──ああそうか。母さんは、もしかしたら自分の話をちゃんと聞いてほしかったのかもしれない。
 逃げずに病気と向き合ってほしかったのかもしれない。それは誰よりも、俺自身に。

「私ここの海がすごく好きなの。幹太がまだ小さい頃家族みんなで来た、この町が大好きで最期はここがいいって思ったの」

 小さい頃の記憶なんてほとんどうろ覚えで、はっきりと形を成していない。

「幹太にとって引っ越したことがよかったのか悪かったのか、それは幹太自身にしか分からないけど……」

 全部投げやりでこの世界に諦めていた。どうせ何をやっても無駄だ、そう思って何も頑張ろうとしなかった。
 それからは手のつけようのない数字の問題を目の前にして、時計の針を動くのを眺めているようなそんな毎日が続いた。
 
「でもね、私は最期にこの町の海を見ることができてよかったと思ってる。それに今日栞里ちゃんに会えたおかげで、もう何も思い残すことはないわ」

 そう言って母さんは、口元に弧を描いた。

 最近は口癖のように「最期」と言う。

 〝思い残すことはない〟

 ──まるで自分の命があとわずかだと悟っているかのような口ぶりだ。

 病院の先生は、本人の生きる気力によって余命をはるかに超えて長生きをする方がいらっしゃいます、そう言った。実際ここへ来て母さんは元気になったし食欲も戻っている。それでも母さんの命は……

「私、栞里ちゃんに会えてほんとによかったわ。ありがとうね」

 母さんは、悲しそうに嬉しそうに笑った。

「私こそありがとうございます」

 栞里が表情を歪めて笑った。

 俺が困惑するのと同時に「……栞里ちゃん?」母さんもまた戸惑う。

「私、ちょっと悲しいことあったりするとすぐ落ち込んじゃうんですけど……幹太くんのお母さんに会えてお話聞けて、すごく勇気もらいました……だから私の方こそ、ありがとうございます」

 一言一句丁寧に息でくるむように告げた。

 栞里の瞳にはきらりと光るものが見える。

「……ありがとう、栞里ちゃん」

 嬉しそうな悲しそうな表情を浮かべて、母さんも笑った。

 窓から入り込む陽射し病室を照らす。
 開いた窓から風が吹いて、白いカーテンを揺らす。

 きっとずっと、俺はこの日を忘れない──。