「もう大丈夫だよ」
リルの言葉に、ホッと息をつく夫妻。
久居は、お嬢さんの口を塞いでいた手を離したものの、文句でも言おうとしたのか、お嬢さんがスゥと息を吸ったのでもう一度塞ぐ。
「んぐ! んぐぐうんおう!!」
負けじとそのまま苦情を言うお嬢さんに、久居が屈んで視線を合わせた。
「大変失礼いたしました。ですが、そのお命を無駄になさりたくなければ、大きなお声は出さない事をおすすめします」
ゾクリとするような、冷ややかな眼差しとともに低く告げて、そっと手を離すと、お嬢さんはその場に座り込んだ。

久居はウィルに視線を戻して尋ねる。
「どうなさるおつもりですか」
「妻と娘を、遠くの国に逃してやってほしい。私はこの館に残っても、君達に付き添うも、君達の好きにしてくれ」
「私達はウィルさんを必要としていません。ですが、ここに置いてしまえば、おそらくは……」
ウィルは、遅かれ早かれ鬼に見つけられてしまうだろう。
その先について、久居は言葉を濁した。

お嬢さんが釈然としない様子で呟く。
「……父様が、何をしたって言うの。どうして私達が逃げなきゃならないの?」
久居がウィルに視線で尋ねる。
ウィルは諦めた様に目を伏せた。
そこへ、リルがウィル達とお嬢さんの間に入り、彼女の前にペタンと座り込んだ。
「あのね、君のお父さんはね、たくさんの人を殺しちゃったんだ」
思ってもみなかった答えだったのだろう。
彼女はぽかんとした顔でリルを見つめ返した。
「君を守るためにね」
言われて、カッとした彼女が声を荒げるより早く、久居が彼女の肩を押さえる。
「お静かに」
耳元で低く囁かれて、ぐっと言葉に詰まった彼女だったが、それでもぼそぼそと言い返した。
「そんなの、父様にできるはずないわ。父様は、気が弱いし、頼りないし、すごく……優しいんだから……」
俯いてしまった彼女を下から少し首を傾げて覗き込みながら、リルがゆっくり話す。
「うん、優しいよね。ボクもそう思う。優しい人って、誰かの為って思うと、どんな大変な事でも頑張っちゃうんだよね。たとえ、どんなに嫌で、やりたくない事でも……」
パッと顔をあげた彼女の姿がリルの瞳に映る。
少女は、大きな薄茶色の瞳に映る自分の姿を見た。
この子は一体何者なのか、大きな疑問ではあったが、今は視線をその後ろに立つ自分の父親に移す。
よく見れば、父様は屋敷を出たときとは比べ物にならないほど、痩せ細り、疲れ切った顔をしていた。
久居がウィルに提案する。
「ウィルさんも、奥様方と一緒に行かれてはいかがでしょうか」
ウィルからは既に、敵の居城に至るまで聞き出していた。
これ以上の情報は持っていないだろう。と久居は思う。
それに、この人をこんなところで見捨ててしまっては、久居は菰野へ胸を張って報告ができない。
ウィルは、苦悶の表情を浮かべて、床を見つめていた。
「だが、私にはまだやるべき事が……」
「……ここで命を落とす事は、確かに楽な方法ではありますが、真にやるべき事だと言えるのでしょうか」
久居の言葉にたじろぐウィルを、夫人が隣で支える。
「し、しかし私はたくさんの命を奪ってしまった。こんな私が生き長らえては……」
「生きていなくては、贖罪もできません。それとも、屋敷の主人が行方不明では、こちらで働く方々が困りますか?」
「あ……いや、父か、ともすればカエン様の物になるかも知れないが、所有者が変わるだけで、屋敷の者に害はないだろう。元来、目立つ事をするような方ではない」
「それを聞いて安心しました」

久居がふわりと微笑む。
そして、いつの間にか話の途中で寝てしまったリルを抱き上げた。
久居の表情につられてホッとした夫妻とは違い、久居は内心焦っていた。一刻も早く彼等の話を纏めて、ここを立つ必要がある。
何せ、リルが寝てしまった今、久居の残りわずかな力だけでは、鬼の炎に為す術がない。
さて、娘の方にはなんと言えば納得してもらえるか。と久居が見ると、そこには先程までの不満でいっぱいな年頃の少女の姿はなく、両親の覚悟に感銘を受け、自分もそうあろうとしている、貴族令嬢の姿があった。

(ここでも、リルに助けられましたね……)
久居は内心リルに感謝しつつ「一緒に来ていただけますか?」と訊ねる。
彼女は背筋を伸ばして「はい」と答えた。

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リルの耳がない上に、屋敷内部からも警戒されている現在、部屋を移動するのは危ない。

ウィル達は、妻の部屋から持ち出してきた荷物と、娘の部屋の物だけで、なんとか手に持てるだけの荷物を纏めた。
途中、鞄が足りず苦戦する夫妻に、久居がベッドシーツを使い風呂敷包みで背負えるものを作ってやったりもした。

準備が整ったのを確認すると、久居が裏庭側の窓を開け、空竜を呼ぶ。

そう間を置かずに、空竜が小型サイズのまま、パタパタとやって来る。
空竜はリルほどではないが耳が良いらしく、多少離れたところからでも呼べば応えてくれるし、気配を隠すのもうまく、実に頼りになった。

娘の部屋には、お茶会が出来る広いバルコニーがあったため、空竜はそこで乗合馬車程度の大きさになると、全員を乗せる。
久居は、寝ているリルが落ちないよう、失敬してきたシーツを割いて紐を作り、リルを空竜に結びつけておく。

「どこに向かうのかしら……」
「遠くならどこだって、連れて行ってもらえるだけで、どんなに有難いか」
「私、寒いとこには行きたくないわ」
不安そうな夫人と娘の肩を抱き寄せるウィルに、久居がカロッサの家へ向かう途中にいくつかある島国を提案する。

来るときは陸の上を飛んできたが、今回は少し回り道だが海上を飛ぼうと思っている。
ウィルから聞いた、海からは鬼が出現できないかも知れないという話に確証はなくても、出来うる対策は何でも取っておきたかった。

屋敷の者に勘付かれた様子はまだない。が、空竜が飛び立てば、音や風に気付かれる可能性は十分ある。
「皆さんいいですか。行きますよ。
 離陸後は良いと言うまで、何があっても、なるべく姿勢を低くしていてください」
久居のゆっくりと諭すような、しかし有無を言わせない言葉に三人が表情を固くする。
「空竜さん、出来る限り静かに、お願いします」
空竜は返事の代わりに久居の目を見て、ふわりと空へ舞い上がった。

「きゃ……」
悲鳴をあげたのはどちらだろうか、すぐに飲み込んでくれて助かった。と久居は思う。
女性達はウィルに任せて、久居は屋敷を見澄ました。

勘の良いものが居たのか、かなり静かな離陸だったにも関わらず、一階の窓が開き、男が顔を出す。
空竜を見上げ、異変を確認するとすぐさま引っ込む。

「空竜さん、高く飛んでください!」
一階からの距離は、まだ百メートル程だ。腕の良い射手なら十分狙える。
それともーー。
と、思考を巡らす久居よりも早く、男は動いた。
男が、窓を飛び越え庭に出る。
その手に持っていたのは久居の見たことがない物だった。

花火の筒のようなそれを、男は地面に設置する。

地上から空竜までの距離は二百メートルほどになった。
もうあと少し、三百以上あけば、命中率はかなり落ちるはず……。
と、久居が焦りを浮かべる間に、男が、導火線らしきものに火をつける。
「目を閉じてください!」
久居は障壁を張るために腕を伸ばしつつも、その腕の付け根で、片目を覆う。

筒から飛び出した火球は、一瞬で空竜の少し上まで上がると、爆発音を轟かせ炎を撒き散らした。

「きゃあああああ!!」
「ギャウッ!!」
空竜がガクッと傾く。
爆音に耳をやられたようだ。

炎自体は久居がほとんど塞いだものの、翼の端々や尻尾にチラチラと火がついている。
(耳を癒して、火を消さなくては!)
と久居は焦るが、光と音にやられ、落ちまいと必死でもがく空竜の上では、久居もろくに身動きが取れない。
「あれ、久居おはよぅ……?」
「リル!!」
空竜がのたうちまわったために宙吊りになった、ミノムシのようなリルが目を覚ます。
「耳が、キーンって言ってる……」
「空竜さんがやられました! 炎を出して、空竜さんを守ってください!」
「……え? あっ、わかった!」
まだ半分寝ていたリルがようやく覚醒する。
空竜の毛の先々に燃え移っていた炎は、既に皮膚を焦がし始めている。
苦痛に耐えながらも羽ばたく事をやめない空竜を、リルのあたたかい炎が包み込む。
それは、乗っていた他の全員を否応なく巻き込んだが、久居は緊急時のため一蓮托生と割り切った。
空竜を焼く赤い炎が、より明るい色をしたリルの炎に触れたところから溶けるように消えてゆく。

高度は、ギリギリ四百〜五百を維持している。
方角も大きくは変わっていない。
空竜は、平衡感覚を失いかけ、ふらふらになりながらも、なんとか飛び続けていた。
「空竜さん、ありがとうございます」
「くーちゃん、痛かったよね。ごめんね……」
落ちずに踏ん張った空竜に、感謝を伝える久居。
リルも心配そうに声をかけるが、空竜が「クォン」と小さく鳴くと「そっか、くーちゃんすごいね!」と嬉しそうに笑う。
それを見て、久居は空竜の負傷が飛行に問題のない程度と判断した。

空竜は、めまいもおさまって来たのか、ようやく飛行が安定し始める。
空竜のもふもふの毛に頭を突っ込んでいた三名が、そろそろ大丈夫なのかと毛の中で顔を見合わせた頃、リルが言った。

「あ、炎の音」

ゴウッ!! と風を切り裂いて、地上から飛んできた炎の球が、空竜の翼を突き破った。