「あなたは自分のことを犠牲にするでしょ。お母さんね、それがすごく心配なの……」
「犠牲って、」
「あんなに大好きだった野球を辞めちゃったじゃない。小学生から続けてた野球を。突然だったから母さん驚いたわ。でも、幹太に聞いても〝飽きただけ〟って言ってそれ以上は教えてくれなかった」
──あれはまだ俺が中学一年になったばかりの頃。念願の野球部に入れて嬉しさいっぱいで部活に明け暮れる日々が続いた。夕方はあたりが暗くなるまで、泥だらけになりながら汗を流した。いつかレギュラーをとれる日を夢見て。
「でもあれ、お母さんの病気が見つかった頃だったわよね。幹太が部活を辞めたのは」
母さんが俺の前へ手を伸ばし「これを見て」と言った。黙って受け取ると、そこに映し出されていたのは、小学生高学年くらいの俺と野球チーム数人で撮った写真だった。
「幹太、野球がすごく好きだった。放課後は遅くまで練習を頑張ってたわよね。休みの日に練習試合があるたびに私はこっそり観に行って……あ、そうそう。小学三年年くらいだったかしら。レギュラーに決まった!ってすごく嬉しそうに私に話してくれたわ」
あの当時を思い出しているかのような穏やかな表情を浮かべながら言う。
「それ、いつの話だよ。もう随分昔のことでしょ」
「あら、そんなことないのよ。お母さんにとって今も昔も関係ないわ」
写真を見て急速に記憶が手繰り寄せられる。楽しかった思いや悔しかった思いが、まるで昨日のことのように思い出す。一生懸命練習したことや野球着を泥だらけにしたこと。グローブについた傷だって全部俺にとっては思い出だ。
「お母さんはね、幹太に好きなことを思い存分してほしいの。あなたに我慢だけはしてほしくないの」
「俺、何も我慢してないよ」
俺のことを一番理解しているのは母さんかもしれない。そんなふうに思うことは、今に始まったことじゃなかった。昔から、母さんは俺の小さな変化にも気づいていた。
「じゃあもう一度野球してみたら? 幹太の通ってる学校には野球部があるんでしょ。結構強いとかって聞いたわ」
「なんでそれ知って……」
野球部が強い、ということを転校初日に知ったことだ。クラスメイト曰く、県の大会で優勝したこともある高校だとか。俺が驚くと、「それくらいお母さん知ってるわ」とふふふっと口元に手をあてながら笑った。
どうやら母さんは、ほんとうに何でも知っているみたいだ。
「それに今の学校は部活動に力を入れているんですってね。強制じゃないにしても部活に入ることを推奨してるのね」
「あ、うん、まぁ……」
全てお見通しだ。開いた口が塞がらないとはまさしくこのことだ。
「前の学校では幹太、部活に入ってなかったでしょ。それは、お母さんのことを心配してくれたのよね?」
心配、なんて綺麗なものじゃなかった。
「……そんなんじゃ、ないよ」
昔の俺は自分のことばかりで母さんの病気に気づいてやることができなかった。だから病気を知らされたときはすごく後悔した。何も気づけずに。俺は無力だった。罪悪感だけがどんどん募っていった。
そうしたら自分の好きなことをするのが怖くなった。母さんが苦しんでいるのにどうして自分だけが楽しい思いをしてたんだろうって。俺が好きなことをすればするほど、大切なものを失ってしまうようなそんな気がしたんだ。
「プロになりたいかって聞かれればそれほどじゃないし、うまい人なんて高校にいけばいくらでもいるし。野球は好きだったけど、もういいかなって思ったんだよね」
「幹太……」
「ほんとだよ。ほんとに、それだけのこと」
それ以上でもそれ以下でもないんだ。
「だから、母さんが気にすることないから」
感情が揺らぐと病気に影響する、と先生が前に言っていた。不安になったり落ち込んだりすると、食欲も低下する。しかりそれは逆もあるみたいで、自分の好きな景色や落ち着くものを見たら心が安定する。病気の進行が遅くなるのだとか。
もちろんそれは病気が治るわけではない、でも母さんが苦しまずに穏やかに残りの時間を過ごしてくれたらいい。
「今、楽しく過ごせてる?」
悲しげな困惑しきったような表情を浮かべながら尋ねた。
「もちろんだよ」
俺は嘘をつく。母さんに見破られないように、笑顔を添えて。
「そう、それならいいの」
悲しいような嬉しいような複雑な表情を浮かべて笑った。
この病院は少し高台に作られている。
ホスピタル病棟というのがこの病院にはあって〝穏やかに最後を過ごせる場所を〟その理由から窓の外は絶景の海が見えるようになっている。
一定の治療は受けるものの手術などはできない、そんな患者がここには多くいる。東京の病院は忙しない。穏やかに過ごせない。そんな理由で、ここへと転院してくる患者も少なくないようだ。
「海、綺麗だね」
俺がそう言うと母さんは、ええほんとに、と窓の方へ視線を向けた。
波の反射が秋の雲のようにちらちらする。空は抜けるように青く、綿毛のように白く小さな雲がいくつも見えた。
どこまでも続く水平線は、まるで空と繋がっているように見える。空高く飛んでいる鳥は、羽根を広げて自由に飛んでいる。その羽根でどこまでもどこまでも飛んでゆける。
窓を開ければかすかに潮風が鼻先をかすめる。
「いい風が吹いてるわ」
ふわりとカーテンを揺らしながら、病室の中へ風が流れ込む。
ジリジリと音が聞こえそうな午後の陽光。それでもたしかに秋を感じさせる匂いと風。
「幹太も大きくなったわねえ……」
しみじみと告げられて、その言葉に振り向いた。
「あんなに小さかった幹太がこんなに大きくなってお母さんの背を越すなんてね」
「そりゃあ成長期だからね。まだまだ大きくなるさ」
まだ高校一年だ。大きくなってもらわないと俺が困る。
「これからもずっと幹太の成長を見たかったわ」
そう告げられて、胸がどきりと音を立てる。
「ちょっとなに言ってるの。縁起でもない」
〝ずっと〟が母さんにはないってことを、永遠がないってことを俺も母さんも知っている。だからこそ、つい本音が漏れてしまうのだろう。未来に夢馳せるのだろう。
「母さんさ、前に言ってたじゃん。俺が二十歳になるまで長生きするって」
俺が二十歳になるまで、あと四年。その四年は長いようで意外と短いのかもしれない。
できるなら今、この時間が止まってくれればいいと思った。願った。
「あらそうだったわね。お母さん、幹太の成人式まで頑張らなくちゃね」
目尻に小さな皺を刻んで、ほのかに笑いを含んだ。
過ぎた時間は戻ってこないし、失った時間は取り戻せない。どんなに後悔したって悔やんだって時を巻いて戻すことは不可能。
それなのに訪れない未来へ、夢を抱くんだ。
二十歳を過ぎても母さんが元気でいられますように。笑って過ごせますように、って。
「また来るよ」
あと何回このやりとりをすることができるのだろうか。
残された時間はあとどれくらいなのか。
分かっているのは神様だけだった。
◇
ある日の放課後、何もない一本道を自転車で漕いでいるとバス停留所に一つの姿が見える。
停留所の前には、インクを溶かしたように青い海が目の前に広がって見えた。
「栞里」
俺が声をかけるとビクッと肩がわずかに上げた。驚かせてしまったようだ。くるりと振り向いた彼女は、「─あ」声を漏らして立ち上がる。
「幹太くん!」
口元には無邪気なあどけない笑みを浮かべていた。
「やっと会ったね!」
「そうだね」
あー俺はなんて幸せ物なんだ。まるで浮き足立ったままどこかへ飛んでいきそうな心地よさを感じる。
「これって運命かなぁ」
独り言のように呟いた栞里の言葉で危うくベンチから落ちてしまうところだった。
「な、なに言ってるの」
「幹太くんは運命とか信じたりしない?」
「そりゃあ、まぁ……」
そもそも俺は運命とかそんな迷信的なもの信じていない。ただ、彼女が告げた何気ない言葉一つで動揺するのは容易いだろう。
「じゃあ奇跡とか! それならまだ信じれそうじゃない?」
「奇跡ってあるのかな……」
運命とか奇跡とか、そんな特別めいた言葉を信じたことがない。俺の日常にそんなもの無縁だったから。
永遠だってきっとない。なぜならば、人はいつか別れるものだ。それは明日かもしれないし今日かもしれない。
迷信的な言葉を信じても未来が変わるわけではない。それらはただのまやかしだ。ほんの一瞬でも誰かを信じて安心したいとか運命とか奇跡とか言葉にすがりたいだけ。いわば、安定剤のようなものだろう。
「私はあると思うなぁ。だってさ、こうやって私と幹太くんが出会えたのも奇跡だと思うし」
「それはただの偶然とも言えるよ」
「偶然ってことは必然とも言うでしょ」
「なんだよそれ。話、飛躍しすぎじゃない」
「偶然ときたら次は必然ってことになるでしょ?」
「いいや、ならないって」
奇跡があるとかないとかで言い合ったあと、突然〝必然〟だなんて言葉を持ち出してくるからどんどん話は横道に逸れて収拾がつかなくなる。
「幹太くんってば夢がないなぁ」
夢がないというよりは、誰よりも現実を見ている。現実を知っているからこそ、逆らえない運命があるということを知っている。覆すことのできない理が、この世界にはある。
「栞里が夢みすぎなんじゃないの」
「夢みすぎかぁ……」
うーんと唸りながら悩みだす。
べつにそこまで深い話をするつもりはなかったのに、いつのまにやらこんなところまでやってくる。
「でもまぁそうかも! 幹太くんの言う通りだ! 私、夢みるのは好きだよ。だって夢をみることはタダでしょ?」
ひとしきり時間をかけて悩んだあと、そう言ってニィと歯を見せて笑った。
「そりゃあ、そうだけど」
俺とは対照的な意見に一瞬目が眩みそうになり、少しだけ顔を逸らすと「みんなね、夢をみたいの──」と表情を緩めながら、前置きをして。
「夢だけは裏切らないし、夢をみているときだけはキラキラした世界が広がっているような気がするの。夢を見るその一瞬だけでも幸せでいたい、ってね」
口元に弧を描いた彼女は、「幹太くんもそう思わない?」と尋ねてくる。
「さぁどうかなー……」
俺がそれにはっきりとした言葉を答えることはなかった。というか、答えられなかった。あまりにも自分の世界とは異なってみえる答えだったから。
だけど、すごくそれが羨ましくも思えた。
自分とは違う思い、考え。それらはすべて前向きで明るくて、彼女といるとその感情にほだされてしまいそうな自分もいる。
自分が幸せになるのはいけない。そう思っているのに、この時間がずっと続けばいいのに──そう思ってしまう自分がいる。
「ねえ幹太くん。人ってね、すごく欲張りな生き物なんだよ」
とても穏やかな顔を浮かべているのに、口から紡がれた言葉は少し強烈で。俺の頭の中には困惑と疑問が竜巻のように渦巻いていた。
「どうしたの急に」
なんとかそれを拾い上げて言葉を返すのが精一杯だった。
「なんだろう。すごくね、今言いたくなっちゃったの」
「夢みすぎたせいじゃない」
俺がからかうと「もう…っ!」彼女は頬を少しだけ染めて恥ずかしそうに笑うと、拳を振り上げる。慌てて俺は「冗談だよ」と両手を前に突き出した。
そんな何気ないやりとりが微笑ましく感じて、心が何かで満たされるようだ。
「それで続きは?」
「……」
「次は絶対からかわないから」
「……」
「ほんとだよ!」
頬を膨らませたまま俺をじーっと睨むから「神に誓って」と両手を立てて降伏する。もちろん神なんて信じていなかったが。
「えーっと……どこまで話したっけ? 幹太くんのせいで忘れちゃったぁ」
気を取り直したように話し始めるけれど、きょとんと首を傾げる。呆れて笑いながら「欲張りって話」と助け舟を出すと「ああっそれだそれ!」とポンっと手を叩いた。
「人ってねほんとに欲張りな生き物で、自分の元に幸せが起きたらもっと欲しい、もっと欲しいって貪欲になるの。人間ってね、欲深くできてるんだろうね」
あれも欲しいこれも欲しいと……かぁ。
「栞里も欲張りなの?」
「そうだね。私、欲張りかも。幸せなことが起きたから、もっとって欲深くなってる」
つまりその意味は、俺と出会う以前より前に彼女に〝幸せなこと〟が起こったということだと理解するには容易かった。
幸せなことが起きたとなれば、好きな人と両想いだと気づいたか、付き合えたかのどちらかだ。──いや、意味にすればどちらも同じか。
「好きな人いるの?」
怖いもの見たさとはまさしくこのことだ。知りたくないけれど知りたがる。
彼女は、俺の言葉を聞いてピタリと動きが止まる。しばらくして俺の方へ顔を向けた。
「……どうして分かるの」
顔がりんごのように真っ赤になったあと、慌てて頬を覆う。
どかーん。一瞬で撃沈する。奈落の底へ真っ逆さま。どうやら俺は相当運がないらしい。
恥ずかしそうに足をじたばたさせながら赤面する彼女は、文字通り恋する乙女だ。
そんな彼女に特別な想いをよせていた俺。片想いという名の初恋が、あっという間に散った。それも散り散りに。
気づかれないようにがくーっと項垂れていると、「私ね」と声が聞こえる。気力のみでなんとか顔を向けると彼女は前を向いていた。バス停留所の目の前に広がる青い海を見つめたいた。
遠くの方でザザーンと波の音がする。カモメの鳴き声が響く。とこかで汽笛の音がする。海はどこまでも青く、さんさんと降り注ぐ光に磨き上げられたように輝いていた。
「──私ね、忘れられない人がいるの」
まるで時が止まったかと思った。彼女の言葉を聞いた瞬間、息を吸うのも忘れてしまうくらい衝撃的だった。思わず、え、と声を漏らす僕は動揺を隠せなかった。
「その人のことずっと忘れられなくて、今だってすごく好きなの」
顔にパッと花が咲く。
「忘れられない人っていうのがね、私の初恋の相手なんだ」
彼女の一言一句が俺の心に棘を植えていく。
恋ってあっけない。恋愛って楽しくない。
両想いになるには、片想いが二つ実らなければならない。片方がべつの誰かを好きだったら、それは交わることはない。実らない。あっけなく散ってしまう。
恋愛なんてもっと単純明快かと思った。答えは、好きか嫌いかの二つだけだと思っていた。だけど、蓋を開けてみればびっくらこいた。中身は幾重にも重なった迷路のようで、一度入れば出口は見えない。
初恋は、もっと簡単なものがよかった。
「その人のことそんなに好きなんだね」
念のため確認をすると、へへへっと恥ずかしそうに頬を緩めると「うんっ」とめいいっぱい頷いた。
切り傷が風に触れるように心が痛い。
俺が特別な感情を彼女に抱いたのは、出会った瞬間。一目惚れだった。
まさか自分がその立場になるなんて想像もしていなかった。
「幹太くんは今好きな子いないの?」
心には、刺された棘の抜けないような痛みが残って「あー……えっと……」言葉を濁しながらしばらく考えた。
言うな! 言えばいい! 天使と悪魔が頭の中で囁いて、攻防を続ける。
「いるよ、一応」
俺の口から漏れた言葉は、それだった。
たった今、失恋を経験した俺は念のために〝一応〟を付けた。それはある種の自分なりの強がりだったのかもしれない。
「えっ、そうなの?」
「う、うん、まぁ」
「誰! 誰なの?」
興味津々に詰め寄った。
俺の頭の中の赤いランプが警告を鳴らす。が、心の中に何かがポッと点火されたような感覚がやってくる。
「それは秘密」
彼女は今、俺のことを考えている。俺のために時間を費やしている。俺の好きな人を知りたくて悩んでいる。この時間以外は好きな人のことを考えているだろうから、今だけは。今のこの時間だけは、俺だけのものだ。
「幹太くんのケチ!」
頬を膨らませて不満そうに拗ねていた。まるでリスが頬にどんぐりをたくさん詰め込んだような表情を浮かべていた。
「栞里、制服着てないね」
これ以上、俺の片想い相手を追及されないためにわざと話を逸らす。
「学校休んでたの?」
「……え?」
狐につままれたような顔でぽかんと俺を見つめる。しばらく時間が過ぎたあと、ふっと笑いを漏らして「いやだなぁもう〜……」と花が咲くみたいに笑った。
「私、高校生じゃないよ!」
「……え?」
今度は俺が驚くはめになる。おかげで、頭の中が白く溶け落ちるような衝撃だった。
「高校生……じゃない?」
「うん! ばりっばりの現役大学生だよ!」
いたずらっ子のような目つきを浮かべたあと、笑みが満開になる。
「……うわ、ごめん! 俺、てっきり同い年くらいかと……しかも初対面からタメ口で喋ってたし……」
心臓が早鐘となって胸を突き続ける。
「全然大丈夫だよ。これからもそのままで喋ってね!」
「いや、だけど……」
「今さら敬語なんてそんなの私、嫌だからね! 敬語使ったら幹太くんと絶交だから!」
衝撃的な言葉に頭はうまく働かなくて「…分かった」乾いた口から必死に紡いだ。
そうしたら彼女は、口元に弧を描いて笑った。
それから少し時間は過ぎ、おもむろに彼女はスマホを確認する。ちら、と見えた画面の中は海だった。もしかしてこの町の海かな。だとしたら、好きな人との思い出の場所かな。
「ねえ、栞里……」
独占欲が雲のように湧いてくる。
気がつけばスマホを持った彼女の手首を掴むと、わずかに俺の方へ手を引いた。「幹太くん……?」困惑した声を漏らして、俺を見つめた。
「連絡先教えて」
これはきっと〝好きな人〟に対する嫉妬だ。
「ダメ?」
「いや、ダメってわけじゃ…」
すぐに顔を赤く染めて、目線を下げた栞里。
「じゃあいい?」
「……いい、けど」
「ほんとに?」
「……うん」
無理やりじゃないのを確認すると、ホッと安堵してパッと手を離す。
俺はスマホのロックを解除して待った。時刻は、十五時五十九分。バスが来るまで残り一分。
「じゃあ送るから」
彼女がそう言うと、ブブッとスマホが振動した。
画面に映し出された、〝朝日栞里〟の名前の下にメールアドレスが表示されていた。
「ありがとう」
俺は何かで満たされる。
もしかしてこれが〝幸せ〟か……?なんて一瞬浮かれた俺。
「あのさ、幹太くん……もしかして好きな子の相談したかったの?」
スマホを見ていた俺の耳にそんな言葉が流れ込んできて、へ、と間抜けな声が漏れた。
好きな子って誰の? 栞里の? それとも……俺の?
〝好きな子の相談したかったの?〟
「いやっ違っ──!」
──プップー
予定時刻ぴったりに現れたバスによって俺の言葉はかき消される。「あ!」声を漏らした彼女は立ち上がる。
このままじゃ誤解されたままだ。なんとかして誤解を解かなければ。
ブレーキがかかるとぷしゅーと音を立てて目の前に止まると、ドアが開いた。もう何回目か分からない慣れた光景に当たり前に足を進める。
「いつでも連絡してもいい……?」
バスに乗り込んだあと、くるりと俺の方へ振り向いた。
「うん、いいよ! いつでも相談のるよ!」
花が咲くように満面の笑みを浮かべた。
完全に誤解してる。だけど、それを解く時間も余裕もこの場にはない。
──ぷしゅー
ドアが閉まったあと、ブレーキが解除される。ゆっくりと前進するバス。後部座席に座った栞里が俺に手を振った。
「次、会ったときは絶対に誤解解かなきゃなぁ……」
俺の独り言は、流れてきた潮風によってふわりと流れていった。
◇
学校が休みの日、昼食を食べ終えた俺は病院へ向かうためにバスへ乗った。窓から見える景色は青い海が見えた。とこまでもどこまでも広い海は、俺のあとをついて来る。
病室のドアの引き戸を開けると、本を読んでいた母さんの視線がこちらへ向いた。「あら」俺に気づいた母さんは、ぱたんと静かに本を閉じるとテーブルへと置いた。
「幹太、今日は早かったのね」
「あ、うん。学校休みだったから」
この町は、東京ほどおしゃれなカフェや商業施設はない。だから、休みの日に行く場所なんか限られている。当然俺は、自分の時間ではなく母さんの時間を優先する。
「あら、そうだったの。わざわざありがとうね」
母さんが〝わざわざ〟という理由を使うのは、おそらくここまでの道のりが長いことを知っているからだろう。
「これ、ばあちゃんから果物届いたよ」
袋をテーブルへ置いた。
ついさっき、東京にいる母さんの母親で俺にとってはばあちゃんからりんごや梨が届いた。「あらまあ」と喜んだ母さんは「じゃありんご剥こうかしらね」と身体を少し起きあがらせようとするから、「いや、俺がするから!」と慌てて立候補をしてりんごを取り返す。
病人なのにりんごを向こうとするなんて母さんは、やっぱりどうかしてる。
「幹太、あなたりんご剥けるの?」
「え…ああ、多分。やったことないけど」
果物なんて剥いたことない。家庭科の授業で触ったことはあったけれど、それ以外は包丁を持ったことなんか一度もない。小さい頃、母さんがよくりんごをうさぎ型にしてくれていた記憶がある。風邪なんか引いたときはいつもそうだった。それをよく俺は嬉しそうに食べていた記憶も。あれ、結局どうやって剥くんだっけ?
「手、切らないように気をつけるのよ」
今までは母さんがしてくれていたことを、今度は俺が母さんへ。
「ど、どうかな」
「ええ、初めてにしては上出来よ」
五分ほどかけて剥けたりんごはなんとも歪な形をした、うさぎだった。それ以前にうさぎに見えるかどうかも怪しい。
「甘くておいしいわね」
そう言ってゆっくり食べる。病気で食が細くなったから以前のように食べることはできない。少しずつゆっくりと時間をかけて食べる。
「ほら幹太も食べなさい」
俺も一つもらった。しゃくっとりんごをかじる。ばあちゃんからもらったりんごはすごく甘かった。俺はあっという間に三口で食べ終わる。