穏やかな昼下がり。
リルとクリスは、大きな噴水のある大広場に居た。
広場は、大勢の人で賑わっている。
小さな子ども達が広場を走り回るのを眺めながら、二人は話していた。

クリスは、人通りの多い場所の方が安全な事を知っているのか、日中は人の多いところで過ごしていた。

「すみません、お待たせしてしまいました」
そこに、ふらつく足取りで久居が戻ってきた。
「お帰り久居ーっ」
と笑顔を見せたリルが、次の瞬間三歩下がった。
「ーーってお酒臭っっっっ!!!」
久居は、むせ返るほどの酒気を放っていた。
「申し訳ありません……」
真っ赤な顔の久居が、申し訳なさそうに、力なく苦笑した。
「成り行き上どうしても、飲み比べに勝たねばならなくて……」
おそらく、ここまで飲まれる予定ではなかったのだろう。
己の不甲斐無さを自嘲するようなその表情に、リルが心配顔になる。
体が熱いのか、久居は首元の首巻きをくつろげて、風を通そうとしている。
「けれど、有力な情報を……」
話している久居の体がゆらりと傾く。
リルは慌ててそれを抱き止めた。
「得られまし……た…………」
小さなリルの肩に縋り付くようにして、久居は目を閉じる。
「ひ、久居……?」
リルは、久居が限界だった事を知る。
飲み比べと言っていたが、相手は一体何人だったのだろう。
久居の肩をしっかり支えて、リルはどこに彼をおろそうかと辺りを見回した。
ベンチはどれも埋まっている。
かといってあまり隅の方は良くないだろう。
噴水の脇にでも下ろそうか。
「え、どうしたの? 久居さん寝ちゃったの!?」
「う、うん……」
クリスに、リルは答える。
「よっぽどたくさん飲まされたのかなぁ……。久居、お酒は強い方なんだけど……」
クリスは、リルが担いだままの久居を覗きみる。
ぐったりとした、赤いのだか青いのだかわからないような顔で、眉を顰めたまま目を閉じている久居は、何だか不憫に見えた。

「……どうして……?」

クリスは思わず、疑問を零してしまう。
「久居さん、大怪我したの……、私のせいだよ?」
「……うん」
リルは静かに頷いた。
久居は全身の怪我を治す際、急に治ってクリスに驚かれるといけないから、と表面に傷を残した。
久居の傷痕は、不審感を与えなかったかわりに、クリスの心に罪悪感を残した。
思い詰めるような表情のクリスを、その腕に抱かれたふわふわの白猫が励ます。
『こいつらが勝手に首突っ込んできたんだ。クリスのせいじゃないだろ』
「二人とも、私に会ったばっかりなのに……。私、二人に何も返せないのに……」
『見返りなんてそんなもん、クリスの笑顔で十分過ぎるぜ』
牛乳が、きらりとダンディなポーズで語る。本猫は決まったとばかりにいい顔をしているが、ここに猫の言葉がわかる者はいない。
「……やっぱりおかしいよ。あんな目に遭ったのに、二人とも全然変わらないし……」
不安と疑問が混ざり合うクリスの言葉に、リルはただ頷くしかできなかった。
「……うん……」
「ねぇ、本当はどうしてなの?」
クリスが身を乗り出す。
おろされた腕から、牛乳は渋々飛び降りた。
「どうして、私の事……」
その言葉を遮るように、リルが言う。
「ボクが、もし話したら……、クリスも教えてくれる? どうして追われてるのか……」
薄茶色の優しい色をした瞳が、真っ直ぐにクリスを見つめる。
その瞳には、期待ではなく、寂しさや悲しみのようなものが映っていた。
「……そ、それは……」
クリスが、左手首の腕輪を右手で強く握り締める。
じわりと俯いてしまったクリスに、リルはどこか痛そうな顔でゆっくり微笑んだ。
「意地悪な事言ってごめん」
リルの少年らしい声が、静かに、優しく響く。
「ボクも、本当は言いたいんだけど……、今は言えないんだ」
クリスが、リルの顔を見る。
「でも、クリスの事をちゃんと守り抜いて、話せる時が来たら」
一つ一つの言葉をゆっくり伝えながら、リルは、クリスの手をそっと握った。
「絶対、クリスには本当の事を話すって、約束するよ」
「リル……」
クリスは、自分より少し背の低いリルをジッと見る。
リルは、クリスを安心させようとするかのように、柔らかく微笑んだ。
励まされている事に気付いて、クリスが苦笑する。
こんな、小さな子に。とクリスは思った。
「リルはちっちゃいのに、なんだか大変なのね」
人のこと言えないけど。とクリスが付け足しながら言うと、リルがあからさまに衝撃を受けた。
「ち、ちっちゃくないよっ、クリスと同じくらいだよっ」
「え……? だって私、今年で十七になるよ? リルって十かそこらでしょ?」
キョトンとするクリスに、リルがあわあわと手を振って否定する。
「ボ、ボクもう十七歳だよーっ」
「ええええええ!?」
「先月お誕生日だったもんっ」
リルが情けなく半べそで否定するのを見て、クリスは思う。
(これで同い年!?)

耳元で叫ばれ、泣かれ、揺らされて、久居が小さく呻く。

「み…………、水…………」

「ミミズ?」
「水が欲しいって言ってるのよ!」
聞こえたままに尋ねたリルに、クリスが思わず突っ込んだ。
「噴水のお水でいい?」
「ダメに決まってるでしょ!?」
答える気力のない久居にかわって、クリスが止める。
「もうっ! 私、共同水道行ってくるから!」
リルに任せていては埒が明かないと思ったのか、クリスが駆け出す。
「あっ、ボクも行くよーっ!!」
リルが慌てて久居を噴水の傍に降ろすと、後を追う。
駆け去るクリスの後ろ姿にフリーを重ねてしまうのか、リルはここのところ、クリスの後ろを牛乳と同じようについて回っていた。

二人と一匹の背中を見送りながら、久居は幼い頃の菰野を思い出していた。
こんな風に、久居が体調を崩した時、菰野もよく水を汲みに走ってくれていた。
桶や湯呑を持って、栗色の髪を揺らして、大急ぎで戻ってくると、小さな菰野はいつも自慢げに胸を張って、それを渡してくれた。
久居の役に立てた事が嬉しくてたまらない。そんな笑顔に、久居はいつも胸がいっぱいになっていた。

久居が、懐かしい記憶に細めた視界の中へ、音もなく影が差す。
気配なく現れた人影に、久居は目を見開いた。
見上げれば、澄み渡る青空を背に、おおよそ似付かわしくないローブとフードの少年がこちらを見下ろしている。
前は闇夜の中でよくわからなかったが、その瞳は燃えるような赤い色をしていた。
これは確かに、顔を隠していなければ、一見して人ではないと思われるだろう。

「あなたは、先日の……」
何とか酔いを抑えて立ち上がる久居に、少年が口を開く。
「そう警戒すんなよ。お前にちょっと聞きたい事があるだけだ」
まだ広場は人で溢れている。
こんな場所で手を出してくるとは考えづらいが、久居はそれでも構えて向き合った。
「……お前、誰の差し金で動いてるんだ」
ボソリと呟くような言葉に、久居が動揺する。
一瞬、カロッサの事を知っているのかとも勘繰るが、それは考え過ぎだろう。
どちらにせよ、決め付けるのは時期尚早だ。

フードの少年は、しばらく黒髪の青年の反応を待っていたが、青年が口を開く様子はない。
(チッ、表情も変わらずか……。まあいい、俺の役目はこいつをここに引き付ける事だからな……)
フードの少年は正直面白くなかったが、こちらも表情を変えないままに青年を見返していた。

ゴオッ! と、不意に強風が広場へ流れ込む。
今日は、こんな突風が吹くような天気ではなかった。
久居が違和感を感じるより早く、目の前の少年が奥歯をギリッと噛み締めた。
(腕輪を使われたか!! あいつらまたしくじりやがって!!)
「くそっ!!」
少年は一言吐き捨てると、姿を消した。

久居は、少年を追うつもりはなかった。
まだ酒は抜けそうにない。こんな状態ではまともに動けないだろう。
けれど、強風はリル達の向かった方向から、感じた事のない力と共に吹き続いている。
(この強い力……。あちらで一体何が……)
久居は、ふらつく頭で、吐き気を堪えつつ、そちらへ向かった。

(リル……無事でいてください……!!)