リルの耳で聴く限り、屋敷に大きな異変はなさそうだ。
静かな夜の邸宅からは、住み込みで働く何名かの生活音がするのみだった。

全員降りたのを確認すると、空竜がシュルシュルと縮む。
その不思議な光景に、まだ慣れないウィルが目を奪われる。

久居が寝泊り用の荷物を紐で背負いながら、懐からクザンに貰った懐中時計を取り出した。
(十時になるところですね)
久居も、こちらの時間の単位に大分慣れてきたようだ。
「お嬢さんはもうお休みでしょうか?」
「いや、どうかな、ナタリアは本が好きでね。ベッドに入ってからが長いんだよ」
久居の言葉に、ウィルはほんの少し苦笑を浮かべて答えた。

久居は、少し前まで恐怖と罪悪感でガチガチだった男が自然に笑えるようになっている事に少し驚いたが、これもリルの為せる技かと、肩越しに少し後ろを歩く少年をチラと見た。
リルは、しょんぼりとお腹を押さえている。
「ボク、ちょっとお腹すいちゃった……」
素直なリルの言葉に、久居が苦笑する。
あれだけ頑張ったのだから、お腹も空くだろう。
「少し食べますか?」
久居は懐から特製の兵糧丸を取り出して見せる。
リルはパッと破顔すると「食べる!」と元気に受け取った。
一口サイズの飴ような、ゴツゴツした茶色いそれは、リルが食べやすいよう、きな粉、すり胡麻、砂糖の分量を増やして作ってあった。
この先、まだどこで戦闘になるか分からない以上、リルにスタミナ切れを起こされては困る。
久居は、リルの体調管理にはいつも以上に気を配っていた。
「あまーい、おいしー♪」
「三つまでにしてくださいね」
「はーい」
小声でそんな会話をしながらも、三人は、館の裏口より静かにお邪魔した。
「大きい玄関も見たかったなー」
残念そうなリルに、ウィルが謝る。
「……すまないね。ここにも鬼達の息のかかった者が居るかも知れんのだ。長年仕えてくれた者達を疑うのは心苦しいが、そうでなきゃ……」
と、後半は濁したが、何か心当たりがあるウィルの様子に、久居は警戒を強める。
「そっかぁ。残念」
リルは変わらずのほほんとしている。

屋敷の主人の案内に、リルの耳と久居の目があれば、人目を避けて動くことは難しくなかった。
階段で二階に上った廊下の突き当たり、扉の前でウィルが立ち止まる。
「ここが妻の寝室だ。その……少し廊下で待っていてもらえるだろうか」
「わかりました」
久居の返事にリルもコクコク頷いている。

リルは全く疑っていないようだが、久居はこの話自体が罠である可能性も考えている。
それでも、腕輪は二本とも回収しているし、リルの耳もある。女性の寝所に無理に立ち入る必要は無いと判断した。
ウィルが「ありがとう」と心からの感謝を述べて、部屋に入った。
扉越しに聞こえる、女性の驚きと、喜びの声。そして、しばらくの会話。
部屋の中には十分な空間があるらしく、久居には内容までは聞き取れなかったが、リルが「よかったねぇ、おじさん、よかったねぇ……」と目に涙を溜め……いや、大いに溢れ出したところを見るに、二人は無事、感動の再会を果たせたようだ。

こんなに泣いてばかりで、リルは目が痛くならないのだろうか。
そう心配しながら、大粒の涙を拭き取る久居だが、その表情は穏やかだった。

----------

奥方を紹介しようとするウィルをそっと制して、
「申し訳ありませんが、お互いのためにも、奥様とお嬢様のお名前は伺わないでおきます」
と久居が告げた。
夫妻は顔を見合わせて頷き合う。
四人はぞろぞろと娘の寝室へ向かった。
娘の寝室は三階だったが、こちらも難なく合流した。
が、説得には難航しているようで、扉の外へも言い争う声が漏れ聞こえてくる。

「お嬢さんは、逃げたくないと……?」
久居がため息まじりに、隣で扉に寄りかかり座り込んでいるリルに尋ねる。
「うん……、お友達と離れたくないんだって」
リルは眠そうな声で返事をした。
時計を見ると、十一時になろうかというところだ。
リルが眠くなるのも当然ではあったが、ここで耳を失うのは厳しい。

「……失礼ですが、私達もお邪魔させてもらうことにしますか」
そう言うと、久居は扉をノックした。
小さな音ではあったが、扉に寄りかかっていたリルの耳には大きかったのだろう。
ぴょこんと飛び起きて、目を擦っている。

間も無く内から扉は開いた。
扉を開けてくださった夫人に礼を述べ、久居が部屋と会話に入る非礼を詫びる。
夫妻は立場を弁え恐縮していたが、お嬢さんの方はムッとした表情だ。
恐らくまだ自分の父がしでかした事も聞いていないのだろう。どこから切り出したものか、と思った時には、リルが口を開いていた。

「逃げないの? 逃げないとまたあの人達が……」
リルの言葉が不自然に途切れる。
一瞬ピタリと動きを止めて、手で耳をサポートする姿勢を取るリル。
それを見て、久居は部屋にあった観葉植物の鉢をベッドにひっくり返した。
「な……」
久居が、非難の声を上げようとしたお嬢さんの口を塞いでベッドに押し込む。
ウィルは意外に素早く、夫人の手を引いてベッドに上がろうとしている。
「あっちだよ」
リルが敵の出現方向を指しながらベッドに飛び込み、久居が気配隠しの術を発動させた。

戸惑う夫人とお嬢さんに、説明しようとするウィルを仕草と眼光で久居が制す。
敵の気配は館に踏み入る事なく様子を伺っているようだ。
我々がこちらに来ているという確信があるわけではないらしい。
裏庭に残した空竜が見つからない限りは、やり過ごせるかも知れない。

正門側の庭に現れた二人のうち、一人は庭に残り、一人が勝手口より館に入った。
が、それが分かるのは聞こえるリルと気配を探れる久居だけで、残りの三人は不安や恐れや怒りをそれぞれ抱えたまま沈黙に耐えている。

館に入った一人、おそらく気配からして背の高い方だろう。
その男が別の人物となにやら話した後、出て行く。

このまま館に留まられると厄介だと思ったのだが、まだ他にも心当たりがあるのか、二人は揃って地中に消えた。