どこまでも青い海は、あの日のきみと繋がっていた。


 そういえばこうやって学校のこと話したことあんまりなかったよな。俺がいつも避けてたからかな。学校であったこととか全部、言わないようにしてた。
 母さんが、一人で病気と闘っている中で俺が楽しい話なんかしたらいけないと思っていたからだ。

「この子、なんてお名前?」
「羽田亮介」

 フルネームで呼んだのなんか初めてだ。それなのにちゃんと名前を覚えていたのは、亮介がしつこいくらいに俺に構って来たからだ。それがなければきっと今頃、ずっと一人だっただろう。

「そう、亮介くんね。なんだか明るくて、とても優しそうな子ね」
「いやぁ……明るいっていうかただ単にアホっていうか単純っていうか……」

 思い出しただけでもおかしくなってお腹の中から笑いが漏れそうになる。

「あら、そんなにたくさん亮介くんのいいところが出てくるのね」
「今のはどっちかっていうと悪口だと思うけど」

 単純でアホだと聞けば誰だって悪口だと捉えるのに母さんは、意外と前向きだ。ポジティブでいて、それで明るい。ここに亮介がいたら間違いなく俺は揶揄を入れられるだろう。

「あらそう? お母さんにとってはいいところにしか聞こえなかったわ。幹太がそうやってお友達のことを言うときは、それだけ相手のことを信頼している証拠だもの」

 〝信頼している証拠〟──か。俺、亮介のこと信頼しているのか? 母さんにはそう見えるのか?

「もしかして亮介くんがあなたに写真部の勧誘をしていたの?」

 今までの俺との会話を思い出し、点と点を繋いで推理をする母さん。亮介以上に勧誘に力が入っていたのは、国崎だが母さんにそれを言えば間違いなく誤解を与えてしまう。

「……まぁ、そうなるかな」

 だから俺は、あえてそれを伏せる。

 厄介事だけは避けたかったからだ。

「亮介くんに勧誘してもらえてよかったわ。亮介くんに感謝しなくちゃね」

 突飛もないことを母さんが言って、穏やかに表情を緩ませる。

「なんで亮介に感謝するの……?」

 俺は困惑してぽかんと固まった。

「亮介くんのおかげで幹太が部活に入ってくれたからよ」

 子どもをあやすように穏やかな表情を浮かべて微笑んだ。

「だから、それは勧誘がしつこかったからだって……」
「ええ。そうだとしても自分では絶対に入らなかった部活に幹太は入ったわ。それは間違いなく亮介くんのおかげだと思うの」

 一番厄介だったのは国崎だけれど、結果的に亮介たちの粘り勝ちということで意味は同じだろう。

「それにね、幹太からお友達の話聞いたこと最近は全然なかったもの。聞いてみたかったけど、触れてはいけないのかしらと思って聞けなかったわ」

 どうやらよほど俺が何も話してくれなかったのを自分の責任だと思っていたらしい。悪いことしちゃったなと今になって後悔する。

「でも、今日こうしてお友達の話が幹太の口から聞けてよかったわ」

 母さんは、笑った。優しくて穏やかな笑顔で。

「私にお友達のこと話してくれてありがとう。お母さんすごく安心した」

 まだ俺を子どもだと思って諭すような母さんの口調に少しだけ照れくさくて落ち着かなくなる。

 友達なんていつぶりだろう。もちろん前の学校にも友人と呼べる人はいたけれど、あくまでもそれはその場だけの限り。休みの日に何をしていたとか何が好きだとか、そういうのは詳しく知らない。お互い深くは話し合ったことなかったから。

「だけど、一つだけ心残りだわ」

 そう言って頬に手を添えて、どうしましょう、と悩みだす。

「母さん、どうしたの?」

 まだ俺は母さんに心配をかけているのだろうか。

「幹太は今、好きな子いないの?」

 突飛なことを告げられて、まるで狐につままれたようにきょとんとした表情を浮かべた。

 〝……好きな子いないの〟?

 驚きすぎて危うく口から心臓が飛び出るかと思った。

「……なに、言ってるの」

 ようやく意識を取り戻した俺は、笑い飛ばす。

「なにって好きな子よ。いないの?」
「い…ないよ、いるわけない」

 動揺しているせいで口の中は急速に乾いて舌がうまく回らない。

「幹太、お母さんのことは騙せないわよ」

 俺の顔を真っ直ぐ見据えてそう言ったあと、ふふふと口元を緩めて笑ったのだ。

 どうやら母さんは気づいているらしい。俺に好きな人がいるのだと。女の勘ってやつなのだろうか……?

「それでどんな子なの?」
「いやだからいないって!」
「もう嘘だと気付いているのよ」
「嘘じゃ、ないって……!」

 しばらく攻防を繰り返したけれど、先に白旗を上げたのは俺だ。「……分かった、言うよ」母さんから逃げることは不可能だと観念して仕方なく俺は諦めることにした。

「……バス停であった子」
「あら、バス停で? 学校の子かしら?」
「いや……大学生だって」

 どうせ嘘をついたって全部バレる気がしてならなかったから、一つ一つ白状してゆく。が、母親とこんな話をすることになるなんて正直恥ずかしくてたまらなかった俺は、居心地が悪くなる。

「あらあらあらぁ、大学生? まあ素敵な出会いだったのねえ」
「いや、べつにふつうだったと思うけど…」

 素敵な出会い、というにはいまいち欠けている。なぜなら俺たちが出会ったのはバス停留所だったから。
 きっと東京にいたらこんなことありえない。東京は人が多い。みんながみんないい人とは限らない。

「ふつうっていってもね、運命の人に出会える人なんてそう多くはないのよ。よくビビッときた!なんて言うけどみんながみんな運命の人と出会えるとは限らないの。だからね、幹太がその子と出会えたのは奇跡に近いことなのよ」

 〝運命の人〟〝奇跡〟とかって、現実味がない気がするけれど、栞里も似たようなこと言っていた気がする。

「幹太はその子のこと、ちゃんと心から好きになったんでしょう?」

 穏やかな表情を浮かべていた。

 まるで俺の心を悟ったかのように。もしかすると、どこかの物陰でひっそり俺たちの会話を聞いていたのかもしれない──なんてそんなふうに思ってしまう。

「……それはまぁ」

 〝好き〟の代わりの最大限の譲歩。

「だったら幹太にとってその子は運命の子なのかもしれないわね」

 この町に来なければ、きっと考えなんて変わらないでずっと世界を憎んでたし恨んでた。どうして俺の人生はこうなんだろうと。不公平な世の中に何の期待もしなかった。
 運命とか奇跡とか全く信じていなかったけれど、この町にきてその考えは変わった。

「どうかなぁ……」

 俺と栞里は、偶然出会えた。あの道が帰り道だったからバス停にいたのが栞里だったから。この二つが重ならない限り、俺たちが出会うのはゼロに近かった。
 きっと今頃出会えていないかもしれない。お互いの存在を知らぬまま、この町で過ごしていたかもしれない。

「ねえ幹太。お母さんその子に会ってみたいわ」

 なんの前触れもなく落ちてきた言葉。まるで雷に打たれたかのような衝撃が頭の中を走る。

「なに、言って……」

 ようやく口を開けたが、そのあとの言葉が続かずに金魚のように口をパクパクする。

「幹太がここまで変われたのはその子のおかげなんでしょう? お母さんなんとなくだけどね、そう思うのよ。幹太が初めて好きになった子はどんな子なのか最期にこの目で見てみたいの」

 口元に弧を描いて、穏やかな表情で笑った。

 まくし立てられる言葉の半分も頭に入らなかった代わりに、最後の言葉に引っかかる。

「最期って母さん……!」

 俺が少しだけ声を荒げる。

「あら、ごめんなさい。今のはつい癖で」

 まるで自分の寿命を悟っているかのような口ぶりに、俺はいつも罪悪感を募らせる。
 母さんは長生きしたくないのかなとか、俺のせいなのかとか頭を巡らせて不安だけが先走る。

「でもね、ほんとに見てみたいの」

 栞里をここへ連れて来るなんて不可能だ。俺が一方的に好きなだけで、栞里には好きな人がいる。

「それは……」

 何も言えなかった。

「無理言ってごめんなさいね。幹太、今のは忘れてちょうだい」

 代わりに母さんは諦めて、苦い笑みを浮かべる。

 それからは何事もなかったかのように時間だけが過ぎて行ったんだ──。

 ◇

  それからしばらく母さんの言葉が頭を離れなかった。
 ある日の放課後。

「幹太くん、ぼーっとしてるけどどうしたの?」

 なんの脈絡もなく告げられた言葉に、え、と困惑した声を漏らす。

「……俺、ぼーっとしてた?」
「うん。さっきからずっと空見上げてたよ」

 無意識のうちに俺はブランコで黄昏ていたみたいだ。

「鳥でも飛んでたのかな」

 羽根を広げて自由に空を飛ぶ鳥を羨ましいと思っていたのだろうか。

「幹太くん、鳥なんて飛んでないよ」

 事実を告げる栞里に「え、あっ…」言葉を詰まらせたあと、空を見上げるとたしかに鳥は飛んでいなかった。一匹も。

「何か考え事でもしてたからあんなにぼーっとしてたんじゃない?」
「いや、それは……」

 ざわざわと胸騒ぎが起こり、急速に口の中は乾いていく。
 言葉に詰まって黙り込む俺に「あのね」重たい口を開いた栞里。

「幹太くんが何かを考えてるのは前から気づいてたんだけど……触れていいのか分からなくて今まで聞くことはできなかったの」

 突然、違う方向から現れる矢は的確に的をついてきて、胸がどきりと音を立てる。

「でもね、幹太くんが辛そうな顔をするときがあって……もう見ていられなくなっちゃって……私じゃ幹太くんの力になってあげられないのかな」

 いつもひまわりのように笑っていた栞里が、今はとても悲しそうに眉尻を下げてか細い声で告げる。
 わずかに揺れる瞳とぶつかって、「あー…えっと…」俺は目を逸らす。

「それとも私、頼りない?」
「そういうわけ…じゃ、ないけど…」

 母さんの話を栞里にしたってきっと重荷を背負わせてしまうだけだ。これは俺の胸だけに閉まっている方がいいに決まってる。

「一人よりも二人って……二人でつらいこと分かち合った方が幹太くんの心も少しは楽にならないかな……?」

 栞里の優しい音色を奏でるような声に、心がほだされる。

「……俺の話、聞いてもらってもいい?」

 厳重に鍵をしていた深層の奥深くにあるものがぽつりぽつりと紐解かれていく。
 一瞬だけ目を白黒させたあと、ゆっくりと首を縦に振った。

 張り詰める空気に緊張してのどがカラカラするような切迫する焦りが俺を襲う。
 だけど、話すって決めたんだ。俺は、すーはーと呼吸を整えてお腹の真ん中に力を込める。

「俺の母さんが、栞里に会いたいって言ったんだ」

 突然の言葉にキョトンとした表情を浮かべ、しばらく固まる。頭の上にはスマホの丸いクルクルが回っている。処理に時間がかかっているらしい。

「……幹太くんの、お母さん?」

 話の全貌が見えなくて、目を白黒させながら俺に尋ねる。

「母さんが最期の願いって言ったんです」

 あまり重たくならないように、あっさりと説明しよう。

「俺の母さん、病気なんです」

 口から溢れた言葉は、思っていたよりもふわふわと軽かった。

「──えっ……」

 だけど、突飛のない言葉に栞里は目を大きく見開いて固まった。「……病気」その言葉を飲み込めずに反芻して、目を落とす。

「病気であまり長くはないみたいで……はっきりと余命を聞いたことはないけど、本人は何となく分かってるのかなって感じで……」

 余命は聞いたことはない。が、父さんは恐らく知っているだろう。母さんも何となく察しているようだ。

「それでこの前友人の話になったんだ。栞里のこと話したら、だったら会ってみたいって言われて……あっ、でももちろん俺は無理だって言ったんだよ。予定だって合わないだろうし、いきなり親に会うなんておかしな話ないし…」

 母さんに〝最期〟だと言われても、それだけはどうしても頷いてあげることができなかった。

「いきなりこんな話してごめん。重荷背負わせてしまったよね」

 うまい言葉が見つからなくて「いや、えっと……」栞里さんは視線を右に左に動かしながら、必死に言葉を探しているようだった。

「断ってくれて構わないから……」

 ──いや、やっぱりこんなこと栞里にお願いするの間違ってる。

「やっぱり断ってほしい! いやっ、その前にこの話聞かなかったことにしてもらってもいいかな?! 俺からは無理だったって言っておくから……!」

 慌てたように言葉を取り繕う。

「──大丈夫だよ」
「だよね、わかった!」

 ……ほらみろ。やっぱり無理だったじゃないか。

「…………え?」

 頭の中が真っ白に抜け落ちるような衝撃が起こる。

 俺の耳がおかしくなったのかと目を白黒させたあと、もう一度栞里を見つめた。

「だから、大丈夫だよ」

 口元に弧を描いて笑った。

「……だ、大丈夫って……」
「幹太くんのお母さんに会ってくれってやつ」
「いや、あの……え?」
「だから大丈夫だって」
「………」

 頭がパンクして金魚のように口をパクパクさせる。ちょっと待って。一旦、俺の頭を整理しないと……

 〝幹太くんのお母さんに会ってくれってやつ大丈夫だよ〟

「……ほんとに?」

 雷に打たれたような、呆気にとられた不思議な顔を浮かべる。

「さっきからそう言ってるよ」
「だ、だって、まさか承諾してもらえるとは思ってなくて……」

 ふつう異性の友人の親に会ってくれと言われていいよと答える人の方が少ないはずだ。この手の模範解答は、えーやだ! 無理むり!と答えるのが妥当だろう。

「幹太くんのお母さんだからこそだよ!」

 告げられた言葉に困惑して、え、と声を漏らす。まるで狐につままれたような顔でぽかんとする。

「幹太くんがすごく優しい子だから会ってもいいかなって思えるの!」

 処理中にエラーが出て俺の頭はうまく読み込めなかった。代わりに赤いランプが点滅する。

「幹太くんは優しいの。その幹太くんを育てたのはお母さん。だからきっと、お母さんが優しい人なんだろうなぁって思ったら会ってみたくなっちゃって」

 そう言って口元に弧を描くから、その表情を見て俺は胸が熱くなった。

 俺が誰かに母さんのことを話したのはこれが初めてだ。
 どうせ打ち明けたってみんなが困るだけだ。病気なんて聞いて誰が嬉しがるんだ。眉を下げて困った表情を浮かべるだけだろう。
 だから、当然言えなかった。誰にも。

 ──それなのにずっと言えなかった秘密を、どうして栞里はこんなにもすんなりと受け止めてくれるのか。

 もちろん最初は栞里も戸惑っていた。なんて言葉をかければいいか迷っていたし戸惑っていた。だけどそれは、最初の一瞬だけであとは全部優しかった。全部優しい言葉だった。

「……好きな人はいいの? 親に会ったなんて知られたらその人、勘違いしちゃうかもしれないよ」

 込み上げてくる感情をぐっと堪える。

「なに言ってるの幹太くん。それとこれは話がべつだよ」
「いや、でも……」
「大丈夫だから心配しないで」
「だけど……」

 俺は顔を下げた。合わせる顔がなかったから。

 ──ザッ、と短い何かがすれる音が聞こえたあと「幹太くん」栞里の優しい穏やかな声がポツリと落ちる。

 水面に一滴の水が落ちて波打つように、俺の心は栞里の声に引きつられるように顔をあげる。
 栞里はブランコから降りて俺の目の前に立っていた。ぶつかった視線さえも優しくて、その綺麗な瞳に吸い込まれそうになる。

「私がいいって言ってるの。大丈夫って言ってるの。だから、幹太くんが心配する必要はどこにもないんだよ」

 俺の手を握りしめて、花が咲いたように笑った。
 強くて、だけど優しい手のひら。

「だからさ、お母さんの願いをちゃんと叶えてあげよう?」

 温かくて優しくて、そこから伝わる鼓動が手のひらを伝って流れてくる。

「……ありがとう、栞里」

 ぐっと涙を堪えるように下唇を噛んだ。

 好きな人の前では泣きたくない。弱いやつだと思われたくない。かっこ悪いところは見せたくない。
 それは全部、俺の強がりだった──。

 それから数日後。学校が休みの日、栞里と出会ったあのバス停留所で待ち合わせをして二人で初めてそのバスへ乗った。
 誰も乗っていないバスに俺と栞里の二人だけ、一番後ろは特等席。開けた窓からふわりと風が入り込み、栞里の髪を攫う。透き通るような可憐な可愛さに人目をひく。それほどまでに栞里は美しかった。この世界の人物じゃないと思うほどに。

「あら、幹太」

 病室の引き戸を開けると、母さんが俺に気づいた。俺のあとに栞里が続く。

「あらまあ。もしかして幹太の……?」

 目を白黒させて大きく見開いた。

 母さんには、栞里が俺の好きな人だと知ってても本人には内緒にしてほしい、とメッセージを送っていた。もちろんそれに承諾してくれた。
だけど、それを忘れて母さんの口から〝俺の特別な人〟という言葉が出てしまわないかそわそわして、落ち着かなくなる。

「うん、友達!」

 やや強めに〝友達〟を強調した。

 いつもは俺か父さんのどちらかだけしか面会に訪れないから飽きていたのかもしれない。栞里を見た瞬間、母さんは元気を取り戻したように微笑んだ。

「はじめまして、栞里です」

 俺の隣へ並ぶと、自己紹介を始める。バスで待ち合わせする頃にはすでに彼女は、お見舞いの花を、と言って持って来ていた。それを母さんへ渡すと、「あらまあ綺麗だわ、ありがとう」そう言って花の匂いを嗅いで目を細めて微笑んだ。

「幹太、これお願いしていいかしら」
「うん、いいよ」

 母さんから花を受け取ると置きっぱなしの花瓶を持って病室の端に設置されている洗面台に向かう。

「あっ、じゃあ私窓開けますね!」

 そう言うと、窓の方へ駆ける。カチャっと鍵を開けてスライドさせる。ふわり、風が入り込み白いカーテンを揺らした。

「今日はすごくいい風吹いてますね!」
「ええ、そうね。ほんと気持ちがいいわ」
「海もすごく見えますよ! 私、この町の海すごく好きなんです!」
「あらそうなの? 私もね、この町の海が好きでこっちへ引っ越して来たの」

 母さんと栞里が話している姿を見て違和感を覚える。

「幹太とはどうやって出会ったの?」

 不意に母さんが尋ねるから、慌てた俺は振り向いた。

「ちょ、母さん……!」
「なあに、幹太。ちょっとくらいいいじゃない」

 母さんがあどけない表情で笑った。それに続き栞里まで笑う。俺だけがそわそわして落ち着かない。

「幹太くんとはバス停で出会ったんです。私がバスを待っているとき、すごい風が吹いて私の帽子が飛んだんです。それを偶然通りかかった幹太くんが拾ってくれて」

 俺の気持ちなどお構いなしに、ひまわりのような笑顔を浮かべながら話し始める。

「この町の子は大抵自転車を使うことが多くて、あとはみんな電車通学なんです。それに私がバスを待っているとき、あの道をあまり高校生通らないんですよ。部活の時間と被ってるから」

 たしかに栞里がバスを待っているあの時間は、ちょうど部活動の時間と重なっている。
だから、俺以外の生徒はほとんどが学校だ。

「だから幹太くんが通ったとき、私すごくびっくりしたんです。少しでも時間がズレたら絶対に出会うことなかったから……そう思うと、この出会いはすごく奇跡みたいなんだなぁって思って。それと同時にこんなに優しい子に出会えて私ラッキーだなぁって思いました」

 ぱあっと花が音を立てて咲いたように、記憶をたどるようにしてぽつりぽつりと答え始める。

「あら、そうだったのねえ。幹太ったらバス停で会ったとしか言ってくれなかったから」
「……同じ意味になるだろっ」
「それはそうだけど、お母さんはもっと具体的に知りたかったわ」

 なかなか終わらない話にそわそわして落ち着かなくて居心地が悪くなる。母さんが余計なこと言わないといいけど……

「栞里ちゃんは大学生なんですってね」
「あ、はい。ここより少し先にある大学に通ってます」
「あらそうなの。それは知らなかったわ」

 目を白黒させたあと、口元を緩める母さん。

 どうやら俺たちは、まだこの町のことを理解しているわけではなかった。
 
「この子、栞里ちゃんから見てどうかしら?」

 突飛なことを尋ねる母さんは、彼女のことをすでに〝栞里ちゃん〟と呼んでいる。

「私の方が年上のはずなのに幹太くんの方がしっかりしてるような気がしちゃって、いつも助けられてますよ」

 栞里がそう言うと「あらそうなの?」目を白黒させたあと、俺へと視線を移す。恥ずかしくなってたまらず顔を逸らす。

「ずっと病院にいると知りたくても知ることができなくてね、この子の普段のこと分からなくて」

 少しか細い声が落ちるが、「幹太くんなら大丈夫ですよ」力強く断言されるような言葉に母さんは、え、と困惑する。

「ちゃんとしっかりしてます。自分のことなんか後回しにしちゃうくらい優しくて、温かい人で……私も何度も助けられましたよ」

 そう言うと、大人びた表情を浮かべて笑う。

「今では二人乗りして坂を下っちゃうくらい、私と幹太くん仲良しですよ!」

 それを聞いた母さんは「あらあらあらぁ」口元に手を当てて、ちら、と俺を見て笑う。まるでからかわれている気分になり、恥ずかしくなった。

「ちょ…もう、いいでしょ」

 さすがにこの空気に耐えられなくなった俺は頭を掻いて椅子から立ち上がり窓際に避難する。
 窓から入る風は、柔らかくて心地よかった。

「栞里ちゃんがここに来てるなら私のこと聞いてると思うけど──」母さんの言葉に意識だけを向けながら、視線は窓の外を向く。

「私、病気なの。それも末期のガン」

 不意に告げられる言葉に驚いて、身体ごと母さんに向ける。

「進行が結構早くてね……前の病院で治療をしたんだけど完治はしなかったの。その治療も何回もできるわけじゃないみたいでね」

 あまりにも突然すぎる病気の話題に俺は気が気じゃなくて、母さんと栞里を交互に見つめた。心臓が早鐘となって胸を突き続ける。

「薬で痛みをとったり進行を遅らせたりすることは可能なんだけど、完治するわけじゃないってお医者さんは言ったわ。それを言われたときは私もすごくショックだったの」

 俺も詳しくは知らない。ただ、完治はしないということだけを父さんに聞かされていた。

「だけどね、落ち込んでばかりで残された時間を過ごすのはもったいないじゃない? そう思ったらね、好きな景色が見える病院に移りたい。そう思って家族に相談したわ。そうしたらお父さんも幹太もいいよって言ってくれてね」

 母さんは病気になってから落ち込むことも増えたけれど、俺の前では決して泣かなかった。
 俺の記憶の中にいる母さんはいつでも笑顔で、そして前向きな芯の強い人だった。

「幹太は、十七年間慣れ親しんだ東京を離れていきなり知らない土地に引っ越して……幹太にはすごく申し訳ないことをしたと思ってる」

 また俺のせいで母さんは罪悪感を抱えている。それがすごく嫌で「母さん!」止めに入るけれど、「ちゃんと話をさせて」そう言われて俺は言葉をなくす。

 弱々しい声なのにどこか芯のある声。