どこまでも青い海は、あの日のきみと繋がっていた。


 ◇

 高校一年の夏休みが終わる数日前に十六年間住んでいたマンションを離れて海が見える田舎町へ引っ越した。

高槻幹太(たかつきかんた)です、よろしくお願いします」

 東京から二時間ほど離れたこの町は、電車が一時間に二本しかなく、バスだって二、三十分に一本しかない。家から自転車を十五分も漕いだのは、これが生まれて初めてだった。

 ビルや商業施設なんてものはほとんどないが、少し自転車を漕げば商店街はある。コンビニは最近できたらしい。海と共存するように住宅街が広がっていた。
 自然があるため虫がたくさんいる。今朝だって自転車を漕いでいると大きな虫が飛んできて危うく転ぶところだった。

「高槻さぁ、前の学校で部活入ってた?」

 HRが終わった真っ先に俺の席の前に立ったやつが開口一番に尋ねたのは、それだった。
 普通なら都会から引っ越して来た俺を見て「東京ってどんなところ?」「芸能人見たことある?」「人ってそんなたくさんいんの?」等々の質問を予想していたのに。

「いや、入ってないけど……」

 小学生の頃から少年野球をしていて、中学一年の終わり頃までは野球部に所属していた。

「じゃあ今まで何かやってた?」

 そう尋ねられて俺は「…まぁ一応」と困った顔のまま愛想笑いを浮かべたあと目を逸らす。部活の話はなるべく避けたかった。

「じゃあサッカー部とか?」

 挙手をしながら答え出すクラスメイト。次のやつが挙手をしてバスケ部、野球部、テニス部、次から次へと思いつく部活名を連呼される。まるでクイズ大会のようだ。それらに全て俺は苦笑いで通す。

 その中に答えはあったが、俺はそれに正解を出さない。勧誘されたくなかったからだ。「残念ながら」とだけ答える。そうしたら、あと何の部活があるんだよ、と頭を悩ませる男子。そんなくだらないことで会話が広がる。

 なんてお気楽なやつらだろう。やり場のない苛立ちで、頭の芯がチリチリと音を立てる。

「──あっ、そうそう。この学校必ず部活に入らないといけない決まりがあるんだけど何の部活に入るか決めた?」

 突然割り込んできた言葉に俺は驚いて、のどの奥から声は出なかった。

 今朝、担任のところに学校の説明を聞きに行ったときなんかそんなの一切言われなかった。もしかしたら俺の家庭の事情を知っていたから、気を遣ってそれを教えなかったのかもしれない。

 小学生の頃からずっと続けていた野球を中学一年で辞めた。理由は、母さんの病気が見つかったことだ。子どもの俺にとってそれはすごくショックなものだった。母さんの病気が分かってからは好きなことをやりたい気持ちも楽しいという感情も全部捨てた。

 それからは、手のつけようのない数字の問題を目の前にして、時計の針を動くのを眺めているようなそんな毎日が続いた。
 
「まだ決めてないんだったら野球なんてどう?」
「いや、ちょっと待て! サッカーなんてどう? 今なら即レギュラーも夢じゃないぜ!」

 夕方になると惣菜が半額になる。まるでお買い得だと言うように、次から次へと部活を勧められる。俺に答える暇なんか与えられず「俺が今話してるんだろ」「邪魔するなよなっ」机の前で文句を言い合うクラスメイト。

 今の俺は正直どの部活に誘われても入部するつもりはない。

「野球部に来いよ! な!」
「いーや、サッカー部だ! だよな?」

 平らな水のおもてにいきなり水を投げられたように、心は波立ち騒いで落ち着かなくなった。

「──ごめん。俺、今どこの部活に誘われても入るつもりないから」

 楽しげな空気をぴしゃりを一刀両断する。邪魔するなとやいのやいのと取っ組み合いをしていた二人の動きが止まり、え、と声を漏らしながらこちらへ顔を向けた。

 三年経って俺の世界はがらりと一変した。楽しいも嬉しいも封印された俺の世界は、大事なものを抜き取られたような寂しさが、毎日毎日心の中に積み上がり罪悪感でいっぱいになる。

「でも、この学校に来たからには必ずどこかの部に所属することになってるけど」

 必ず、とクラスメイトは言った。だが、そこに理由があれば学校側も免除してくれるだろう。無理に部活を勧めることはないはずだ。

「うん。でも俺、今は部活に入る気ないから」

 〝今は〟と言ったけれど、それは永遠にやってこない。

 母親の病気がもう治らないところまで進行していて絶望の淵に立たされている俺の気持ちなんか、きっとみんなには分からないだろう。

 正確な余命を聞いたことはないが『自分の好きな風景を見ながら過ごすと心と身体が痛みを忘れて少しでも長く生きられる』と病院の先生は言った。〝長く生きられる〟が一体どれくらいの期間に当たるのかは見当つかないが、提案するならちゃんとした結果があるのもまた事実だろう。
 ならば少しでも多くの時間を家族で過ごすために俺は部活を辞めて、好きなことも手放した。それが母さんのためになると思って。

 ──それが中学一年の俺にできる唯一の選択だった。

 放課後、職員室へ来るように言われていた俺は、なるべく早く教室を出た。クラスメイトに見つかってしまえば、また長々と部活の勧誘をされると予想したからだ。

 コンコン、とドアを叩くと引き戸をスライドさせた。
 担任の名前を覚えていなかった俺は、「あのー」と小さな声を落とす。職員室に数人先生が見えたけど、一番近くの先生が顔をあげた。

「おお、高槻か」

 どうやら俺の担任の先生だったらしく、入れ入れ、と促される。
 人の名前を覚えるのはどうも苦手だ。だからクラスメイトの名前だってまだ一人も覚えられていない。目の前にいる先生だってそうだ。

「どうだ。初日は。緊張したか?」
「そうですね、少しだけ」
「クラスには慣れそうか?」
「まあ、多分…」

 みんな悪い人には見えなかった。部活を勧めていたあの二人だってもちろん。
 だけど俺は、最低限の距離を取る。踏み込まれたくない部分があるからだ。

「まだ転校初日だ。分からないこともたくさんあるだろうが、何でも遠慮なく聞いてくれ」

 都会にいた頃は、先生一人一人のスーツはびしっとしわ一つなかったし髪の毛だってワックスでセットされたりしていた。生徒のお手本にならなければいけなかったからだ。
 それに引き換え先生はまだ若そうだ。シャツは少しくたびれているように見えて、髪の毛だって下手をすれば寝癖のように見えなくもない。

「家庭の事情のことはみんなには一応伏せているから心配はしなくていいぞ」

 だけど、先生は悪い人には見えなかった。

「ありがとうございます」

 短い会話を終えて帰ろうと思ったとき、今さっきそこにあったかのように、はっきりと記憶に思い浮かび足を止めた俺。

「この学校って部に入るのは強制なんですか?」

 ──ああ、やばい。ストレートに聞き過ぎた。もっと言葉を選べばよかった。オブラートに包めばよかった。

 だが、その不安も杞憂に終わる。

「ああ、そのことか。いやな、たしかにこの学校は部活に所属することを推奨はしているが家庭の事情がある場合は無理する必要はないんだ。高槻の家の事情は俺も校長も知っているし、そこまで無理強いはしない。もし部活に入れないようなら校長に掛け合うこともできるからそのときは言ってくれ」

 クラスメイトが絶対部活に所属しないといけない、なんてこと言ってたから焦ったが、それなら大丈夫そうだ。

 ホッと安堵したあと、職員室を出た。

 自転車を停めている駐輪場に向かったあと、慣れない足取りで平坦な道を漕ぎ続けた。が、景色はいまだに変化がない。田んぼや小川。のどかな景色が続く。どこからともなく蝉の鳴き声が響く。

 中学一年まで野球をしていた俺は体力には自信があった。こんなの余裕だろうと思った。だけど引っ越す前までずっと電車通学だった俺にとってペダルを十五分以上も漕ぎ続けるのは至難の業だ。三年も部活をしていなければ当然体力は落ちる。自分でも気づかない間にうんと体力は衰えていた。

 ペダルを漕ぐのを止めてサドルから降りると、額から滲んだ汗をぐいと腕で拭った。自転車を押してどこまでも真っ直ぐと続いている平坦な道を歩いた。

 九月過ぎだというのにとてつもなく暑い。
周りが自然で囲まれているからだろうか。都会にいた頃とは体感温度が違う。
 ミーンミンミンミン、蝉の鳴き声がやけに近くに感じる。耳元で鳴いていないだろうか?

「あー、もうなんだよこれ……」

 いつになれば家にたどり着くんだよ。この暑さと終わりの見えない真っ直ぐ続く道が俺の感情を煽る。取り残されたように苛立っていた。

 ──ふわっ

 風が吹く。視界の先に真っ白い布のようなものが揺れた。そして、そこから何かが飛んでくる。

 手を伸ばしてそれをキャッチした瞬間、バランスを崩した自転車はがしゃんと音を立てて道へと横たわる。
 掴んだそれは、とても肌触りの良い麦わら帽子だった。

「──ごめんなさい! それ私の!」

 帽子が飛んできた方へ顔を向けると女の子が──川の水のように透き通った声──で、バス停のベンチに膝をついて俺に手をあげていた。

 今朝ここを通って来るときは景色なんか二の次だったからバス停があることにも気づきもしなかった。

「ほんとにありがとう。自転車、壊れてなかった?」

 真っ白いワンピースを着て肌は色白で背中まで伸びる黒髪は艶があって、それはもうとても可愛い子くて、ひまわりのように明るい女の子だった。
 ワンピースがふわりと揺れるたびに、それと反動するように僕の鼓動も跳ねた。

「あ…うん、大丈夫」

 緊張のあまり熱湯から上がったときのように汗が身体から一気に溢れるような感覚に襲われる。

「ほんと? よかったぁ」

 麦わら帽子を受け取ると、子どものようにあどけなく笑う。

 俺は、雲の上に持ち上げられたような心地よさを感じたと同時に、身体の奥からこんとんと湧き出る感情に気がついた。

 中学や高校の頃は周りの友人が、あの子は可愛いとか一目惚れをしたとか騒いでいたことを思い出す。その頃の俺は、なんだよ一目惚れとバカにして恋愛なんか興味もなかったし、自分に幸せなんて必要ないと切り捨てていた。母さんの一件があったからだ。

 恋なんていつかは儚く終わってしまうものだ。信じたって裏切られるだけの夢物語だ。そんなふうにどこか冷めた自分がいた。

 だけど、これは間違いなく一目惚れだ。

 胸がいっぱいになるほど優しい気持ちになって、好きで好きでたまらなくなって、この人のためならなんでもしたいと思った。

「バス…待ってるの?」

 落ち着け、自分。心を平常心に、そう言い聞かせる。

「うん、そうなの。でも、次のバス二十五分後なんだよね」

 バス停前に立てられている時刻表に指をさす。隣へそうっと近づいて時刻表を覗けば次のバスは十六時ちょうどだった。

「ほんとだ……」

 自転車通学ならまだしも、バス通学の人は時間に縛られながら学校へ通っているのか。バスの時刻表の真っ白さに驚いていると「でしょ」と呆れたように肩を落とした。

「この町、不便なの」

 身体を反転させてベンチへと向かう。

 何もないところで二十五分も待つなんて地獄だろうなぁ、暇だろうなぁ、なんて思っていると「だからね」と言った女の子がベンチにすとん、と座ったあと俺を見上げた。

「バスが来るまでここで一緒にお話しない?」

 突拍子もなことを告げられて、一瞬理解が追いつかなかった俺は目を白黒させる。

「ダメかなぁ」
「いや、ダメって、言うか…」
「じゃあいいってこと?」
「え、いや、あの」

 予想だにしていなかった展開にますます頭だけが混乱して、急速にのどが乾く。

 ──ピコンっ

 そんな俺を手助けするかのようにかばんの中に無造作に突っ込んでいたスマホが鳴った。「ちょっとごめん」のどの奥から声を張り上げたあと、ベンチから立ち上がって自転車カゴに入れっぱなしのかばんを開けてスマホを取り出す。

 差出人は、父さんからだった。『今日は早く帰って来れたから、父さんが見舞い行って来るよ』

 ──ああ、そういえば今日は大事な会議があるからって始発で行ってたっけ。で、父さんが病院に行けそうにないからって俺が行くつもりだったけど。

『分かった』と打ち込むと、画面をロックしてかばんの中に突っ込んだ。

「終わった?」

 その一連の作業を全て見ていたのか俺に問いかける。

「あ、うん、ごめん」
「じゃあさっきの話の続き」

 と言ってベンチを叩いた。

 どうやらここに座ってという意味らしい。

「それで今からお話できる?」

 スマホに連絡がなければ元々の予定を優先させるつもりだった。家から病院までの道のりを昨日必死に覚えたのに、必要なくなった。

「……少しだけなら」

 俺が出した答えは、彼女の暇つぶし相手になることだった。
 見ず知らずの初対面の女の子と話すことなんてまずない。都会でもしこんなことがあれば不審に思って断るだろう。

「ほんとに!?」

 両手を嬉しそうに握り締めながら至近距離で俺を見つめる視線とぶつかった。瞬く間に俺の鼓動は驚くべき数値を叩き出す。

「う、うん、ほんとに……」

 俺がそう答えると、手足が軽くなったように、ひとりではしゃぎ廻る女の子。

 出会って数分で恋に落ちた。
 なんてこと昔の俺が聞いたら何と思うだろうか。冗談だろって笑い飛ばすかな。それともバカだろって呆れるかな。
 兎にも角にも、今の俺はまるで自分じゃないように思えてならない。

「じゃあこっち座って話そうよ!」

 ベンチを数回叩いて急かすから仕方なく俺は端っこの方に腰を下ろす。俺の体重がかかったせいでベンチはみし、と軋んだ。

 おいおい壊れたりしないよな……? 不安になりながら恐る恐る目線を落とすと、木のクズが落ちていたり、釘が見えていたり。どうやらこのベンチの耐久性は思ったよりもなさそうだ。

「名前、聞いてもいい?」

 ベンチに気を取られていると耳に声が流れ込んできてハッとした俺は、慌てたように顔をあげる。

「な、なに?」
「きみの名前」
「え? ……あ、ああっ! 俺の名前……」

 平らな水のおもてにいきなり石を投げられたように、心は波立ち騒いで落ち着かなくなった。

「……た、高槻幹太」

 緊張で身体が金縛りのように動かなくなっていると、クスッと笑って「幹太くんね」と復唱する。まるで俺の名前を頭の中にインプットするかのように、言葉を紡いだ。

「私は、朝日栞里(あさひしおり)

 そして俺に手を差し出した。

「よろしくね、幹太くん」

 差し出された手のひらと女の子を交互に見つめた。

 これは間違いなく自己紹介のあとの握手だよな? 今どき握手なんかする? ふつうはしないよな。東京じゃまず見かけない。

「幹太くん?」

 これ以上考えるのはよそう。とにかく今はこの場を収めなければ。腹を括れ、俺。
 緊張に締め上げられて全身の筋肉がこわばり、手を動かしただけでも、音が鳴りそうなほど固まっていた。

「私のことは栞里って呼んで!」

 ひまわりのように笑うと、俺の手を握りしめると、よろしくね、と思い切り振られる。華奢な姿からは想像できないほどに力は強かった。

「幹太くんの制服まだ新しくみえるけど一年生?」
「あ、ううん。最近こっちに引っ越して来たからそれでまだ多分新しく見えるんだと思う」

 さきほどまでの緊張は少しだけほぐれて、のどの奥からは軽快に声が出る。

「あっ、だから初めて見かけたんだね! じゃあ転校生ってことだ」

 〝転校生〟という響きにまだ慣れない俺は、頷くのが少し遅れて会話はみるみるうちに流れてゆく。

「どこから来たの?」
「東京だよ」
「えー、そうなんだ! まさかこんな田舎町に東京から転校生が来るなんて思ってなかったなぁ」

 つい先日まで東京に住んでいた俺が、まさか高校一年の途中で田舎町に引っ越すなんて思っていなかった。だけど、ここへ引っ越すことを真っ先に納得したのは俺だった。母さんへの罪悪感があったからかもしれない。父さんに『母さんが海が見える町に住みたい』と相談されたとき、二つ返事で返したのを覚えている。

 元々、高校もレベルを落として楽に過ごせるようにと選んだ場所だ。友人もそれなりにいたけれど、簡単に切り離せるようにある程度の距離をとっていたから。
 だから、引っ越すことになっても寂しさはなかった。