海には、できるなら近づきたくなかった。

久居は、本当は海が怖かった。

十三年前、八歳の久居が何一つ持たずに打ち上げられていたのは、知らない土地の、知らない海岸だった。

菰野に拾われた当初は名前くらいしか答えられなかった久居だが、そのうち色々なことを思い出した。
可愛い弟が居た事、両親が優しかった事、幸せな記憶は戻っても、それがなぜ壊れてしまったのかは、いつまで経っても思い出せないままだった。

首に触れられると倒れてしまうのは、大方誰かに首を絞められた事があるんだろう、と城の医師は言っていた。
久居には覚えがなかったし、背中のアザと傷にも、やはり覚えは無かったが、どちらも良いものでないだろう事だけは分かった。

記憶をどれだけ辿っても、気付いた時には、自分は弟と二人だけで路地裏で暮らしていた。
そこで自身の力不足から弟を守り切る事ができなかった事。それを悔やんで悔やんで、海に入った事までしか分からない。

ただ、路地裏で暮らしていた頃から既に、久居は海がとても怖かったし、弟も同様で海には決して近づこうとしなかった。

それでも、なぜか時折無性に恋しくなって、弟と二人で遠くに見える海をずっと眺めることもあった。

海で何があったのか、父と母はなぜ居なくなったのか。
久居は、知りたいと思う気持ちと、知るのが怖い気持ちの全部に気付かないふりをしたまま。ただ菰野様のお命を守り、菰野様の行く末だけを案じて、今まで生きてきた。

……けれど。

菰野様の声が途絶えて三年……。

久居には、いつの間にか、自分と向き合う時間が与えられてしまった。


「ん……」

久居は目を開く、と同時に今まで閉じていたことに驚く。
側には火が焚いてあり、自分は服を着替えている。
足元にはべったりとリルが張り付いたまま、すぃよすぃよと幸せそうな寝息を立てていた。
その少し向こうに空竜も、小型サイズで丸まって寝ている。

すぐ近くで波の音が聞こえる。

(服を着替えさせられても目覚めなかったなんて……。私は、眠っていたというより、昏睡していたようですね)

体に異常がないか確認しながら、ゆっくり体を起こす。
首と頭がズキンと痛んだ。
触れると頭部に出血があったので、治しておく。
覚えはないが、リルによるものかも知れない。彼の輸送は悪気はなくとも決して丁寧ではないので、何処かにガツンとやられても不思議では無かった。

火の番をしていたのはウィルだったが、彼も疲れているのだろう、半分以上眠っているように見える。
その向こうには、ご婦人方が休んでいる。
まだ外は薄暗かったが真夜中ではなさそうだ。今は何時だろうか。

懐に入っていたものは枕元にまとめられていた。
懐中時計を開くと、四時を少し回ったところだった。
一緒に海に浸かってしまったはずだが、無事に動いていることに安堵する。

着ていた服は近くに干されていて、その隣には所々濡れているリルの服とぐっしょり濡れているウィルの下着らしき服が干してあった。
リルの服は、おそらく私が引き上げられた後に触れて濡れたのだろう。

「ウィルさん、ありがとうございます」
久居は、なるべく驚かせないようにそっと声をかけたが、ウィルはビクッと大きく肩を震わせた。
ウィルも、ここしばらくの出来事で気が休まらないのだろう。
「お!? おお、久居くんもう起きたのか、どこか痛いところは無いかい? その、ええと、頭、とか……」
最後の言葉の消え入りそうな様子にちょっと苦笑しながら久居が答える。
「もう治しましたので大丈夫です。ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。
 ウィルさんが助けてくださったのですね」
久居の言葉にウィルが心底ホッとする。
「ああ、泳ぎだけは昔から得意でね。リルくんが教えてくれたのですぐ助けられたんだが、久居くんは、ちょっと水を飲んでしまっていて、な……」
ウィルが言いにくそうに視線を彷徨わせ、リルに辿り着く。
「水を吐かせるには、木に逆さに吊って、上げ下げするとか、樽に乗せて転がすのが良いと言われているんだが、なにしろ海の上だったもんで、その、リルくんがな」
「逆さに振ってくれたんですね……」
そのついでに頭をぶつけて首まで痛めたということか。いや、リルの力で振られたのだから、下手に当たっていたら首の骨が折れないとも限らない。
きっと皆慌てて止めたのだろう。
久居は背筋に冷たいものを感じながら、すやすやと眠るリルを振り返った。
「しかしまあ、久居くんも無事に水を吐き出せたし、こうやって目覚めてくれて、本当に良かったよ」
「はい、ありがとうございます」
もう一度、丁寧に感謝を伝えてから、久居が切り出す。
「ここはどこですか?」
「ここは、あのまま真っ直ぐ進んだ先に出てきた島で、おそらく島の形からしてこの島なんじゃないかと思うんだが……」
と、ウィルが地図を差し出してくる。
「なるほど、ここまで進むことができたのですね」
当初予定していた経路から少し外れてはいるが、問題はないだろう。
「私が代わりますので、ウィルさんも少しお休みになってください」
「ああ、……じゃあ、そうさせてもらおう」
少し申し訳なさそうではあったが、ウィルもやはり疲れているのだろう。奥で素直に横になる。

この大きさの島なら、人は住んでいないだろう。人目を避けた明け方の出発でなくても良いかも知れない。

空竜の側に膝をつくと、空竜が顔を上げた。
「遅くなってしまい、申し訳ありません。今から羽を治しますね。少し……痛むと思います」
空竜は、そう告げる久居の目をジッと見上げて、翼を差し出すと、また目を閉じた。

一度閉じてしまった傷を、もう一度開いて修復するのは、どうしても、それなりに痛い。そして、相応の技術がいる。

この空色の竜に、もう一度美しい翼を……。

久居はゆっくり息を吐くと、指先に神経を集中させた。