青空に溶け込む空色の竜が、風を切って力強く羽ばたく。

長らく雲の上を高速で飛んでいた空竜は、いよいよ目的地に近付き下降を始めた。
雲を突き抜けた空竜の眼下には、今、緑の森が一面に広がっている。

「わあーっ!」
ようやく顔を出しても良いと言われたリルが、朝の澄み切った空気の中で、涼しい風をめいいっぱい浴びる。
朝日に目を細めて、嬉しそうに風と戯れていたリルが、行先にキラキラと輝くものを見つけた。
「湖だーっ!」
思わず乗り出そうとするリルの背を、久居がしっかりと掴んでいる。
身を乗り出さないよう、落ちないようにとは言い含めたものの、久居は念の為、出立時のようなことが起こる前提で動いてるようだった。

広い湖の湖面では、朝日が光の粒となり、揺らめいている。
湖畔に建つ一軒の家。あれがリル達の目的地だった。
空竜が近付くにつれ、風で湖面は波立ち、光の粒が躍り跳ねる。
「クオォォォン」
空竜は、到着を知らせるように一声鳴いた。

その声に、家の中で今か今かと待ちわびていた女性の長い耳が跳ねる。
「来たわ!!」
女性は勢いよく立ち上がると、外へと飛び出した。

先に地に降り立った久居が、空竜から続いて降りようとするリルの手を取る。
「足元、気をつけてくださいね」
「はーい」
そこへ駆け込む軽やかな足音。
「いらっしゃい!」
見知らぬ女性は、満面の笑みでガシッと手を取る。
「あなたがクザンの息子ね! 会えて嬉しいわ!!」
ぶんぶんと両手で掴んだ手を振りながら、彼女は言った。
「私はカロッサ、よろしくね!」
「ええと……」
突然の歓迎に、久居は掴まれた手に戸惑いながらも口を開く。
後ろでは、リルが同じく困った顔をしていた。
「御出迎え有難うございます。私は久居と申します」
久居は礼儀正しく頭を下げて、隣のリルへ手の平を向ける。
「こちらがクザン様のご子息の……」
「リルだよっ♪」
「です」
にっこりと微笑むリルに、久居が語尾を訂正する。
「あ」
「目上の方には敬語を使いましょうね」
空竜の上で、繰り返し練習していたにもかかわらず、リルはそれをすっかり忘れて喋った。
「リ、リルですっ、よろしくお願いします」
言い直し、ペコリと頭を下げたリルに、カロッサと名乗った女性がようやく自分の間違いに気付いた。
「……え?」
カロッサは、自分よりも小柄な、まだ十歳にも満たないほどに見えるその顔を覗き込む。
「えーと……? 君が……クザンの息子……?」
そう言えばそうかも知れない。妖精と鬼では、成長速度が違う。
けれど、妖精が産んだのだから、そこはもうちょっと、こう、育っているようなイメージがあった。
それに、来るのは十七歳の男の子だと聞いていた。
これではまるで……。
「女の子じゃないの?」
「うん、男の子ー」
「です」
語尾を久居に訂正されて「あ、また敬語忘れちゃった」とリルが慌てて言い直す。
「男の子、ですっ!」
カロッサは久居を見上げて尋ねた。
「……じゃあ君は……?」
「私は、クザン様の血縁者ではないのですが……」
久居は彼女に丁寧に説明した。

----------

湖畔の家では、既にテーブルが整えられ、お菓子が並んでいた。
二人を座らせたカロッサは、二人の前にお茶を出すと、苦笑を浮かべながら自分も席についた。
「あはは、ごめんね。すっかり勘違いしちゃって」
「いえ、お気になさらないでください」
リルは、お茶を飲みたい様子で「あつあつー」と言いながら、カップの中へ懸命に息を吹きかけている。
ようやく体を元の野うさぎサイズに戻せた空竜が「キュイー」と鳴いてカロッサの頬に擦り寄った。
「久しぶりねー」とカロッサがそんな空竜の頭を撫でる。
三年前まで、空竜はここでカロッサ達と暮らしていたのだろう。
二人の再会を喜ぶ様子を、久居は酷く羨ましい気持ちで見つめた。
「どうかした?」
久居の視線に気付いたカロッサが、久居を振り返る。
「あ、すみません。カロッサ様は大きな翅をお持ちだと、リリー様より伺っていたもので……」
久居は、まさか再会が羨ましいなどとは口に出来ず、誤魔化した。
カロッサの姿は、髪や瞳の色こそ目に鮮やかな紫をしていたが、リリー達のような翅などは見当たらず、人間に近い外見だった。
「ああ、これね」
言って、カロッサが背を見せる。
ふわりと、蝶のような大きく美しい翅が、触角が、長く横へ伸びる柔らかそうな耳が姿を表した。
「わー、きれーいっ」
「外に出るために仕舞ったままだったわ」
カロッサは笑って言った。
「それ、出したり入れたり出来るの?」
「リル、敬語を……」
わくわくとした表情で尋ねるリルに、久居がそっと注意する。
「ああ、リリーは里暮らしだから隠す必要がないのね。これは、普段見えないようにしてるだけで……」
とそこまで説明して、カロッサの表情が凍り付く。
「……って、まさか……」
だらだらと冷や汗をたらして、カロッサが問う。
「リル君の帽子って……」
尋ねられたリルは何が何やらという顔をしているので、久居が代わりに答える。
「ええ、耳と角を隠しています」
ガタンと立ち上がり、カロッサが叫んだ。
「ええええええええ!! 引っ込められないの!?」
「え? 引っ込められるの?」
キョトンとした顔で、リルが尋ね返す。
カロッサは不安を隠しきれずにうなだれた。
(うーん、大丈夫かしら……)
そんな様子に、久居は、これ以上待つべきでないと判断し、本題に踏み入ることにした。
「あの、こちらにヨロリ様というお方がいらっしゃると伺ったのですが……」
カロッサの紫の瞳が大きく揺らいだ。
「……ええ、居たわ」
カロッサが、ゆっくりと椅子を引いて座り直す。
「三年前までは、ね」
「ーー……え」
久居の表情に焦りが浮かぶ。
「そ……、それでは……」
脳裏を、血塗れの主人の顔が過ぎった。
「あ、心配しないで、凍結の解除方法はちゃんと聞いてるから」
カロッサが、顔色を変えつつある青年に、慌てて手を振って答える。
ホッとする久居に、カロッサは続けた。
「ただ、その前にちょっとやってもらいたい事があるのよ」
久居は、クザンの言葉を思い出す。
『あのじーさんの事だ。お前らを何かに利用するつもりだぜ……』
クザンは、困ったような、けれどどこか懐かしそうな横顔でそう言った。
その言葉通りというだけだ。久居には心づもりができている。
「はい、覚悟は出来ています」
真剣な表情を向けられて、カロッサはほんの少し驚いた顔をした。
「あら、話が早いわね」
カロッサは、さっきからずっと、空竜ともふもふ戯れている少年へと視線を移す。
「えーと、それで……リル君は聞いてる?  話……」
「え?」
リルは、ほわりと可愛らしい笑顔を見せて尋ねた。
「何の話ー?」
カロッサは(本当に大丈夫かしら……)と心配せずにはいられなかった。
「申し訳ありません。リルには私からよく話しておきますので……」
久居が懸命に謝罪する。
ここで信頼を得られない事には、この先に繋がらない。
「あなた達には、こんな腕輪を取り返してほしいの」
カロッサは気を取り直して一枚の紙を差し出した。
そこには、流れる雲を模したような彫金がされた、ふっくらとした幅のある腕輪が描かれていた。
「取り返す……のですか」
取り返す。という事は、奪われたという事だ。
この腕輪は、奪われるほどの価値がある物だと言える。
「ええ、と言っても、盗られたのは私じゃなくて、リル君と同じくらいの歳の女の子なんだけどね」
その言葉に、リルがようやく興味を示す。
「顔までは分からないけど、居場所は大体分かるから、まずはその女の子を探すところから始めてもらえるかしら」
「はい、分かりました」
久居が答えると、リルがワクワクした表情で尋ねた。
「その女の子ってどんな子なのー? 人間ー?」
「多分人間ね。性格まではちょっと分からないわ」
「あれ? カロッサのお友達じゃないの?」
不思議そうに首を傾げるリルに、久居がそっと注意する。
「リル、敬語を……」
「あっ」
「久居君、もういいわよ、気にしないで」
そんな二人を、カロッサが苦笑しつつ宥めた。
「知り合いでもないわね。むしろ相手にはこちらが相手を知っていることは伏せておいた方がいいかも……」
カロッサの言葉に、久居は違和感を強める。
まるで、直接的な関わりは無いかのように聞こえた。
そんな関わりのない方の手助けを、私達が……?
「あくまで偶然を装って、手伝ってきてほしいの。お願いできるかしら」
「かしこまりました」
疑問は山ほどあったが、それを問うほどの信頼関係はまだ無いと判断し、久居はただ指示に従うことにする。
「なんで内緒なの?」
しかし、リルは素直な疑問を素直に口にした。
「ちゃんと仕事を終えたら教えてあげるわ」
カロッサは、気を悪くする様子もなく、ウインクを一つ投げて答える。
「今はまだ秘密よ」
「ええー……」
リルは不満そうだったが、久居はその反応にホッとした。
彼女は最初からとても友好的で、親しげに接してくださっている。
どうやら、答えられない質問はあれど、彼女には質問自体を拒否する気はないようだった。