「楽しかったこととか嬉しかったことって何年経っても忘れることなく、しっかりと色づいてるんだよね。幹太くんもそういうことない? 子どもながらに鮮明に覚えてることって」
尋ねながら俺の方へ顔を向ける。横から風が吹いて、顔にかかる髪の毛を掬いながら耳にかける姿を見て、どきっと胸が早鐘を打つ。
「あるよ一応」
深層を覗き込むように記憶の奥へ進めば、昔懐かしい記憶が次々と溢れてくる。
「東京の花火大会で人の多さに迷子になりかけて恐怖刻まれたかなぁ」
「えー、そんなことあったの? 東京って怖いねぇ……」
「ああ、それとかき氷食べたかったのに人の多さでぶつけられて一口も食べずに捨てたこととか熱々のたこ焼きで口をやけどしたこととか」
次から次へと溢れる言葉に懐かしさを感じながら口角を緩めていると「えっ!」声を上げて鳩に豆鉄砲を食らったような表情を浮かべる栞里。
「たこ焼き食べる前にふーふーしなかったの?!」
「なんか一口で大きなたこ焼き食べたくなっちゃうときってない?」
「ある! …けど子どもの頃にそれやっちゃうと絶対やけどしちゃうじゃん!」
小さい頃に植え付けられた記憶は、俺にとって苦いものとなった。もちろんたこ焼きのせいで熱い食べ物は、冷めないと食べられないというおまけ付きだ。
「まぁ、だからいまだに軽くトラウマだよ」
「そっかぁ……それはちょっと苦い思い出だったね」
苦い笑みを微かに含んだあと「じゃあさぁ」と何かを思いついたように顔をぱあっと輝かせて、俺を見つめた。
「この町で新しく思い出を上書きすればいいんじゃない?」
「……え?」
「花火大会の思い出が苦いままなんてなんだかちょっぴり切ないでしょ?」
そこまで子どもの頃の記憶を問題視しているわけではない……なんてこと口が裂けても言えないから「…まぁ」適当に相槌を打つ。
「だったらなおさら! この町の花火大会ね、すごいんだよ!」
ぱっと音を立てて花が咲くような笑顔を浮かべる栞里。
「空気が澄んでるからかなぁ。東京の花火見たことないけど、絶対こっちの花火の方が綺麗なんだって思えるの!」
表情は水に濡れたように生き生きとする。
「そんなに綺麗なの?」
「そりゃあもう……っ!」
ぐっと拳を握りしめて目をキラキラと光らせる。瞳孔が開いているようだ。
「とくにね、海に反射する花火がすっごく綺麗なんだよ! 夜空を照らす花火と海面を彩る花火はもうね……一度見たら忘れられないよ!」
熱を込めたようにまくし立てられた言葉に、呆気に取られてぽかんと固まる。
「最近はね、観光客もすごいんだよ。ここの噂を聞きつけて夏になると訪れるの。すごーくたくさんの人で溢れかえるんだよ。今年もね、すごく賑わってたの!」
まるで新しく生まれ変わり世界に飛び出したばかりの生き物のように生命力を身体中から発していた。
「でも残念。あともう少し早くに幹太くん引っ越して来たら花火見れたのに、おしかったね」
今度は苦い笑みを含ませながら、子どもをなだめるような言葉を告げられた。
夏の風物詩の花火大会とか全く興味がなかった。小さい頃のトラウマのせいもあるけれど、あんな人混みの中、わざわざ近くまで行って花火を見て帰りどれだけの時間をかけて家まで帰るのかを計算すると今さらながらにゾッとする。
だけど、田舎ならここは特等席だ。夏になると観光客が訪れるといっても、東京ほどではないだろう。ここじゃなくてもあちらこちらから花火を見上げることも可能だ。
目の前を何も遮るものがないと、ここから見える花火はすごいのだろう。
夜空に浮かぶ無数の色鮮やかな花火や身体の奥にまで響く芯のある音を想像しただけで、少し身震いしそうになる。
「そこまで言うなら見てみたかったなぁ」
「残念だけど花火は来年までおあずけだね」
嬉しいような悲しいような、それが複雑に絡み合う表情を浮かべた栞里。
「来年かぁ……」
反芻しながらぽつりと呟くと、胸に開いた風穴に冷たいものが吹き抜けていく。
きっとその頃には、栞里と過ごすこともないんだろうなぁ。
展望台に吹き付ける風は強かった。
海から流れてやってくる潮風は、びゅうびゅうと少し荒々しいほどの音を立てながら面と向かって吹きつける。まるで地面全体が震えているような音だ。
──に"ゃーーお"
不意にどこからともなく鳴き声がした。
「……今の猫?」
「どうかな……」
お互い顔を見合わせる。栞里は、苦い笑みと困惑した表情が複雑に絡み合っていた。
「んに"ゃーあ」
俺の足元へ姿を表したのは、何となく見覚えのある猫だった。──というのも国崎が言っていた柄と瓜二つの猫だったためだ。
「やっぱり猫ちゃんだったんだ!」
ホッと安堵するような表情を浮かべた栞里は、顔色に明るさが戻る。
かがんで小さな頭を撫でると、に"ゃーお、と鳴いてすりすりと俺の手に擦り寄ってくる。どうやらこの町の野良猫は人見知りという言葉を知らないみたいだ。
「すごい、七三分けの猫ちゃんだねぇ」
「見たことある?」
「キジ柄とか三毛猫は見るけど、この子は見たことないかなぁ。ちょっと特徴的な名前だよね」
おでこに七対三くらいで黒い毛をした柄だった。前髪に見えなくもない。気が緩み、広角を上げていると「よしっ!」声が落ちてくる。
「この子の名前は、さんちゃんに決めた!」
平らな水のおもてにいきなり水を投げられたように、心は波立ち騒いで落ち着かなくなった。
「幹太くんどうかした?」
「あ、いや…」
〝さんちゃん〟という呼び方に急速に手繰り寄せられて口の中が乾いてくる。
「最近七三分けの猫を見かけたって子がいるんだけど、その子も栞里と同じ名前つけようかなって言ってたのを思い出して……」
ついでに嫌な記憶まで蘇り、眉間にしわを寄せる。
「その子もさんちゃんって言ってたの?」
「うん、全く同じ」
「じゃあやっぱりこの子はさんちゃんって命名しよう!」
ぽんっと手をついて、七三分けの猫を見て「さーんちゃん」と呼ぶが、猫は当然無視。代わりに俺の顔を見て、に"ゃーお、ともう一度呼んだあと、ぷいっと背を向けて歩き出す。
「あーあ、行っちゃったぁ……」
猫が階段を器用に降りてゆく。先ほどまでとは打って変わって太陽が雲間に入ったように顔が曇る。
「猫ってツンデレって聞くよね」
「うーん、そうだけどさぁ……」
猫が降りて行った螺旋階段を見下ろしながら、背中で風を受け止める。
ここは思いのほか風が強くて栞里の華奢な身体は雲のようにふわふわと飛んでいきそうだ。
「今度また現れると思うよ」
「そうかなぁ……」
風に攫われる髪の毛を抑えながら顔を悲しそうに表情を曇らせた──。
◇
昼休みになると購買でパンを買ってきた亮介が、椅子を引いてどかっと俺の前に座った。
「もう九月も半分過ぎてんのにまだ暑いのなぁ」
ばりっとパンの袋を開けると、大口を開けて一口かじる。もぐもぐと咀嚼をして食べ終わるとまたかじって──を繰り返す。
「…なんでここで食べてるわけ」
「なんでって友達じゃん。一緒に食べるのは当たり前だろ」
──は? 友達?
「……誰と誰が」
心の中にまさかと、もしかしてが錯綜する。
パンをかじろうとしていた亮介はかじるのをやめて、一瞬きょとんとしたあと「ああ」とことの流れを理解する。
「俺と幹太だろ」
だろ、ってさも当然かのような言い方で。
「友達じゃないし」
歯の隙間から言葉を絞り出すように声を漏らす。
ほんと意味が分からない。許したわけじゃないのに勝手にそこに居座るし、ずかずかと土足で心の中に踏み込んでくるし。うざいくらい人懐っこいし。
こいつが俺に話しかけるようになってからクラスメイトは俺と亮介を友達だと認識し始めたのか、当然のようにあいさつや軽い会話を持ちかける。少しずつ俺の生活が侵食されつつあった。
「知ってる? 友達ってな、もう気づいたときになってんだよ」
とっておきの打ち上げ話をするような芝居じみた声で調子に乗ったことを言うから、机の下ですねを蹴ってやった。
「いてっ」
わざとらしく声をあげたあと、ちらちらと俺へと視線を向ける。が、俺がそれに無視をしていると、冷たいなぁ、と笑いながら言って演技をやめた。
「もう、真由ってば!」
不意に国崎の声がする。ちら、と顔を向ければ彼女は友人と楽しそうに話しながら昼食を食べていた。
「なぁ…」
「ん?」
「なんでおまえたち写真部に入ったの」
そう尋ねると、雷に打たれたような呆気に取られた不思議な顔を浮かべていた。
写真部という文化系に属する部活は、人数集めに苦労する。それはどの学校も同じだろう。それなのになぜあえてその部活を選んだのか。
「廃部寸前だってこと、入部する前から分かってたんじゃないの」
わずかに目線を下げたあと「あー…」どこか気まずそうに、ちら、と国崎の方を見た。
「茜音が写真部に入りたいって言ったから」
つい今しがた芝居をしていたやつと同一人物だとは思えないほどに、表情も声も寂しげだった。
なんとなく予想してはいたけれど、やっぱり国崎のために入ったのか。
「そんなにあいつのこと好きなんだな」
そう声を落とせば、キョトンと鳩のような顔つきで固まった亮介。ハッとして「や、違う!」慌てたように椅子から立ち上がるが、クラスメイトの視線を浴びて恥ずかしくなったのか、顔をりんごのように真っ赤に染めながら静かに座る。
「幹太のせいで恥かいただろ!」
「はあ? だってほんとのことだろ」
「いや、まぁそうだけど……ってそうじゃなくて!」
声を荒げたあと、あーでもないこーでもないと頭をしばらく悩ませる。急に歳をとったかのように顔色が濁る。
「……部活に入部した理由は違うっていうか……」
記憶を手繰るようにしてぽつりぽつりと答え始める。
「茜音が、どうしても写真部がいいって言うから。それに思い出に残る景色を撮りたいって言って聞かなかったんだよ。でもあいつ、一人突っ走るところがあるから心配で…」
一度国崎へと目を向けた亮介の表情は、胸に恋心を秘めている苦しさと、妹思いのような切なさが絡み合っているようだ。
「まぁでも、あいつのこと好き……だったし別に入ってもいいかなって思ったんだよ」
「……ふーん」
こいつ今、のろけたことにも気づかずに話を続けたな。聞いてるこっちがむず痒くなるっつーの。
「だけどさぁ、入部したのはいいけど思ったより部の人気がなくて、入ってすぐに廃部寸前って気づいたんだけどな」
乾いた笑みを浮かべたあと、思い出したようにパンにかじりついた。
どうやらこれで入部した説明は終わりみたいだ。国崎が写真部にどうしても入部したかったかは分かった。が、一つだけ答えが見えないものがあった。
「運動部じゃなくてよかったわけ」
不意をついたように尋ねると、亮介の笑みが一瞬固まった。その一瞬の動揺を俺は見逃さなかった。
「亮介、サッカー部とかバスケ部が似合いそうじゃん」
黙る亮介に言葉をたたみかける。
少なくともこいつが自ら文化系の部活に行くとは思えない。実際に国崎のためだったし。ほんとは他に入りたい部活があったんじゃないか。
「幹太には嘘つけないなぁ…」
観念したように苦い笑いを浮かべたあと、頭を掻いた。
「まぁたしかに、サッカー部に憧れはあったんだ。中学の頃はサッカー部がなかったから、高校に入学したら入部してみたいって思ったこともあった」
穏やかな表情の裏に堪えられている深い悲痛な思いを感じた。
その姿にどこか見覚えがあったのは、過去の自分と重ね合わせていたからだ。
こいつも俺も同じで、何かを手放した。それは自分の大切な人を守るために──だ。
「まぁでもこれでよかったんだ。これで……」
まるで自分を納得させるように呪文を唱えるように繰り返す。
だから俺は聞いてみたくなった。一歩、踏み込んでみたくなった。彼らの世界に。
「国崎とは実際どういう関係?」
突飛なことを俺が尋ねるから、きょとんとした顔を浮かべた亮介。しばらくして「ああ」と頷き笑うと。
「──幼馴染みだよ、小学生からの」
一言一句確かめるように言ったあと、清々しい表情を浮かべた。
「その頃からわんぱくな女の子って感じでさ。いつも傷を作って帰って来るようなやつで……まぁ今は昔よりマシになった方なんだけど」
記憶をたぐるようにしてぽつりぽつりと答え始める。
「昔はよく俺がいじめられててさぁ、それを茜音がヒーローのように助けてくれたんだよな。しかもそれが強くてかっこよくてさ」
「……国崎がヒーロー?」
「そんなふうには見えないだろ? でも、小学低学年の頃まではすごい強かったんだよ。男子を泣かすくらいあってさぁ」
埋もれてい古い記憶を呼び起こしながら、紙のように顔をくしゃくしゃにして笑った亮介。
「それに俺の家、片親なんだ。家に帰っても一人だったけど毎日のように茜音が遊びに誘ってくれて、そのたびに茜音の家でご飯まで食べさせてもらってさ。家族同然のように俺のことも接してくれたんだよな」
──悪い、咄嗟に言葉がのどまで出かかった。が、ここで謝るのは何か違う気がした。
「…そう、だったんだ」
だって、亮介は〝それ〟を自分の傷のように思って話しているわけじゃなさそうだったから。過去の一部として、堂々と話してくれた。
だから、俺は〝ごめん〟を飲み込んだ。
「だから茜音にはすごく感謝してるんだ」
俺には知らない十年を、この町で過ごしている。だからきっと、写真部に込める思いも人並みではない。だから彼らは俺に必死に頼んだってことか。
「……国崎、すごいやつなんだな」
初めの頃は大嫌いで、心底鬱陶しいと思っていたやつのことを尊敬に値するなんて、人間とは不思議な生き物だ。
「すごいやつだけど、実はそうじゃないんだ」
俺の言葉を肯定したあと同時に否定もした亮介に、え、と困惑して小さな声を漏らす。
「見た目はすごく強く見えるけど、根っこの部分はすごく弱いんだ。ただそれを隠して強がってるだけで……」
悲劇を独りで背負っているかのような深く沈んだ顔を浮かべたあと。
「だから、茜音のことを支えてやりたいんだ」
力強く発せられた言葉は、心の層のずっと奥深いところから泉のように湧いてくるようだ。
ずっと俺は、自分の世界だけが不幸だと思っていた。そして世界は不公平だと思った。
母さんが病気になって、もう治らないと知った。野球をやる気もなくなって、俺が幸せになることも諦めていたし、なってはいけないような気がしていた。だから、全部諦めて手放した。それがせめてもの罪滅ぼしだと思ったからだ。
だけど、それは俺の独りよがりで間違っていたみたいだ。
みんな何かを抱えている。悩んでいない人間なんか一人もいない。
東京にいた頃は、それが表面化していなかっただけで、もしかしたら友達も何かを悩んでいたのかもしれない。
「今まで助けられた分、今度は俺が茜音の力になってやりたいんだ」
そう言って笑ったあと、あいつには内緒だからな、と俺に口止めをした亮介は、どこか大人びた表情を浮かべていた。
同じ高校一年生なのに考えも性格も違って、俺なんかより幾らも上のような気がした。そう思ったら、──ああこいつには敵わない、なんとなくそう思ったんだ。
◇
ある日の休日の公園。
「なんか最近の幹太くん、すごく表情が穏やかになったね」
なんの脈絡もなく告げられた言葉に困惑した俺は、え、と声を漏らす。
「もしかして自分では気づいてない?」
「いや、まぁ、だってふつうだし……」
穏やかになったと言われても心当たりなんか一つもない……いや待てよ。もしかしてあいつらか?
最近、俺の身の回りで変わったことと言えば、亮介が当たり前のように昼休みに来るようになったことと国崎が気軽に声をかけるようになったこと。
一旦意識すると、それ以前の記憶が連鎖的に蘇ってくる。
「もしかしてその顔は心当たりがある顔かな」
そうなることを初めから見通していたような口ぶりをして見せて、口元に弧を描く。
「あんなのただ鬱陶しいだけだよ」
「どうしてそう思うの?」
「面倒なやつらっていうか……勝手に変なあだ名とか付けようとしたりするんだよね」
急速に手繰り寄せられる記憶に、思わずしかめっ面を浮かべる。
「どんなあだ名つけられそうになったの?」
顔にぱっと花が咲いたように目をキラキラと輝かせる。
「……かんちゃんって」
思いのほか俺の声は小さくて、隣にいる栞里に届いたのかすら曖昧だった。
「そのあだ名いいと思う!!」
ほんのわずかな静寂を貫くように盛大に響く栞里の浮き浮きした声に反応が遅れた俺は、ぽかんとした。
「私もかんちゃんって呼ぼうかな!」
だけど、暴走しかける栞里の声にハッとした俺。
「ダメ!」
「えー、なんで? かんちゃんって呼び方可愛くない?」
「ダメなものはダメ」
心をぐっと鬼にしていると、「ケチ〜」不貞腐れたように頬を膨らます栞里。それすらも愛しいと思ってしまうのだから、俺の特別な感情は末期らしい。
「──あっ!」
不意に声をあげた栞里は、ぴょんっと立ち上がり俺の前にやって来る。
どうやら切り替えが早いらしい。ものの数秒で立ち直る。
「かんちゃんに一生のお願いがあるんだけど!」
そう言って、ぱちんっと両手を合わせた。
〝……かんちゃん〟?
「いやいや、ちょっと待って! 今、その呼び方はダメだって言ったじゃん……!」
「そうなんだけど、ちょっとお願いがあって」
「そのこととあだ名は関係ないでしょ……!」
あだ名で呼ばれて、心が波立ち落ち着かなくなる。
「かんちゃん、私の一生のお願い聞いてくれないかなぁ……?」
再度、俺の前で力強く両手を合わせる。
そもそも〝一生のお願い〟という言葉を使う人は、過去にも何度か使ったことがあるはずだ。それはもう口癖のように。
「……内容にもよるけど」
栞里に言い負かされた俺はあだ名呼びをやめさせるのすら降参した。
合わせていた両手を今度はもじもじと指遊びをするように絡ませながら「えっとね…」と口ごもる。どうやらよほど言いにくい一生のお願いらしい……そう思ってゴクリと固唾を飲む。
「かんちゃんの自転車の後ろに乗せてほしいの!」
浮き浮きして、顔の皮膚までがしっとりと輝き出す栞里。
「……自転車の後ろ?」
それを聞いた俺は、まるで狐につままれたような気分になり、きょとんとした表情を浮かべた。
「あっ、急にびっくりしちゃうよね。ごめんね」
「いや、べつに大丈夫だけど……なんで自転車?」
軽い気持ちで尋ねると、一瞬驚いたように目を白黒させた。
「実はね、私一度も自転車に乗れたことがないんだよね」
そう言って悲しそうに笑った。
咄嗟に俺は、触れてはいけない部分に触れてしまったのだと思った。「ご、ごめ─」謝ろうかと思ったけれど、栞里の言葉が重なった。
「何度も練習したけど、やっぱりどうしても怖くて私だけ乗れなかったんだよね。その間に妹は乗れるようになってすいすい漕いで気持ちよさそうに風を切ってたの……」
絹糸のようなか細い声に、切り傷が風に吹かれるように心が痛くなる。
「ほんとはね、こんなこと年下の幹太くんに頼むの間違ってると思うんだよ? でも、頼める相手がいなくて……」
〝かんちゃん〟呼びから〝幹太〟へと戻る。
その瞬間、栞里の心も嘘ではなく本心なのだと理解する。
「どうしてもね、一度でいいから風を感じてみたいなぁって思ったんだけど……やっぱり幹太くんにお願いするの間違ってるのかな」
太陽が雲間に入ったように顔が曇る。
本来ならここは好きな人に頼むのがふつうなのだろう。だから「好きな人に──」咄嗟にのどまで出かかったが、やめた。なんだか今、それを持ち出したくなかったからだ。ごくりとのどの奥に押し込んだ。
「頼む相手、俺でよかったの?」
代わりにそんな言葉を落とす。
今ならまだ引き返せる。栞里に選択肢を与える。
「……幹太くんにお願いしたいの」
か細い声が少しだけ太くなる。
栞里が想いを寄せている相手には、どうしたって敵わないと知っている。
だけど、頼る相手に俺を選んでくれた。今だけは彼女の特別でいられるような気がした。
俺の心は幸福感で満たされる。
「ほんとに?」
「…うん、ほんとだよ」
「俺の自転車の後ろでいいの?」
「…幹太くんの後ろがいいの」
──ああ、何度だって聞きたくなる。一言一句大切に漏らさぬよう、しっかりと頭の中にインプットさせる。
「じゃあ今回だけ特別だから」
顔が緩みそうになるのを必死に堪えてかっこつけたことを言うと、栞里の顔にぱっと花が咲いた。
その笑顔を見て、胸が早鐘を打ったのは言うまでもない──。