったから見つけづらくはあったけど、そんなに遠い場所にいたわけではなかったし、ぼくは生まれつき方向感覚に優れていたから、見つけた後はすぐにみんなのところまで戻ることができた。

「そういえば、よく私のいる場所わかったよね。第六感ってやつ?」
「……まぁ、そんなとこ」

 ぼくは軽く受け流すように言った。しかし本当は違う。ぼくはあの時トイレに起きていて、偶然さくらがテントを出ていくのを見ていた。そのままどの方向に行ったのかも。その時は特に興味がなくて放っておいたのだけど、騒ぎになって、大人がほとんど出払っていたから、ようやくその重大さに気づき、ひとりで後を追ったのだ。

「怖くなかった? 私なんて道に迷ってから怖くなって、泣きまくってたけど」
「……だから見つけられたんだけどね」

 ぼくは彼女の行った方向にずっとまっすぐ進んだ。それで見つけられたのは、正直彼女の泣き声のおかげだった。遠くからは聞こえなかったが、近くまで来るとすすり泣くような声が、はっきりと聞こえた。

 ぼくもその時、全然怖いという感情はなかったと思う。その方向に行けばきっとさくらがいると信じていたし、戻る場所も常に感じ取っていたから、ぼくには何か、例えばそう、見えない道が、さくらまで続いているような気がしていた。

「でも、ほんとに嬉しかったな。知ってた? ハルが隣に引っ越してきて最初のあいさつ以来、ちゃんと話したのはあのキャンプが初だったんだよ。それなのに、よく探しに来てくれたよね」
「そうだったっけ」

 そのキャンプ以降、ぼくとさくらはよく遊ぶようになった。

 あれからもう十年以上たつ。その間、二人でいろんなことを話して、二人でいろんなことを経験した。嬉しかったことも、悲しかったことも、楽しかったことも、辛かったことも、いつもお互いに話し合って、相談して。ぼくらはたぶん、お互いのことを何でも知っている。

 ぼくらはこれ以上ないほど、親友だった。

 それからしばらく、さくらとずっと昔の話をした。

 給食の嫌いなものを、どうやって残すかを真剣に考えたこと。隠れるのにいい場所を見つけるたび、秘密基地を作っていろんなものを持ち込んだこと。晴れた日の外の鬼ごっこは楽しかったけど、雨の日の校舎内鬼ごっこの方がもっと白熱したこと。運動会や体育祭のたびに、その時に食べる弁当は何が相応しいかを延々議論したこと。文化祭の準備で毎日暗くなるまで居残りして、気味の悪い校舎を探検して回ったこと。修学旅行で友達同士をくっつけようと、いろんな作戦を考えて実行したこと。

「でもね、やっぱり一番嬉しかったのは、あれかな」

 一通り楽しかった思い出を語り合った後、待ち構えていたように、さくらが言った。