「チッ!」
ラスは舌打ちと共にその場から大きく飛び退く。
地下に潜れない以上、地上を逃げ切るしかない。
少年は、街道脇の林へ駆け込む。

背後に、敵が現れつつある気配を感じながら、相手が完全に地上へ出現するまでに、どれだけ距離を取れるかに全力を注ぐ。

次の瞬間、目前の地面が揺らいだ。

横っ飛びに避けた先に、背後からの鬼の気配が迫る。
「二人!?」
二人に挟まれる位置から、さらに横に飛び退いたところへ。もうひとつ。
現れた気配は、その力を抑えていないのか、あるいは抑えていて、なおこれなのか、明らかに強い。
「残念、三人だ」
聞き覚えのない声で、最後に現れた男が口を開いた。
二十代前半ほどの見た目だが、蘇芳色の髪に長い一本角、スラリと高い背丈。涼しげな目元。尖った耳も隠す気は無いようだ。
鬼であるなら、まして一本角では、見た目と実年齢は関係ないと思っていいだろう。
真っ白なシャツは襟元だけたっぷりと布が寄せてあり、手元は手首から肘まで袖が広がって、いや切れ目が入ってるのか。男が少年を見下ろしながらゆっくり腕を組むと、ひらりと揺れた。

「私の土地であまり勝手をしてもらっては困るよ。小鬼君」
ニヤリと口元だけで笑う男は、自信に溢れている。
どう見ても、こんな小鬼は自分の敵ではないといった風だ。
「……小鬼と思ってたら痛い目みるぜ」
「そうなのかい? それじゃあ試してみようか。私は小さい子をいたぶるのも、嫌いではないよ」
言葉と同時に、男の周囲に炎が浮かぶ。
状況も悪いが、相手は性格も悪いようだ。
地下ならともかく、こんなところでやり合えば明日の朝には奴らに気付かれるだろう。
一瞬迷ううちに、火球が三つ続けざまに飛んできた。
それをかわして両脇の二人の様子を見るが、二人は主人の指示があるまでは動かないつもりのようだ。
位置的には三人に囲まれていたが、三対一でないならまだやりようもある。
「あまり派手にやると、天使が飛んでくるぜ」
「ふふ、心配ありがとう。しかしここは私の土地だ。いくらでも言い逃れはできるよ」
(くそ、ダメか!!)
さっきより大きな火球が五つ、男の頭上より高い位置に用意されていたそれが順に降ってくる。
少しずつ様子を見ながらの攻撃。男は言葉通り、仕留めるというよりいたぶるつもりらしい。
ほんの少しの時間差で降ってくるそれらをひとつずつ避けながら、なるべく距離を取る。
火球の当たった地面が次々に嫌な音を立てる。煙と、黒く焦げ付いた跡。どうやらかなりの温度らしい。

ラスは、自分の身にも自身の炎を薄く纏っていたはずだったが、相手の火力が高すぎるのか、かすったフードが脱げた。
「うん……?」
派手な赤い髪を見て、男が何やら考え込む。
「君は……、以前下から追い出された、あの小鬼かい……?」
「……だったらなんだ」
(俺のことを知っているとすれば、やはりこいつはかなり高位の鬼だな)
と、ラスは苦々しく思う。
一本角であるだけでも十分手が出し辛かったが、こいつはどうにも、手を出す訳にいかない相手のようだ。
対峙したのが自分だったのが、せめてもの救いだろう。
サラでは、四環を狙われれば、遠慮なしに叩き潰していただろうから。

「ふふふ、あの件はよかった。実によかったね」
急に男が思い出し笑いを始める。
その目は、ラスをあからさまに蔑んでいる。
「お前は、鬼ではないと追い出された挙句、こちらでは白いのに追い回されているのだろう? ふふふ。実に滑稽で、実にいいよ」
心底楽しそうに笑う男に、ラスが叫ぶ。
「何がいいんだ!! お前らが勝手に作って! 勝手に捨てて!!」
「しかし、だとしたら、ここで君を殺してしまうのは惜しいね。君は生きているからこそ、汚点なのだからね」
「!?」
こいつは本っ当に性格が悪いらしい。
「よし、私は気分が良くなったから、君は消えていいよ。見逃してあげよう」
「は?」
男の意外な言葉に、ラスは動きを止める。
「ただし、環は置いて行きなさい」
「……何が狙いだ」
なるべく低い声で尋ねると、男は小さく首を傾げて答えた。
「さあね。案外、君達と似たようなものかも知れないよ」
こないだの人間と違って、こいつはよく喋るな。とラスは思う。
数と力の差が、余裕があるからだろうか。
とにかく、この場は一度引き上げる方が良さそうだ。
(……あいつに、また白い眼で見られんだろうなぁ……)
ラスはひとつ小さくため息をつくと、その場に輪の入った袋を落とし、足先から地に潜る。

地上に立つ者達は、やはり誰も動かなかった。

小鬼が地中に消え、揺らめく波紋が消え切ってから、従者と思わしき長身の男がそれを拾い上げ、主人に手渡す。
「ふふ。思わぬところから良いものを得たね」
中身を手に取って、細い月明かりに当ててみる。
それは確かに、彼がここ数十年、あれば面白いだろうと思っていたものの、手に入れるきっかけもなかった四環のうちの二つだった。
「人から奪ってはならないが、小鬼からなら良いだろうね?」
視線を向けると、二人が揃って頭を下げた。
蘇芳色の髪をした鬼は、顎に手を当てて考えるような素振りで言う。
「まずは、これを使える人間で、私の言う通りに動く者を用意しなくてはいけないね」
呟くと、体格の良い方の従者が頷いた。
主人は大男へ視線を投げて問う。
「あれの三男はどうだろうね」
「明日の昼までには来させましょう」
と大男が返事をすると、主人はひらひらと手を振って面倒そうに言う。
「明日は昼まで寝てるから、夜に連れてきてくれればいいよ。ただ、説得が面倒だねぇ、魂を抜いてしまうと環が使えないだろうしね。まあ、そこはお前に任せよう」
大男は「かしこまりました」と返事をした。

「本当に、明日が楽しみだね」
蘇芳色の髪をした男は、そう呟くと口元をじわりと弛ませた。


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暗い夜の海の上を、風を切って飛ぶ漆黒の翼。
長い黒髪が強引に右前で三つ編みになっているのは、翼に当たらないようにだろうか。

(空を飛ぶのは好き。海の上を飛ぶのも好き)
サラは静かに心弾ませていた。

(明るいところでは黒い羽が目立っちゃうから、夜にしか飛べないけど。
 この計画がうまくいったら、私も昼の世界を飛べるようになるのかな……)
サラは、計画の事、それを立てた父の事を思い浮かべる。
(やっぱり、父さんに直接渡したかったな……。ラス、早く持ってきてくれるといいんだけど)
ラスは、あの環を他にも狙ってる奴がいると言っていた。
それから、先に帰れと私に言った。
もしかしたら、ラスは、私のことを心配してくれたんだろうか。

そこまで考えて、サラはぷるぷると首を振った。

人に期待するのはやめようと、いつも、いつだって思うのに。
気付くとまた期待しそうになってしまう。

どうしてだろう。
誰も私を助けに来てくれないって、もう知っているのに。
それでもまだ、期待してしまいそうになるのは。

あの時父さんがいなかったら、自分はもう、とっくに死んでいたというのに。

(父さんが、優しくしてくれるから……?
 だから、ラスまで優しくしてくれるような気がしちゃうのかな……?)

サラは、不安なような嬉しいような、どこか酷く寂しいような、よくわからない気持ちのまま、夜の海を飛ぶ。

考えても仕方がない。
今は少しでも早く、父の顔が見たかった。

(父さん……)

サラは真っ黒な翼を大きく広げると、海風を受けて力いっぱい羽ばたいた。