「凜に初めて会ったとき、魂を抜かれるほどの衝撃を受けた。ゆえに俺の命を握っているのは、おまえなのだろう」
「初めて会ったとき……? そういえば私たち、前に会ったことがあるのよね」
 大学の構内で会ったときの春馬は平然として、私を花嫁だと言った。彼にとっては再会なのだ。
「俺たちが初めて会ったのは、夜叉の居城だ。凜の本体は母君の腹にいたのだが、幻影として現れた」
「ふうん。どんな状況だったの?」
「様々なことがあったな……。凜は今より少し幼い姿だった。俺を、見つめていた」
 記憶を取り出そうとしても、それは夢の跡ようにおぼろに漂い、掴めなかった。
 春馬は遠い目をして、あの日の私を彼方に見ていた。
「不思議ね。あなたが思い出しているのは私なのに、なんだか面白くない気分だわ」
「ほう……。嫉妬か?」
 握りしめた手を茶化すように軽く上下に振られる。
 むっとした私は、唇を尖らせた。
「そんなのじゃないから。きっと私、あなたと同じものが見られないから、つまらないんだわ」
 春馬は瞼を閉じると体を寄せてきた。互いの手を、つないだまま。
 彼の金糸のごとき睫毛が、濃い影を落としている。
「これからは同じ景色を見ていける。瞼を閉じてみてくれ」
「……こう?」
 言われた通り瞼を閉じると、視界には黒鳶色のベールが下りる。
 そうすると、つながれた手の感触と春馬の体温が、より鮮明に感じられた。
 彼の手は、まだ冷たい。
「夢の中でまた会おう。手をつなぎに行く」
「あなたって、妙なことを言うのね。まるで、輪廻みたい……」
 夢で巡り会い、また繰り返すのも、悪くないと思えた。
 かすかな寝息を頬に受けながら、私は意識を沈ませた。

 春馬の屋敷で花嫁として暮らし始めてから、一週間が経過した。
 昼は大学に通い、帰宅したら庭園の草木を眺める。家事を手伝おうとすると使用人に断られてしまうため、手持ちぶさたになっていた。
 掃除や炊事などは使用人の仕事なので、花嫁がやるものではないというのが、この屋敷のしきたりらしい。
 けれど、花嫁としてなにかしなければという焦りがあった。
 なぜか春馬が不機嫌さをにじませているからだ。
 おそらく初夜のことが原因だと思われた。
 あの夜は手をつなぎながら話をして眠りに就いた。私としては穏やかな時間を過ごし、春馬との距離がほんの少し縮まったと思ったのだが、それは勘違いだったらしい。
 夜が明けたときの春馬は冷淡な気配を醸し出していた。
 甘い言葉を紡いだ名残は、どこにもなかった。
 花嫁の責務を果たしていないのは間違いないのだから、一夜が明けて春馬は落第だと判定したのかもしれない。
 それからは毎日一緒に食事を取り、寝所で並んで眠るのだが、それだけだった。
 わずか数日で、春馬は褥で手をつながなくなった。
 そうすると、私から手を伸ばすわけにもいかず、どうしたらよいのかわからなくなる。
 まるで棺桶に横たわる死人のように、まっすぐに並んで眠るのはひどく滑稽で、首が痛くもないのに何度もかしげてしまう。
 これでいいのだろうか……。
 春馬と心を通わせたい。そこまではできなくても、せめてよそよそしい空気をほどきたい。
 そう願った私は使用人に頼み込み、台所に立たせてもらった。
 手料理を作ったら、喜んでくれるかもしれない。
 けれど、春馬が喜びを表すことなどあるのだろうか。
 常に無表情の彼は、笑顔を見せたことなどない。まるで天空の月のごとく冷徹な美貌は、近寄りがたい雰囲気があった。
 それでも、彼になにかしてあげたい。
 私は懸命に作業台で手を動かす。
 ニンジンとレンコン、ごぼうの皮を剥いて一口大に切る。それらをごま油で、さっと炒めてから、水とだしを入れた鍋で煮込んだ。その間に絹さやを湯がいて、水気を切る。
「ちゃんと絹さやの筋は取ったし……。あ、みりんはどこかな」
 普段はプロの調理人が使っている厨房なので、調味料はずらりとそろっていた。
 煮込んだ鍋に味つけをする。砂糖と醤油、みりんを投入して味見をしつつ、さらに食材に味を通すため弱火で煮込む。
「できたかな……」
 竹串を刺してみると、すっと食材を通る。火を止めて、盛りつけをしたら完成だ。