翌日、小春は渡り廊下を通って南校舎の三階に来ていた。そこに横たわる空気はぴりぴりしていて、いかにも受験生がいっぱい居ます、といった雰囲気だ。思わず気後れしそうになるのを、握り締めたキーホルダーへの意気込みでなんとか廊下を進む。
尾上のクラスが分からないから、三年生の教室を一つずつ覗いて行った。おどおどと覗くからいけないんだろうと思うけど、覗くたびに教室の中に居た先輩たちに変にからかわれてしまう。セーラー服のリボンが二年生の緑色なので、それでだと思う。それでも彼を見つけなければいけないと思った。
三つ目の教室を覗こうとしたときに、丁度廊下の前方に頭ひとつ分飛び出して歩いている人を見つけた。笠寺だった。
「あれっ? 竹内?」
「笠寺先輩」
緊迫した雰囲気の中、朗らかな笑みにほっとして、廊下を駆け寄った。すると、賑わう廊下の人を掻き分けて寄った笠寺の隣には彼が居た。
「あ……っ、……」
「お前……っ」
驚いたような彼は、すぐに表情を引き結んで、こちらへつかつかと歩み寄ってくると、キツイ声を飛ばしてきた。
「お前、なんでこんなとこに居るんだっ」
「だ……、だって、先輩……、こ、これ……」
『お前』と呼ばれたことにも気が付けない程、尾上の顔が怖かった。だけど小春はなんとかそう言って、握り締めていたキーホルダーを差し出した。笠寺の気持ちの詰まったこれを、どうしても彼に受け取って欲しくて、彼の目の前に差し出し続けた。すると。
「おーい、尾上。何、後輩たぶらかしてんだよ」
丁度真横の教室からはやし立てるような声が飛んだ。その声に、尾上が教室の声の主に向かって大きな声を放った。
「うるさい! そんなんじゃないぞ! ちょっと、お前、こっちに来い」
声の半分は小春に向けられたものだった。そのままぐいぐいと強い力で腕を引かれて廊下を歩く。笠寺も慌ててついてきてくれた。
廊下をまっすぐ歩き切って突き当たりの階段を踊り場まで下りる。そこで漸く強く握り締められていた腕を解放してもらえて、小春は思わず腕を擦っていた。
少しぴりぴりした様子の彼に、思わず呼吸が小さくなる。彼は腕を放すと小春に向き直って、固い声で言った。
「……俺、これのことは忘れてくれって言ったよな?」
確かに彼はそう言っていた。でも、このキーホルダーに篭められた笠寺の気持ちを考えたら、どうしてもこれはこの人に持っていてもらいたいと思ったのだ。
「で、……でも、笠寺先輩が、折角……。……笠寺先輩の気持ち、無下にしないでください」
憧れの先輩の親友さんに先輩の気持ちを受け取ってもらいたい。そう思ったが、目の前の人の雰囲気に、つい声が弱々しくなってしまった。その小春の様子にか、小春の言葉にか、彼はため息をついて、そうして応えてきた。
「笠寺の気持ちなら、昨日貰った。……だから、もうそれは要らないものだし、君が捨てておいてくれたら、それでいい」
「え……、でも……」
戸惑う小春に彼は続ける。
「そんなの、気持ちなんて、物がなくたって残るもんだし、……だからホントに要らないんだ。だから、君が捨ててくれるんだったら、それが一番嬉しいんだけど」
そんな風に言われたって、そんなこと出来ない。だって、クマにリボンを巻いた時、笠寺は本当に嬉しそうにしていたのだ。
「で……、でも、笠寺先輩は、本当に、……尾上先輩の為に、これを取ろうとしたんですよ……? それを、私が捨てるなんて、出来ません」
お願いですから受け取って下さい、ともう一度キーホルダーを差し出す。でも、やっぱり硬いため息が漏れ聞こえて、小春はびくりと肩を竦ませてしまった。
「……本当に、笠寺とのことは、物なんてなくてもいいんだ。……でも、もし君がそのキーホルダーになにか気持ち篭めてくれるんだったら、貰ってもいい」
急に矛先を自分に向けられて、小春は一瞬何を言われているのかと思った。ぱちりと瞬きをして、目の前の人を見ると、思いのほかまっすぐにこちらを見ていた視線にぶつかった。
「え……、と……?」
考える。このキーホルダーは笠寺が彼の為にと考えたものだから、小春が持っているわけにはいかないと思った。だから、これを受け取ってもらえるのなら、何とか考えなくては。
「え、と……。……じゃあ、受験、合格しますように、……とか?」
「それ、真剣に思ってるか?」
何とかひねり出した応えに、そんな風に聞かれても困る。それなのに彼は更に続けた。
「そんな、俺のこと知りもしないヤツから、色々貰っても嬉しくない。その辺の女子と同じになるつもりか、お前」
彼の考えたことは分からなかったけど、酷いことを言われたことだけは分かった。
「先輩、ひど……」
「どっちが酷いんだよ」
きっと睨みつけられて、思わず立ちすくむ。視線を逸らさずに見てくる彼の瞳が、彼のことを知りもしないのに、何故か悔しそうに歪んだように見えた。
「お前の気持ち篭ってないものを、お前の手からなんて、貰えるか。出来ないんだから、捨てて忘れてくれ」
それだけを言って、彼は小春の目の前から立ち去って行った。背中に階段を上っていく彼の上履きの音を聞きながら、何故自分はこんな気持ちを味わわなければならないのかと思った。
呆然と手のひらのキーホルダーを見る。その小春の様子を見て申し訳なさそうな声で謝ってきたのは、笠寺だった。
「……ごめんな、竹内……」
「……先輩……」
「本当に、ごめん。俺があんなこと頼まなかったら良かったな」
笠寺が謝ってくれるけど、悪いのは笠寺じゃないと思う。
「……笠寺先輩は悪くないですよ」
「でも、俺が竹内を巻き込んだ所為で、嫌な思い、しただろ?」
確かに嫌な思いだ。……でも、今心の中を駆け巡っているのは、違う気持ちだった。
……何故、彼は、小春を見て悔しそうにしたのだろう?
強烈に網膜に残る、あの、瞳。
あの瞳に、なんだか、胸の奥を抉られたような気持ちになったのだ。そのくらい、強い、歪んだ視線だった。
どうしてそんな視線を向けられるのか、分からない。知らない間に、自分は彼に何かをしてしまったのだろうか。
「……それ、俺が処分した方がいいな……」
笠寺が手を差し出してくれたのを、ぼんやり見る。
これは、笠寺の思いが詰まったキーホルダーで。でも、笠寺の気持ちは物なんてなくても残るんだって言ってた。だったら、そこに小春の気持ちが篭っていないことを、何故責められなければいけないのだろうか? だって元々知らなかった人なのに。
「……笠寺先輩……」
うん? と笠寺が応えてくれる。だから小春はぽつりと言うことが出来た。
「……やっぱり、これ、捨てられないです。……それに、尾上先輩のことも、あのままにしとけない……」
抉られた心の奥を、何とかして埋めたい。強い視線に足元を絡め取られた小春が出来ることは、それくらいだった。
尾上のクラスが分からないから、三年生の教室を一つずつ覗いて行った。おどおどと覗くからいけないんだろうと思うけど、覗くたびに教室の中に居た先輩たちに変にからかわれてしまう。セーラー服のリボンが二年生の緑色なので、それでだと思う。それでも彼を見つけなければいけないと思った。
三つ目の教室を覗こうとしたときに、丁度廊下の前方に頭ひとつ分飛び出して歩いている人を見つけた。笠寺だった。
「あれっ? 竹内?」
「笠寺先輩」
緊迫した雰囲気の中、朗らかな笑みにほっとして、廊下を駆け寄った。すると、賑わう廊下の人を掻き分けて寄った笠寺の隣には彼が居た。
「あ……っ、……」
「お前……っ」
驚いたような彼は、すぐに表情を引き結んで、こちらへつかつかと歩み寄ってくると、キツイ声を飛ばしてきた。
「お前、なんでこんなとこに居るんだっ」
「だ……、だって、先輩……、こ、これ……」
『お前』と呼ばれたことにも気が付けない程、尾上の顔が怖かった。だけど小春はなんとかそう言って、握り締めていたキーホルダーを差し出した。笠寺の気持ちの詰まったこれを、どうしても彼に受け取って欲しくて、彼の目の前に差し出し続けた。すると。
「おーい、尾上。何、後輩たぶらかしてんだよ」
丁度真横の教室からはやし立てるような声が飛んだ。その声に、尾上が教室の声の主に向かって大きな声を放った。
「うるさい! そんなんじゃないぞ! ちょっと、お前、こっちに来い」
声の半分は小春に向けられたものだった。そのままぐいぐいと強い力で腕を引かれて廊下を歩く。笠寺も慌ててついてきてくれた。
廊下をまっすぐ歩き切って突き当たりの階段を踊り場まで下りる。そこで漸く強く握り締められていた腕を解放してもらえて、小春は思わず腕を擦っていた。
少しぴりぴりした様子の彼に、思わず呼吸が小さくなる。彼は腕を放すと小春に向き直って、固い声で言った。
「……俺、これのことは忘れてくれって言ったよな?」
確かに彼はそう言っていた。でも、このキーホルダーに篭められた笠寺の気持ちを考えたら、どうしてもこれはこの人に持っていてもらいたいと思ったのだ。
「で、……でも、笠寺先輩が、折角……。……笠寺先輩の気持ち、無下にしないでください」
憧れの先輩の親友さんに先輩の気持ちを受け取ってもらいたい。そう思ったが、目の前の人の雰囲気に、つい声が弱々しくなってしまった。その小春の様子にか、小春の言葉にか、彼はため息をついて、そうして応えてきた。
「笠寺の気持ちなら、昨日貰った。……だから、もうそれは要らないものだし、君が捨てておいてくれたら、それでいい」
「え……、でも……」
戸惑う小春に彼は続ける。
「そんなの、気持ちなんて、物がなくたって残るもんだし、……だからホントに要らないんだ。だから、君が捨ててくれるんだったら、それが一番嬉しいんだけど」
そんな風に言われたって、そんなこと出来ない。だって、クマにリボンを巻いた時、笠寺は本当に嬉しそうにしていたのだ。
「で……、でも、笠寺先輩は、本当に、……尾上先輩の為に、これを取ろうとしたんですよ……? それを、私が捨てるなんて、出来ません」
お願いですから受け取って下さい、ともう一度キーホルダーを差し出す。でも、やっぱり硬いため息が漏れ聞こえて、小春はびくりと肩を竦ませてしまった。
「……本当に、笠寺とのことは、物なんてなくてもいいんだ。……でも、もし君がそのキーホルダーになにか気持ち篭めてくれるんだったら、貰ってもいい」
急に矛先を自分に向けられて、小春は一瞬何を言われているのかと思った。ぱちりと瞬きをして、目の前の人を見ると、思いのほかまっすぐにこちらを見ていた視線にぶつかった。
「え……、と……?」
考える。このキーホルダーは笠寺が彼の為にと考えたものだから、小春が持っているわけにはいかないと思った。だから、これを受け取ってもらえるのなら、何とか考えなくては。
「え、と……。……じゃあ、受験、合格しますように、……とか?」
「それ、真剣に思ってるか?」
何とかひねり出した応えに、そんな風に聞かれても困る。それなのに彼は更に続けた。
「そんな、俺のこと知りもしないヤツから、色々貰っても嬉しくない。その辺の女子と同じになるつもりか、お前」
彼の考えたことは分からなかったけど、酷いことを言われたことだけは分かった。
「先輩、ひど……」
「どっちが酷いんだよ」
きっと睨みつけられて、思わず立ちすくむ。視線を逸らさずに見てくる彼の瞳が、彼のことを知りもしないのに、何故か悔しそうに歪んだように見えた。
「お前の気持ち篭ってないものを、お前の手からなんて、貰えるか。出来ないんだから、捨てて忘れてくれ」
それだけを言って、彼は小春の目の前から立ち去って行った。背中に階段を上っていく彼の上履きの音を聞きながら、何故自分はこんな気持ちを味わわなければならないのかと思った。
呆然と手のひらのキーホルダーを見る。その小春の様子を見て申し訳なさそうな声で謝ってきたのは、笠寺だった。
「……ごめんな、竹内……」
「……先輩……」
「本当に、ごめん。俺があんなこと頼まなかったら良かったな」
笠寺が謝ってくれるけど、悪いのは笠寺じゃないと思う。
「……笠寺先輩は悪くないですよ」
「でも、俺が竹内を巻き込んだ所為で、嫌な思い、しただろ?」
確かに嫌な思いだ。……でも、今心の中を駆け巡っているのは、違う気持ちだった。
……何故、彼は、小春を見て悔しそうにしたのだろう?
強烈に網膜に残る、あの、瞳。
あの瞳に、なんだか、胸の奥を抉られたような気持ちになったのだ。そのくらい、強い、歪んだ視線だった。
どうしてそんな視線を向けられるのか、分からない。知らない間に、自分は彼に何かをしてしまったのだろうか。
「……それ、俺が処分した方がいいな……」
笠寺が手を差し出してくれたのを、ぼんやり見る。
これは、笠寺の思いが詰まったキーホルダーで。でも、笠寺の気持ちは物なんてなくても残るんだって言ってた。だったら、そこに小春の気持ちが篭っていないことを、何故責められなければいけないのだろうか? だって元々知らなかった人なのに。
「……笠寺先輩……」
うん? と笠寺が応えてくれる。だから小春はぽつりと言うことが出来た。
「……やっぱり、これ、捨てられないです。……それに、尾上先輩のことも、あのままにしとけない……」
抉られた心の奥を、何とかして埋めたい。強い視線に足元を絡め取られた小春が出来ることは、それくらいだった。