マダラは見上げている私に気づき、羽を広げる。
「お久しぶりでございますぅ。そのせつはお世話になりました」
「久しぶりね、マダラ。帝釈天の側近に戻れたのね」
「えええ⁉ わたしは側近だなんて、そんなすごい地位じゃありませんからぁ~」
 否定しつつも、マダラは嬉しそうに羽をパタパタとはためかせた。
 以前は騙されたこともあったが、愛嬌のあるマダラを私は憎めないでいる。
 帝釈天は不機嫌そうに柳眉を寄せた。
「マダラよ。そなたは伝令という役目を終えた。黙っておれ」
「は、はいっ! ……まったくもぉ、帝釈天さまは用が済んだら黙ってろだもんなぁ。あちこち行ったり来たりして大変だったのにぃ」
 主人に命じられ、マダラは愚痴をこぼしながら羽を閉ざす。
 夜叉の居城へ往復したのみではないのだろうか。ほかにもなにかの用があったのかと、ふと疑問に思う。
 帝釈天は私の疑問を遮るかのように、細い腕を優雅に掲げる。
「夜叉姫に椅子をもて。我らの大切な生贄花嫁なのだからな」
「えっ……夜叉姫?」
 驚いていると、音もなく現れた侍女が背もたれのついた紫檀の椅子を持ってきた。私の背後に豪奢な椅子が置かれる。
 帝釈天は傲慢に命じた。
「座れ、人間の女。そなたに礼を尽くしているのではない。我はそなたの腹にいる夜叉姫を気遣っているのだ。流れでもしたら協定が水泡に帰す」
 冷酷に告げられた台詞の中に含まれた“協定”という言葉に、はっとする。
 すでに帝釈天は円満に協定が結ばれたものとして、凜は生贄花嫁であるという認識でいるのだ。
 柊夜さんは険しい双眸で帝釈天を見据えた。
「御嶽から話は聞いた。これから生まれてくる俺たちの娘を協定の証として、鬼神と政略結婚させるのだとな」
「そなたたち鬼衆協会の面々にとって朗報であろう。夜叉姫が花嫁になりさえすれば、我はそなたらの裏切りに目をつむってやるのだからな。人間の夜叉よ、不満でもあるのか?」
「俺たち両親の同意を得ずに協定を締結されたことに関しては遺憾だ。娘を政略の道具にされて喜ぶ親はいない」
「思い違いをするな。そなたは夜叉姫を己らの所有物のように扱っているが、そもそも鬼神一族の末裔すべては神世が育んだのだ。同族をまとめるため恩情をやると言っておるのに、文句を言うとは何事ぞ」
 議論が白熱して、はらはらした私はふたりに視線を往復させる。
 真紅の双眸を細めると、柊夜さんは腰を上げた。彼は立ち竦んでいる私の手を取り、紫檀の椅子に座らせる。
 そうしてから再び帝釈天に向き直った。
「価値観の相違について今さら正すつもりはない。ただ、疑問に思っていることが何点かある」
「申せ」
「ひとつは、協定の真意についてだ。事の発端は、帝釈天が俺の母を殺害したことにある。それを不問にする代わりに鬼衆協会の存続を認めるそうだな」
 柊夜さんの述べた言葉に、帝釈天は美しい顔をひどくゆがめた。
「御嶽の妻が死んだのは、あやつの不甲斐なさが招いたことだ。それを我に押しつけておる! ……だが神世で起こった事件のすべての責任は、主の我にあるとも言える。ゆえに、不毛な議論を終わらせるべく協定を結んだのだ。その証として、夜叉姫には鬼神の花嫁となってもらうということだ」
「それで生贄花嫁か。もうひとつの疑問だが、夜叉姫を嫁がせるのは、どの鬼神だ」
 どきどきして、私は帝釈天の答えを待ち受けた。
 相手によっては、凜が幸福にも不幸にもなりえるから。
「花婿は、すでに決まっておる」
 帝釈天が告げたそのとき、高らかな馬のいななきが響き渡った。
 はっとして視線を巡らせると、深い霧の中からひとりの男性が現れる。
 襟足までの亜麻色の髪と、眦が鋭く切れ上がった碧色の双眸、そして端整な容貌は貴公子然としているが、彼が漂わせる凄みが八部鬼衆のひとりである鬼神を思わせた。
 後ろには、朱の手綱をつけた白馬が付き従っている。男性は着物ではなく乗馬用のブーツとズボンを着用しているので、この馬に騎乗してきたようだ。
 すらりとした体躯の鬼神は無駄のない所作で片膝をつく。
鳩槃荼(くばんだ)、御身のもとに馳せ参じました」
「うむ。ちょうどそなたの話に及んだところだ。――夜叉姫の嫁ぐ鬼神は、この鳩槃荼である」
 自信に満ちた帝釈天の宣言に、私は戸惑いを浮かべた。
 鳩槃荼は事情をすべて承知のようで、いっさい動揺を見せず、礼を尽くした体勢のまま目線を下げている。だが鳩槃荼の後ろにいた白馬が首を巡らせ、私のお腹が気になるかのように鼻先を近づけてきた。
 それを見咎めた鳩槃荼は、ぴしりと言い放つ。