どこまでも青い海は、あの日のきみと繋がっていた。


「仕方ないから幹太にこれあげるわ」
「なにこれ…」
「それね、お母さんがあなたたち二人に残したいものよ」
「残したいものって母さん……」

 またすぐそうやって自分の死期を悟ったようなことを言う。

 母さんの病気は末期で治ることはないけれど、だからといってすぐというわけではない。
 患者さんの強い意志があれば余命というものは無関係になる。一年でも二年でも長生きできますよ、と先生が言っていた。

「いいからみてちょうだい」

 俺に小言を言われるのを回避したように急かされる。

 ぱら、とめくった一ページ目に「からあげの作り方」そう書いてあった。写真付きで。分量も作り方も事細かに。

「それね、お母さんの秘伝の味付けよ」
「……え」

 おそらくそれは、自分がいなくなったあとのために、だろう。
 母さんは、もうそこまで考えている。俺たちのために。

「母さん……」

 一ページめくるごとに違う料理が写真付きで現れる。ぱらぱら、とめくり終える。最後のページまでびっしりと料理が記されていた。

「食べたいって思っても食べられなかったら寂しいじゃない? いずれば作っていかなきゃならないわけだし」
「それはそうだけど何もこんなに早くに渡さなくたって……」

 胸に開いた風穴に冷たいものが吹き抜けていく。

「うん。だから今は練習のつもりで……たまに食べたくなったときがあれば作ってみて。きっと美味しくできると思うわ」

 写真を見ると、食べた日の思いも感情も糸をたぐるように過去の出来事を思い出す。どれも食べたことのあるものばかりだ。
 一つ思い出せばあとは数珠繋ぎのようなもので、記憶のページを無意識にめくった。

「お母さんは、あなたたちにこんなことくらいしかできないけどね」

 一人一人幸せの形は違う。母さんにとって、俺たちにレシピを残す、それが今の幸せなんだろう。
 母さんの気持ちが痛いほど伝わって、胸が押し潰されそうなくらい苦しくなる。

「……母さん、ありがとう」

 俺はどうしようもないくらい幸せ者だ。そんなことを今まで忘れて、自分は幸せじゃないと思い込んでいた。

「母さん、あのさ」

 母さんは俺が幸せになることを許してくれるだろうか──。

「……俺、部活に入ることになったんだ」

 一言一句を慎重に丁寧に呟いた。
 すると母さんは、「あら」と言って表情が緩む。

「いつから入ってたの?」
「最近だけど……」

 部活に入部したことを説明するだけなのに、やけに緊張して急速に口の中が乾いてゆく。

「野球部に入ったの?」

 母さんの問いに俺は、ゆっくりと横に首を振った。

「写真部なんだ。人数が足りなくて廃部寸前だから入ってくれって…仕方なくなんだけど…」

 俺は、ずっと続けてきた野球を辞めた。自ら望んでそれを手放した。そんな俺が、今度は写真部だなんて笑うだろうか。呆れるだろうか。

「写真部なんてあるのね。いいじゃない」

 だけど、母さんから紡がれた言葉は全くの別物だった。

「お母さんね、写真好きよ」

 母さんは俺が生まれてから写真に収めて、それをアルバムとして残していた。それはもう一冊には収まらないほどに。

「やっぱり幹太にも写真好きが似たのかしら」
「そんなことないって…ただ廃部を免れるために入ってくれって頼まれて仕方なくだし」

 そもそも俺は、思い出を残すのは苦手だ。写真だって自分で撮ったことはない。母さんに似たわけじゃない。名前を貸すと決めたのも国崎たちがしつこかったからだ。

「だけど部活に入ることを決めたのは、幹太自身なんでしょ」
「いや、まぁそうだけど……」
「幹太が決めたならそれでいいじゃない。誰も責めたりしないわ」

 母さんは、俺が何かをして叱るような人ではなかった。俺が野球をやりたいと言い出したときも、否定など一切せずに『幹太がやりたいならやってみなさい』の一言で受け入れてくれた。とにかく母さんは優しかった。

「写真部、ほんとに楽しそうね」

 今みたいに自分のことのように喜んでくれる。今も、昔もそうだった。なんで忘れてたんだろう。母さんのこんな嬉しそうな顔見たの久しぶりだ。
 好きな野球を辞めて、母さんとの時間を増やしたつもりだった。つもりでいた。
だけど、母さんは俺が学校のことを話さなくなったことの方が寂しかったのかもしれない。

「幹太の撮った写真、いつかお母さんに見せてね」

 名前を貸しただけだから部活をするわけじゃない。写真を撮ることだってないわけだけれど。

「……撮れたらね」

 こんなに嬉しそうな母さんを悲しませるわけにはいかなくて、とっさに俺は嘘をついた。
 悪い嘘はよくないが、良い嘘ならきっと神様も許してくれるだろう。

「こんなふうに幹太がまた学校のこと話してくれるようになるなんて思ってなかったから、お母さん嬉しいわぁ」

 絹糸のようにか細い声は、少しだけ震えていた。

「病気が見つかってから幹太は、学校のことも話さなくなってあまり笑わなくなった。それがすごく心配だったの」
「母さん……」
「お母さんはね、幹太が……あなたが心の底から楽しんでくれることが一番嬉しいのよ」

 そう言って母さんは泣きそうな嬉しそうな顔をして微笑んだ。

 俺が好きなことを辞めても楽しくない毎日を送っても母さんは喜ばないなんてこと知っていたはずだったのに。

「母さん、ごめん……」

 俺は、なんてバカなことをしていたんだろう。今になって気づくなんて遅すぎる。

「なに言ってるの、幹太。謝るのはお母さんの方よ。今まで幹太にたくさん我慢させちゃってごめんなさいね」

 目尻に小さな皺を刻んで、ほのかに笑いを含んだ。

 母さんの言葉に「ううん」首を横に振る。

「これからは幹太が幸せだと思える人生を送ってほしいわ。だから、今度お母さんに幹太が見た景色を見せてほしい」

 一つ、二つ糸が解けると、あとはもうあっという間だった。

「うん、分かった。約束する」

 残された時間はあとどれだけなのか分からないけれど、限られた時間の中で強烈に残る思い出を作りたい。

 今までは、〝幸せ〟になることから逃れていた。

 だけど、今度は〝幸せ〟になることを望みたい。

 自分のためにも、母さんのためにも──。

 ◇

 栞里と連絡先を交換してから毎日のように連絡をするようになった。『今日はあの子とどうだったの?』『好きな子とは話せた?』『発展は?』などなど主に、俺の好きな子に関することばかりが送られてくる。

「なににやけてんの」

 スマホに夢中になっていると、どこからともなく声が落ちて来る。ちら、と顔を上げれば羽田が俺を見下ろしていた。

「……なに」
「いやあ、何でそんなににやけてるのかなぁって思って」
「にやけ……?」

 突飛もないことを告げられて、頭の中が一瞬で真っ白になる。

「好きなやつと連絡でも取ってんの?」
「……まさか」
「今、間がなかったか?」
「いや、ねーよ」
「いーや、あった! あったね!」

 初めの三日間くらいは部活の勧誘がすごかった。サッカー部や野球部やバスケ部などなど。もちろん東京についての質問もされた。知らない土地に憧れがあったんだろう。が、三週間近くが過ぎた最近、クラスメイトは騒がなくなった。

「好きな子どんな人?」

 だけど、羽田のやつだけはなにかと俺に付き纏う。

「だから、いないって」

 チッ、と舌打ちをするが怯む様子も見せずになーなーなーとまくし立てるからこちらも口調が悪くなり「いないっつーの」乱暴な言葉に早変わり。

 高校生ともなれば恋だの愛だの騒ぎたがる年頃なのも納得できる。が、それは女子だけの話だ。
 しかし、羽田は平然とした表情で好きな子について尋ねる。

 平らな水のおもてにいきなり水を投げられたように、心は波立ち騒いで落ち着かなくなった。

「そういう羽田はどうなんだよ」

 投げられた言葉にこちらも投げ返すと「……へ」と固まった羽田。しばらくすると表情はみるみるうちに赤くなる。

 ──こいつ、分かりやすい。

「好きなやついるんだ」
「いや、あの」

「もしかして国崎か」

 カマをかけてやったら、ますます顔がりんごのように赤くなる。

 ──ああ、図星か。

 ちら、と国崎へ顔を向けると、友人と楽しそうに話をしていた。まさかこんなところで自分が話題に持ち出されているとはつゆ知らず。

「ちょ……あんま見んなって、茜音にバレるだろ!」

 どこまでも正直者らしい。俺とはまるで対照的。場を和ませる才能があって、明るくて男女問わず人気者で。こういうやつは悩みなんか一つもないんだろうな。

「バレたらどうなんの」
「即振られるに決まってるだろ!」

 俺が見る限り国崎と羽田は仲がいい。お互いを下の名前で呼ぶくらいには。心を許していないと高校生ともなると異性のことを名前でなんか呼べない。それなのに二人は当たり前のように呼んでいる。

「言ってみなきゃ分からないことだってあるんじゃないの」

 まぁ俺には一切関係のないことだが。

「幹太おまえ……俺の味方?」

 突然、名前の呼び方が変わるから一瞬頭の中が真っ白になる。
 なんで俺のこと『幹太』だなんて気軽に呼んでるんだ? 俺、おまえの友達だったっけ? なんて一瞬俺も誤解しそうになる。

「なんで俺が羽田の味方しなきゃならないんだよ」

 一方的に友人ムードを漂わせるやつに少しだけ苛立って、頭の芯がチリチリと音を立てる。

 敵も味方もあったもんか。部活以外のことでまともに話したのなんて今回が初めてだというのに、いきなり名前で呼ぶなんて。そもそも俺は羽田のことを友人だと認めたわけではない。

「名字呼びとかやめろよ! 硬っ苦しいだろ?」

 突拍子もない言葉に、一瞬理解が追いつかなかった俺は目を白黒させる。

「ふつうに亮介……でいいし」

 口元に無邪気なあどけない笑みを浮かべていた。

 いい雰囲気を醸し出すところ悪いが。

「……呼ばないし」
「いや呼べよ!」
「なんでだよ」
「もう俺たち親友じゃん!」
「……は?」
「……え?」

 まるで漫才をしているかのような息ピッタリな掛け合いにお互い黙り込んだあと、フッと笑みが漏れる。

「二人してなにやってんの!」

 俺たちの間にひょっこり割って入ってきたのは、話題の中心にいた国崎だった。

「あっ、いやっ……べつに! なぁ、幹太!」

 さきほどまでの態度とは打って変わって狼狽える羽田は、慌てて俺に助けを求める。

「亮介いつのまに名前で呼んで……」
「さっき! さっき仲良くなったんだよ。な?」
「へえ、そうなの?」

 羽田に続いて国崎までもが俺を見る。

 つい最近まで犬猿の仲だったなんて誰が思うだろうか。もちろん俺は仲良くなったつもりはないし親友になった覚えもない。

「いや、べつにただのクラスメイト。……ああ、そのついでに亮介がこんなこと言ってたっけ。好きなやつがいるんだ、って一方的に」

 さっき俺をからかった仕返しだ。

「えっ、好きな人? 亮介好きな人いたの?」

 浮き浮きして、顔の皮膚までがしっとり輝きだすように笑いながら問いただす。まるで走り出したら止まらない機関車のようだ。

「いやっ、あの……」
「ねぇねぇ、誰なの! 私の知ってる人? それとも別のクラス?」

 どう誤魔化そうかと悩んでいる彼は、複雑そうな表情を浮かべながら俺を見る。
 だけど助けてやらない。俺たちは、親友でもなければ、たまたま偶然同じクラスだっただけだ。

「おい、幹太!」

 切羽詰まったように助けを求める亮介の顔は、悲惨なほど歪んでいた。俺は、広角を上げて笑った。

「──あっ、高槻くん笑った!」

 不意に俺に指をさして驚いた表情を浮かべるから、一瞬にして俺はクールダウンする。

「……そりゃ人間だから笑うだろ」
「いや、そうなんだけど……この前まで、高槻くん猫みたいだったから」

 国崎の口から溢れた言葉に「……は?」俺は反応する。

 ……俺が〝猫〟?

「……なに、猫って」
「この前の高槻くん、すごく私たちのこと警戒してたでしょ。だからそれが全身の毛を逆立てて威嚇してる猫みたいだったなぁと思って!」

 そう言ったあと「黒髪だから黒猫だね」と彼女は続けて笑った。

「やだよ猫とか」
「なんで? 猫可愛いじゃん!」
「そういう問題じゃないだろ」
「えー、そうかなぁ」

 例え方が嫌だって言ってるんだよ。

「そういえばこの町、野良猫がいるんだけどすっごく可愛いんだよ! 毛もつやつやしててね、人を見るとにゃーって鳴くの」

 思い出したように喋るから、話の収拾がつかなくなる。

「私、その猫に名前つけようと思って! さんちゃんとかどうかなぁ?」
「いや、どうかなって言われても……」

 俺、その猫見たことないし。見た前提で話を進めるなよ。

「さんちゃんはね、七三分けなの。だから〝三〟をさんちゃんって呼ぶことにしたんだ!」

 俺が尋ねてもいないことを勝手にしゃべりだすから、さすがの俺も頭が痛くなる。まるで頭の中で除夜の鐘が鳴り響いているみたいだ。

「なんか、幹太みてーな名前だな」

 今まで国崎に質問責めを食らっていた亮介が復活して会話の中に乱入すると、余計な言葉を落とす。

 〝かんちゃん〟と〝さんちゃん〟
 
 ……似てなくも、ない。

 だけど当然嬉しくない。

「これから俺、かんちゃんって呼ぼうかなぁ」

 そんなことを言いながら俺の肩に手を乗せる亮介。どうやら調子にのっているらしい。

「いいね、それ! 私も呼ぼうかなぁ」

 そもそも彼らとこんなに親しくなったつもりはない。俺は心を許したつもりもなければ名前で呼ぶことだって許してないし、ましてや親友ですらない。一方的に懐いてきて、尻尾振ってるだけだ。

「亮介の好きなやつ……」

 そこまで言いかけると「うわぁっ!」声をあげながら俺の口を手で覆う亮介の表情は、焦りと羞恥の二つが滲んで見えた。

「……ちかいっつーの」
「だだだ、だって幹太がさぁっ…!」

 当然のように俺のことを〝幹太〟と呼ぶ。

 ……なんだろう、この感じ。昔、どこかで似たような感情を抱いていた時期が俺にもあるはずなのに。

「二人とも何してるの?」

 亮介の背後に見える国崎は、キョトンとしたまま俺たちを見つめていた。

「なななっ、何でもない!」

 歯切れの悪い返事をした亮介の顔は、りんごのように真っ赤に染まっていた。
 その表情を見れば答えなんて分かりそうなものだけど、どうやら国崎は鈍感らしい。

 そして休み時間が終わる前、当然俺は、〝かんちゃん〟呼びを禁止したのだった。

 放課後、門を抜けて自転車にまたがろうと思った矢先「幹太くん」聞き覚えのある声が聞こえた。
 もしかしてとまさかが錯綜しながら、顔を向けると視線のその先にいたのは。

「栞里……?!」

 いたずらっ子のように笑った栞里が、俺に手を振っていた。
 まさかが当てはまった瞬間、頭の中が一瞬真っ白になって自転車から手が外れると、がしゃーんと音をたてて地面に横たわる。

「ちょっと大丈夫?」

 慌てて俺の元へ駆け寄ると、自転車のカゴの中から放り出されたかばんを拾って「はい」と俺に手渡した。ばくばくと心臓はうるさかった。まるで真夏の蝉のように。

「……こんなところで、何してるの」

 突然の訪問者に緊張して口が急速に乾いてしょうがない。落ち着け俺。

「幹太くんのこと待ってたの!」

 突飛のないことを告げられて、急ブレーキをかけたような動揺が走り、また自転車を倒しそうになる。

 俺のこと待ってた……? 冗談か? それともこれは夢か? 暑さのあまり夢でも見ているのか?

「かーんーたーくん」

 ぽかんと固まる俺に、しっかりと聞こえるように誇張して俺の名を呼ぶ。ハッとして意識を現実へと戻せば顔を覗き込むようにして俺を見つめるから、今度は心臓が早鐘となって胸を突き続ける。

 ……ほんと、心臓に悪すぎる。

「な、なに」
「今ぼーっとしてたから。おまけに顔赤いし……熱でもある? 体調悪い?」

 今度は心配そうな表情を向けて俺に手を伸ばす。どうやら熱を測ろうとしているらしい。

「熱なんてないよ」

 すんでのところで手を掴む。

 こんなところで女の子におでこなんか触られていた、なんて場面をクラスメイトに目撃でもされたら明日どうなってしまうかなんて容易に想像できる。だから俺が今、すべきことはここから逃げることだ。

「栞里、ちょっと来て!」

 彼女の手を掴んだまま、もう片方の手で自転車を押す。困惑した彼女は「え、あの、幹太くん?!」後ろの方で騒がしそうにするけれど、ずかずかと歩いた。少しでも早く学校を離れるためだ。

 亮介に見つかれば一番厄介なことになるからだ。

「……ここどこだ?」

 何の目的もなくやって歩いた俺は、ここがどこだかなんか分かるわけもない。ただあるのは、小川だった。それ以外目印になるものなんか一つもなかった。

「公園の近くだよ」
「……公園?」

 どうやら栞里がこの場所を知っているみたいだ。ホッと安堵したあと、彼女へと顔を向ける。が、視界に映り込んだのは俺がまだ栞里の手を握ったままだという事実だった。

「──ご、ごめん!」

 慌てて手を離すと、「ううん」と首を振った栞里。そこまで緊張している様子はない。どうやら俺だけが意識していたみたいだ。いまだ鳴り止まない鼓動が口から出て来そうになる。

 止まれ、心臓。鳴るな、鳴るな……!

 心を落ち着かせそうと呪文のように唱えるけど、手を繋いでいた名残りがまだ手のひらにあって、それとリンクするように鼓動の鐘も鳴り続ける。

 栞里に背を向けて、胸を押さえる。

「あのね、幹太くん」

 俺の気なんか知らずに、彼女は話しだす。

「今日は幹太くんを公園に連れて行ってあげようと思って学校に迎えに行ったんだ!」

 浮き浮きして、顔の皮膚までがしっとり輝きだすように笑いながら告げる。

「……公園…?」
「うん。私が昔よく行ってた場所なの。ほら、幹太くんまだこの町のこと知らないって言うし、教えてあげようと思って」

 その言葉を聞いて急速に手繰り寄せられる記憶。
 そういえば、この前栞里と約束した。この町を案内するってあれだ。
 突然学校に栞里がやって来るから、そんな大事な約束さえ緊張の渦に飲み込まれて忘れていた。

「それとも今日何か用事があった? それなら今度でも……」

 先ほどまでとは打って変わって太陽が雲間に入ったように顔が曇る。

「今日でもいいよ!」
「……え?」

 仕方なくとか妥協とかそんなんじゃない。

「……じゃなくて、今日がいい」

 さっきまで思春期の中学生のように緊張していたのに、自分調子良すぎだろ。

「だから、案内してほしい」

 それでも欲には勝てず、彼女が幼少期を過ごした場所を知りたかった。少しでも栞里に近づくために。

「うん、分かった。じゃあ着いて来て」

 嬉しそうに頬を緩めたあと、栞里はこっちこっちと言って前を歩き出す。俺は、そのあとを追いかけた。