歩き出した少女に付き添うように、三人と一匹は石造の噴水がある大きな広場を歩いていた。
「君、名前はなんて言うの?」
リルの言葉に、少女は目を逸らすと、しばらく後に小さく答えた。
「……クリス」
「へー。可愛い名前だねー♪」
名を知って嬉しそうなリルの後ろで、久居は思う。
(今の間は……? 偽名でしょうか……)
「クリスは、どうして追いかけられてたの?」
リルのストレートな質問に、名を褒められて戸惑っていたクリスがじわりと目を伏せる。
「え、ええと……」
俯くと、髪を括る赤いリボンがクリスの視界で揺れた。
このリボンは母の形見で、母がいつも髪に結んでいた物だった。
『……クリス、この腕輪のことは、誰にも秘密にしておくのよ』
幼い私に、母は赤いリボンを揺らして言った。
『誰にも……? お友達にも?』
私が尋ねると、母は瞳に悲しみを宿して言った。
『ええ、大きすぎる力は、時に人の心を乱してしまうものなの……』
母はもう一度柔らかく微笑んで、私に言い含める。
『だから、この腕輪のことは誰にも話しては駄目。出来るわね?」
『うんっ!』
あの頃の私はまだ幼くて、母の言葉の意味を半分も分からなかったけれど。
今なら、分かる……。
「助けてもらったのは、すごく……、ありがたいんだけど、それはちょっと……」
申し訳なさそうなクリスの言葉に、リルはしょんぼりと俯いた。
「そっかー……」
カロッサに続いてクリスにも断られ、リルがどんよりと落ち込む。
その凹みぶりに、久居とクリスが何か声をかけた方が良いかと悩んだが、次の瞬間、リルはパッと顔を上げた。
「あ、そうだ。クリスは今日はどこに泊まるの?」
「ど……どうして?」
「ボク達もねっ、クリスの近くに泊まろうと思うんだー」
リルの発言に、久居が後ろでハラハラしている。
(そ、それは言わない方が……)
少女は怪訝な顔をする。
(どういう事? この人達は一体……)
クリスは、一度は離した腕輪を、また握った。
(やっぱり、腕輪が狙いで……!?)
「クリスの事守るから、安心してね」
「……え?」
リルの言葉にクリスは困惑を浮かべた。
「な、なんで……?」
「なんでって……」
問い返されて、リルが悩む。
(久居に、ボク達がなんでクリスを守ってあげなきゃいけないのかは、言っちゃダメって言われちゃったんだよねー……)
そんなリルを、久居がハラハラと横で見守っている。
リルは『言えない』なんて言いたくなかった。
けれど、嘘もつきたくない。
少年は、つぶらな瞳で真剣に、少女を見つめた。
「クリスが可愛いから、放っとけないっていうのじゃ……ダメかな?」
心を込めて、リルの精一杯。嘘じゃない気持ちを告げる。
「は? え……? ………………え!?」
一瞬驚いた顔をしたクリスが、次の瞬間赤く染まる。
久居が、そっと言葉を足す。
「……推測ですが、先程の男達がまた来るのではないですか?」
「それは……」
そうだろう、とクリスは思う。
あの人達は、きっと、何度でもこの腕輪を狙って来るだろう。
今までもずっと、そうだったから……。
クリスは、ここに来るまでもずっと、追われていた。
昔は、家があって、家族がいて……けれど、追われ続けて、気付けば母と二人きりだった。
…………そんな母も、もう居ない。
「大丈夫っ」
リルの明るい声に、クリスは顔を上げる。
「ボク達が、クリスの事、ちゃんと守るからね」
にこっと微笑むリルの後ろで、久居も柔らかく笑み浮かべている。
そこへ、足元でジッと話を聞いていた白猫がクリスの頭上へ駆け上った。
『さっきから黙って聞いてりゃ勝手な事ばかり言いやがって!』
猫はカーッとリルを威嚇する。
『クリスを守るのはオレ様だけで十分なんだよっ! ガキはすっこんでな!!』
そんな白猫の気も知らず、リルは呑気に話しかけた。
「わー、可愛いーっ」
のみならず、毛を逆立て威嚇する猫に、あろうことかその手を伸ばす。
「君の事も守るよー。安心してねー」
『身の程を知らんガキが……。痛い目に遭わなきゃ分からんようだな……』
白猫が、前足の爪を出し、大きく振りかぶった。
瞬間、猫の視界に音もなく黒髪の男が入ってきた。
(悪意のないリルに手を上げようと言うのなら、私がお相手致しましょう……)
鋭い視線だけで、久居の意志は猫に正しく伝わった。
黒い瞳から発される底知れぬ圧に、白猫はすっかり気圧される。
「わーん、届かないよー」
言われて、リルより背の高いクリスは、リルが頭上の猫に届くよう頭を下げた。
白猫は、すっかり耳を寝かせ、ぴるぴると小さく震えている。
「なでなでー」
リルがご機嫌で撫でる間、ずっと久居は後ろで目を光らせていた。
『く、屈辱だ……』
(あれ?)
クリスが内心驚く。
家族と自分以外に懐いた事のない猫が、まさかこんな、初めて会ったばかりの人に大人しく撫でられるとは思ってもみなかった。
(悪い人じゃないって、事なのかな……?)
不思議に思いながら、クリスは白猫を胸に抱いた。
『すまねぇクリス……。あの黒いのは強すぎる……』
白猫は完全に戦意を喪失している。
「ねえ、この猫は何て名前なの?」
リルの問いに、クリスが胸を張って答えた。
「牛乳よ」
「……ぎゅう、にゅう……?」
リルはその言葉を繰り返した。
「うん、真っ白いから牛乳。私がつけたのよ。美味しそうでしょ」
嬉しそうなその顔は、リルが初めて見た少女の表情だった。
「え、あ、うん……」
(美味しそうっていうか……臭そう?)とリルは思ったが、彼女の自慢気な顔を前に飲み込んだ。
クリスの胸元では牛乳が『なんか文句あんのか』とリルを睨む。
が、その一瞬後には、牛乳に久居の視線が刺さった。
「ミルクって呼んでもいい?」
リルの言葉に、クリスはにっこりと笑って言った。
「ダメ」
「……そ、そっか……」
その後ろで、久居は内心ほっとする。
(ある程度の信頼は得られましたか……)
リルは、初めて見たクリスの笑顔に目を丸くしていた。
(笑うともっと可愛いなぁー)
金色の髪と目が、どこかフリーを思い起こさせるのか、リルはその笑顔を守りたいと願う。
(ホント、牛乳って可愛い名前よね。我ながら良いセンスしてるわぁ)
クリスは、自画自賛の真っ最中だ。
そんな彼女の腕の中で牛乳はどうしようもなく目を閉じた。
『屈辱だ……』
----------
「は……? やられた?」
街の隅に立つ大屋敷の一室で、深緑のコートを着た男が、雇い主らしき金髪の青年に今日の報告をしていた。
部屋の調度品は、どれもが揃いの落ち着いたデザインだったが、よく見ればそれぞれに凝った細工が施されている。
「誰にだ。また猫に引っ掻かれて帰って来たとか言うんじゃないだろうな」
金髪を揺らして呆れたように問う青年の言葉に、コートと同じ深緑のフェルト製の中折れ帽を胸元に抱えている男が慌てて答える。
「い、いえ、見慣れない格好の青年でした」
その頬には、殴られたようなアザがくっきりと残っている。
確かに、猫ではああはならないだろう。
(用心棒でも雇ったか……? もう所持金は尽きていたように見えたが……)
青年はしばし考えると、コートの男に指示を出す。
「次はもっと腕に自信のある奴に行かせろ」
「は、はい」
青年は初め、小娘一人捕まえるだけの、簡単な仕事だ。と。手の空いていた奴に行かせてしまった。
だが、今回は、それなりに使える奴らを送ったはずだった。
青年は、最初の指示が、自身の判断が誤りだったと感じながらも念を押す。
「いいか。俺もいつまでも待っていられる程暇じゃないんだ」
小娘一人に手間取ってるなんて、あいつに知れたらと思うと、たまらない。
青年は、あの小柄なフードの少年を思い浮かべると、ギリっと奥歯を鳴らした。
「次こそ腕輪を持って来い」
「はいっ!」
指示に、コートの男が姿勢正しく答える。
部屋の外では、窓越しにその会話を聞く者がいた。
それは、中にいる青年が、一番この会話を聞かれたくない相手だった。
膝下まであるローブに、目深にフードを被った少年は、フードの下で炎のような真っ赤な瞳を半分にすると、うんざりと息を吐いた。
(……まったく。使えねぇ奴……)
「君、名前はなんて言うの?」
リルの言葉に、少女は目を逸らすと、しばらく後に小さく答えた。
「……クリス」
「へー。可愛い名前だねー♪」
名を知って嬉しそうなリルの後ろで、久居は思う。
(今の間は……? 偽名でしょうか……)
「クリスは、どうして追いかけられてたの?」
リルのストレートな質問に、名を褒められて戸惑っていたクリスがじわりと目を伏せる。
「え、ええと……」
俯くと、髪を括る赤いリボンがクリスの視界で揺れた。
このリボンは母の形見で、母がいつも髪に結んでいた物だった。
『……クリス、この腕輪のことは、誰にも秘密にしておくのよ』
幼い私に、母は赤いリボンを揺らして言った。
『誰にも……? お友達にも?』
私が尋ねると、母は瞳に悲しみを宿して言った。
『ええ、大きすぎる力は、時に人の心を乱してしまうものなの……』
母はもう一度柔らかく微笑んで、私に言い含める。
『だから、この腕輪のことは誰にも話しては駄目。出来るわね?」
『うんっ!』
あの頃の私はまだ幼くて、母の言葉の意味を半分も分からなかったけれど。
今なら、分かる……。
「助けてもらったのは、すごく……、ありがたいんだけど、それはちょっと……」
申し訳なさそうなクリスの言葉に、リルはしょんぼりと俯いた。
「そっかー……」
カロッサに続いてクリスにも断られ、リルがどんよりと落ち込む。
その凹みぶりに、久居とクリスが何か声をかけた方が良いかと悩んだが、次の瞬間、リルはパッと顔を上げた。
「あ、そうだ。クリスは今日はどこに泊まるの?」
「ど……どうして?」
「ボク達もねっ、クリスの近くに泊まろうと思うんだー」
リルの発言に、久居が後ろでハラハラしている。
(そ、それは言わない方が……)
少女は怪訝な顔をする。
(どういう事? この人達は一体……)
クリスは、一度は離した腕輪を、また握った。
(やっぱり、腕輪が狙いで……!?)
「クリスの事守るから、安心してね」
「……え?」
リルの言葉にクリスは困惑を浮かべた。
「な、なんで……?」
「なんでって……」
問い返されて、リルが悩む。
(久居に、ボク達がなんでクリスを守ってあげなきゃいけないのかは、言っちゃダメって言われちゃったんだよねー……)
そんなリルを、久居がハラハラと横で見守っている。
リルは『言えない』なんて言いたくなかった。
けれど、嘘もつきたくない。
少年は、つぶらな瞳で真剣に、少女を見つめた。
「クリスが可愛いから、放っとけないっていうのじゃ……ダメかな?」
心を込めて、リルの精一杯。嘘じゃない気持ちを告げる。
「は? え……? ………………え!?」
一瞬驚いた顔をしたクリスが、次の瞬間赤く染まる。
久居が、そっと言葉を足す。
「……推測ですが、先程の男達がまた来るのではないですか?」
「それは……」
そうだろう、とクリスは思う。
あの人達は、きっと、何度でもこの腕輪を狙って来るだろう。
今までもずっと、そうだったから……。
クリスは、ここに来るまでもずっと、追われていた。
昔は、家があって、家族がいて……けれど、追われ続けて、気付けば母と二人きりだった。
…………そんな母も、もう居ない。
「大丈夫っ」
リルの明るい声に、クリスは顔を上げる。
「ボク達が、クリスの事、ちゃんと守るからね」
にこっと微笑むリルの後ろで、久居も柔らかく笑み浮かべている。
そこへ、足元でジッと話を聞いていた白猫がクリスの頭上へ駆け上った。
『さっきから黙って聞いてりゃ勝手な事ばかり言いやがって!』
猫はカーッとリルを威嚇する。
『クリスを守るのはオレ様だけで十分なんだよっ! ガキはすっこんでな!!』
そんな白猫の気も知らず、リルは呑気に話しかけた。
「わー、可愛いーっ」
のみならず、毛を逆立て威嚇する猫に、あろうことかその手を伸ばす。
「君の事も守るよー。安心してねー」
『身の程を知らんガキが……。痛い目に遭わなきゃ分からんようだな……』
白猫が、前足の爪を出し、大きく振りかぶった。
瞬間、猫の視界に音もなく黒髪の男が入ってきた。
(悪意のないリルに手を上げようと言うのなら、私がお相手致しましょう……)
鋭い視線だけで、久居の意志は猫に正しく伝わった。
黒い瞳から発される底知れぬ圧に、白猫はすっかり気圧される。
「わーん、届かないよー」
言われて、リルより背の高いクリスは、リルが頭上の猫に届くよう頭を下げた。
白猫は、すっかり耳を寝かせ、ぴるぴると小さく震えている。
「なでなでー」
リルがご機嫌で撫でる間、ずっと久居は後ろで目を光らせていた。
『く、屈辱だ……』
(あれ?)
クリスが内心驚く。
家族と自分以外に懐いた事のない猫が、まさかこんな、初めて会ったばかりの人に大人しく撫でられるとは思ってもみなかった。
(悪い人じゃないって、事なのかな……?)
不思議に思いながら、クリスは白猫を胸に抱いた。
『すまねぇクリス……。あの黒いのは強すぎる……』
白猫は完全に戦意を喪失している。
「ねえ、この猫は何て名前なの?」
リルの問いに、クリスが胸を張って答えた。
「牛乳よ」
「……ぎゅう、にゅう……?」
リルはその言葉を繰り返した。
「うん、真っ白いから牛乳。私がつけたのよ。美味しそうでしょ」
嬉しそうなその顔は、リルが初めて見た少女の表情だった。
「え、あ、うん……」
(美味しそうっていうか……臭そう?)とリルは思ったが、彼女の自慢気な顔を前に飲み込んだ。
クリスの胸元では牛乳が『なんか文句あんのか』とリルを睨む。
が、その一瞬後には、牛乳に久居の視線が刺さった。
「ミルクって呼んでもいい?」
リルの言葉に、クリスはにっこりと笑って言った。
「ダメ」
「……そ、そっか……」
その後ろで、久居は内心ほっとする。
(ある程度の信頼は得られましたか……)
リルは、初めて見たクリスの笑顔に目を丸くしていた。
(笑うともっと可愛いなぁー)
金色の髪と目が、どこかフリーを思い起こさせるのか、リルはその笑顔を守りたいと願う。
(ホント、牛乳って可愛い名前よね。我ながら良いセンスしてるわぁ)
クリスは、自画自賛の真っ最中だ。
そんな彼女の腕の中で牛乳はどうしようもなく目を閉じた。
『屈辱だ……』
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「は……? やられた?」
街の隅に立つ大屋敷の一室で、深緑のコートを着た男が、雇い主らしき金髪の青年に今日の報告をしていた。
部屋の調度品は、どれもが揃いの落ち着いたデザインだったが、よく見ればそれぞれに凝った細工が施されている。
「誰にだ。また猫に引っ掻かれて帰って来たとか言うんじゃないだろうな」
金髪を揺らして呆れたように問う青年の言葉に、コートと同じ深緑のフェルト製の中折れ帽を胸元に抱えている男が慌てて答える。
「い、いえ、見慣れない格好の青年でした」
その頬には、殴られたようなアザがくっきりと残っている。
確かに、猫ではああはならないだろう。
(用心棒でも雇ったか……? もう所持金は尽きていたように見えたが……)
青年はしばし考えると、コートの男に指示を出す。
「次はもっと腕に自信のある奴に行かせろ」
「は、はい」
青年は初め、小娘一人捕まえるだけの、簡単な仕事だ。と。手の空いていた奴に行かせてしまった。
だが、今回は、それなりに使える奴らを送ったはずだった。
青年は、最初の指示が、自身の判断が誤りだったと感じながらも念を押す。
「いいか。俺もいつまでも待っていられる程暇じゃないんだ」
小娘一人に手間取ってるなんて、あいつに知れたらと思うと、たまらない。
青年は、あの小柄なフードの少年を思い浮かべると、ギリっと奥歯を鳴らした。
「次こそ腕輪を持って来い」
「はいっ!」
指示に、コートの男が姿勢正しく答える。
部屋の外では、窓越しにその会話を聞く者がいた。
それは、中にいる青年が、一番この会話を聞かれたくない相手だった。
膝下まであるローブに、目深にフードを被った少年は、フードの下で炎のような真っ赤な瞳を半分にすると、うんざりと息を吐いた。
(……まったく。使えねぇ奴……)