「……内容にもよるけど」
栞里に言い負かされた俺はあだ名呼びをやめさせるのすら降参した。
合わせていた両手を今度はもじもじと指遊びをするように絡ませながら「えっとね…」と口ごもる。どうやらよほど言いにくい一生のお願いらしい……そう思ってゴクリと固唾を飲む。
「かんちゃんの自転車の後ろに乗せてほしいの!」
浮き浮きして、顔の皮膚までがしっとりと輝き出す栞里。
「……自転車の後ろ?」
それを聞いた俺は、まるで狐につままれたような気分になり、きょとんとした表情を浮かべた。
「あっ、急にびっくりしちゃうよね。ごめんね」
「いや、べつに大丈夫だけど……なんで自転車?」
軽い気持ちで尋ねると、一瞬驚いたように目を白黒させた。
「実はね、私一度も自転車に乗れたことがないんだよね」
そう言って悲しそうに笑った。
咄嗟に俺は、触れてはいけない部分に触れてしまったのだと思った。「ご、ごめ─」謝ろうかと思ったけれど、栞里の言葉が重なった。
「何度も練習したけど、やっぱりどうしても怖くて私だけ乗れなかったんだよね。その間に妹は乗れるようになってすいすい漕いで気持ちよさそうに風を切ってたの……」
絹糸のようなか細い声に、切り傷が風に吹かれるように心が痛くなる。
「ほんとはね、こんなこと年下の幹太くんに頼むの間違ってると思うんだよ? でも、頼める相手がいなくて……」
〝かんちゃん〟呼びから〝幹太〟へと戻る。
その瞬間、栞里の心も嘘ではなく本心なのだと理解する。
「どうしてもね、一度でいいから風を感じてみたいなぁって思ったんだけど……やっぱり幹太くんにお願いするの間違ってるのかな」
太陽が雲間に入ったように顔が曇る。
本来ならここは好きな人に頼むのがふつうなのだろう。だから「好きな人に──」咄嗟にのどまで出かかったが、やめた。なんだか今、それを持ち出したくなかったからだ。ごくりとのどの奥に押し込んだ。
「頼む相手、俺でよかったの?」
代わりにそんな言葉を落とす。
今ならまだ引き返せる。栞里に選択肢を与える。
「……幹太くんにお願いしたいの」
か細い声が少しだけ太くなる。
栞里が想いを寄せている相手には、どうしたって敵わないと知っている。
だけど、頼る相手に俺を選んでくれた。今だけは彼女の特別でいられるような気がした。
俺の心は幸福感で満たされる。
「ほんとに?」
「…うん、ほんとだよ」
「俺の自転車の後ろでいいの?」
「…幹太くんの後ろがいいの」
──ああ、何度だって聞きたくなる。一言一句大切に漏らさぬよう、しっかりと頭の中にインプットさせる。
「じゃあ今回だけ特別だから」
顔が緩みそうになるのを必死に堪えてかっこつけたことを言うと、栞里の顔にぱっと花が咲いた。
その笑顔を見て、胸が早鐘を打ったのは言うまでもない──。