久居は内心激しく焦っていた。
リルは間違いなく、怒りに心を囚われている。
これでは、あの時の二の舞になりかねない。
焦る気持ちを必死に押さえ付け、縄を切ることに注力する。
それでも、早く、早く、と思う気持ちは、消しきれなかった。

「お前……縄はどうした……」
ゆっくりと近付いてくる少年に、金髪の青年はどこか怯えるように尋ねた。

「……」
しかし、少年から返事はない。
まだ幼く見える少年は、まるで光を映していないような虚な瞳で、じっと金髪の男を見た。

少年が一歩進むと、青年は思わず一歩後退った。

青年は、そんな自分を誤魔化すように、コートの男へ指示を飛ばす。
「お、おい! あいつらをもう一度拘束しろ!!」
言われ、猫を踏んだ男が動き出す。
それは、あの日久居に捕まっていた男だった。
「解けないよう、しっかり縛れよ!」
リルに駆け寄った男へ、金髪の青年が言う。
「ああ、刃物を持ってないかもう一度調べ……」
「うあっっ!!」
リルに手を伸ばした瞬間、男の手元でジュッと音がした。
火のついたものを水に突っ込んだ瞬間のような、そんな音と共に、男の指は失われた。
「と……、融けて……る……、っっぁ……っ手が……っっ」
男が眼前に引き寄せた、自身の手は、もうとても手と呼べるようなものではなかった。
「ああああああああああああ!!」
男から、まるで断末魔のような叫びが上がる。
恐怖に染まった絶叫に、何が起きたのか把握できず、金髪の男達は戦慄した。

尋常でない叫びに、力なくうなだれていたクリスが顔を上げる。
そこには、捕らえられていたはずのリルが、コートの男に向かい合うようにして立っていた。
コートの男は、なぜかリルを前にして、その場にへたり込んでしまう。
(リル……?)

「……クリスは……、牛乳の事、すごく大事にしてたんだ……」
リルは、クリスとの会話を思い起こす。

『牛乳は、いつもクリスにべったりだねー』
クリスの頭の上に乗る牛乳を見上げて、リルが声をかける。
牛乳はクリスの肩におりて、クリスの頬におでこを擦り付けた。
『小さい頃からずっとこうなのよ。私にとっては家族みたいなものね』
クリスは嬉しそうに目を細めて、そう答えた。

「それを……」
リルは、へたり込んだ男にもう一歩近付く。
「あ……。ああ……」
コートの男はガタガタと音を立てて全身を震わせている。
「それを……」
暗い怒りの篭ったリルの声に、耳元で揺れる赤い石が震える。
石から、ピシッと小さく亀裂が走る音がした。

「リル!! 相手は既に戦意喪失していますっ!!」
やっと縄を抜け、久居が叫ぶ。
しかし、リルには届いていないのか、リルはもう一歩、男へ近付いた。
「ーーっ!!」
久居の脳裏に、葛原の最後の姿が過ぎる。
(リルにこれ以上、無自覚な殺生をさせるわけには……)
久居は焦りを滲ませながらも、心を決めて両手を構えた。
それと同時に、リルの怒りが炎となって溢れ出す。
ゴオッと炎に煽られ、二つの赤い石に大きく亀裂が入る。
瞬間、久居は揃えた両手から力を放った。
コートの男は、引き攣るような悲鳴を短くあげて、両腕で顔を覆う。

パキン。と、リルの傍で悲しい音がした。

(あ……れ……?)
その音に呼び戻されるように、リルの瞳にじわりと光が戻る。
リルの足元へ久居の放った力が届くと、地面が崩れ、リルが足を取られる。

(耳元で何か、割れた音……)
リルの体はガクンと傾き、リルが全身から放った炎は、男をわずかに掠めて過ぎた。

(何が、壊れた……?)
リルは音の元へと視線を移す。
そこには、砕けた赤い石のカケラが、サラサラと粉になって舞い散っていた。
(お母さんの、赤い石……ーー)
リルの目から、涙が溢れる。

ドサッと地に倒れたリルへ、久居が駆け寄る。
「リル!!」

それ以外の全員が、湯気を上げて煮えたぎる地面だったはずの場所を見ていた。

(何……これ……。……融けたって言うの……?)
クリスは、驚愕と同時に底知れぬ恐怖を感じる。
(地面が!?)

コートの男は、自身のすぐ隣の地面がボコボコと音を立てて煮え、弾ける様に、全身を粟立たせた。
「う……うああああぁぁあああぁぁ!!!」
腰が抜けているのか、へたり込んだままに、男は必死で後退った。

「リル!」
久居はリルを助け起こそうと手を伸ばしたが、体を包む炎に炙られ、阻まれる。
(力の放出が途絶えていない。まだ意識が残っているのですね?)

「う……ん……」
リルは、久居の推測に応えるように、自力で体を起こした。

久居は、クリスの様子をうかがおうと顔を上げる。
リルもそれにつられて顔を上げかけて、やめた。

男達は、リルと目が合いそうになると、クリスを掴んだまま、後退った。

((あの陽炎は……))
と、クリスと、金髪の青年が同時に気付く。
二人は、あのフードとローブの少年がその陽炎を纏って炎を操る姿を見た事があった。

「お前……まさか」
金髪の青年が、ゴクリと言葉を切って、続ける。
「……鬼とか言う、悪魔の仲間か」
その言葉に、男達の間に緊張が走る。

「あいつと……同じ……?」
クリスが震える声で零した小さな呟きは、リルの耳にだけ届いた。
「クリス……」
リルの表情が悲しみに染まる。
そんなリルを庇うように、久居はリルの前に立ち、大きく息を吸い込むと男達へ向けて叫んだ。
「命が惜しくば、今すぐ去りなさい!!」
凛とした声を響かせて、久居は大きく腕を振り、退路を示す。
男達は、それに導かれるように、一斉に逃げ出した。

「お、お前達!!」
クリスを捕まえていた男までもが逃げ出し、慌てる金髪の青年。
その肩を、久居がしっかり掴む。
「あなたには、腕輪を置いていっていただかないと……」
ぐい、と手首を腕輪ごと掴まれて、青年が声をあげる。
「何をする!!」
久居は、抗う青年の瞳を覗き込んで、低く囁いた。
「それとも、命ごと置いて行かれますか?」
死を眼前に突きつけられ、顔色を変えた青年の震える手首から、久居は腕輪を取り上げる。
掌からもうひとつ腕輪を取り上げた久居が、その手を離してやると、青年は脱兎の如く逃げ出した。
「覚えておけ!!」
青年の月並みな捨て台詞を聞きながら、駆け去る後ろ姿を久居が見送る。


「リル……」

クリスの呟いた小さな声に、リルはおそるおそる振り返る。
少女は、酷く青ざめた顔をしていた。