(ああ、そうか……)とリルは気付く。
リルは今までも、これと同じような視線を浴びていた。
三年前の、あの日……。
フリーと最初にガラス玉を買いに行った日。
あの日から、村の人達のボクを見る目が変わった。
今までの、軽蔑や嫌悪とはまた違う。あれは……。

ーーあれは、怯えた目だったんだ……。

リルはあの日の遠く薄れた記憶を必死で呼び起こす。
確かにあの日、一度、この体は薄い炎に包まれたような気がする。
今日のように……。

ボクはあの日、一体……、何を……。

不意にリルは体中の力が抜けて、ぐらりと姿勢を崩す。
「リル!!」
久居が叫び、駆け寄る。

霞む視界の向こうに、クリスが、どうしたらいいのか分からないような表情を浮かべているのが見えた。

(クリス……ごめんね、怖がらせちゃって……)
リルは、倒れながらもその手をクリスに伸ばしていた。
(ボクはーー)
その手に、クリスがびくりと怯え、身を縮める。
リルは自分がどんなに恐れられてしまったのかを痛感した。
(ボクは……ただ……クリスを……)
視界は見る間に滲み、歪む。
(守りたかっ……ーー)

そこまでで、リルの意識は途切れた。

久居は何とか地に付く直前でリルを受け止めると、ホッと息を吐く。
うつ伏せに受け止めた小さな体を、ころりと返して確認する。
力は漏れていない。脈も呼吸も正常のようだ。
自分がギリギリを狙ってしまった足にも、どうやら外傷は無い。
しかし、その心には、目に見えない傷が残ってしまったようだと、久居は感じた。

腕の中で眠る小さな少年は、意識を失ってなお、悲しげに眉を寄せている。
溢れたいくつもの涙の粒を、久居は首巻きの端でそっと拭う。
けれど、涙はまた、じわりとその閉じられた瞼から溢れてしまった。

この傷は、治癒術では治してやることができない。
久居は、この少年を守りきれなかった自身への怒りを、そっと胸に仕舞った。
まだ久居には、為すべき事が残っている。

「……ひ、久居さん、は……。人間……なの……?」
途切れ途切れに問われて、久居は一呼吸だけ整えて、答える。
「はい、そうですが?」
クリスは、躊躇いながらも、尋ねる。
「リルは……人じゃないの、よね……?」
「……ええ」
その答えに息を呑むクリスに、久居は思わず問うてしまう。
「人でなくてはいけませんか?」
クリスが動揺する気配が、久居にも伝わる。
久居は、意識が途絶えるまで少女を案じていたリルの小さな肩を、慰めるようにそっと抱き締めると、そのまま、その場に横たえる。
口が過ぎた事を反省しながら、久居は努めて冷静に、クリスに語りかける。
「あなたがこの腕輪で使う力も、人ならざる力ではないのですか?」
取り返した腕輪を、クリスへ向けて示す。
「それは……」
口ごもるクリスへ、久居はその腕輪を二つ、返した。
急に近付かれて一瞬身を縮めたクリスに、久居は気付かないふりをして、また背を向ける。
「これ……」
腕輪を受け取って、困惑を浮かべるクリスに、久居は振り返らず答えた。
「あなたの物でしょう。それより、リルを看ていてください」
「えっ!?」
クリスは、慌てて地に寝かされているリルを見る。
「私は、牛乳の手当てをします」
久居が向かっていたのは、ピクリとも動かなくなった白猫の元だった。
傍に膝を付き、牛乳に手を翳して何やら始めた久居に、クリスが息を呑む。
「……そ」
クリスが、それ以上を言えずに言葉を途切れさせてしまう。
「……その子は……もう……」
震える声で、何とかそれを口にした少女に、久居はハッキリと告げる。
「可能性はともあれ、力を尽くします。あなたにとってこの猫は、かけがえない存在なのでしょう?」

久居の言葉に、クリスはじわりと涙を浮かべた。
(牛乳……)

最近の牛乳は、リルをからかって遊ぶのが好きだった。
今日だって、朝からリルの帽子の上に居座って、リルの顔の前で尻尾を振ってはリルが嫌がるのを、それはそれは楽しそうな顔で眺めていた。

クリスの胸に、さっきのリルの言葉が蘇る。
『クリスは、牛乳の事すごく大事にしてたんだ。それを……』
リルは、私のために、私と牛乳のために、怒っていた。

昨日、夕食の後に、牛乳の事でリルとこんな会話をした。
『小さい頃からずっと一緒って、ボクとフリーみたいだね』
『フリー?』
私が尋ねると、リルは嬉しそうに笑って答えた。
『うん、ボクの双子のお姉ちゃんなんだよ』

リルは、牛乳の事を、私の家族として見てくれていた。
大事にしようと、してくれていた。

……それなのに、私は……。

クリスは眠るリルの顔を見つめる。
悲しげに寄せられた眉。
涙の痕が残る頬。

自分へと手を伸ばしたリルの、酷く傷付いた顔がクリスの胸に蘇る。

「リル……」
クリスは、眠るリルの隣に腰を下ろした。
「ごめんね……」

クリスの謝罪の言葉が耳に入って、久居は心底ほっとした。
同時に、彼女の度胸に感心する。
流石にここまで一人旅をしているだけはある。と言う事だろうか。
今は人畜無害そうな寝顔ではあるが、地面を溶岩にしたばかりのリルを、こうも容易く受け入れられるなど。
少なくとも、そこらの町娘にできる芸当ではないだろう。

クリスは、リルを頭から爪先まで眺めてみる。
自分と同い年だとリルは言ったが、やはり自分よりも一回り小さい。
それなのに、私のために無理をして、リルは疲れ切って眠ってしまったのだろう。
クリスも、腕輪の力を使った後は、クタクタになるし眠くなる。
(リルが目を覚ましたら、ちゃんと言うからね。ありがとうって……)
クリスは、眠るリルへ、そう約束した。