薄茶色の髪が、ハサミでザクザクと豪快に切られている。
足元にパサリ、パサリと髪束が落ちてゆく。
リルは両手で鏡を抱え、青い顔でその作業を見守っていた。
ぐるりと髪を切り終わって、クザンがフーッと息を吐きながら、手の甲で汗を拭うような仕草を見せる。
「これでどうだ!」
泣きそうな顔をしていたリルが、ついにじわりと目に涙を溜める。
「せ……、せっかく今まで……一生懸命、伸ばしてたのに……」
どんよりと落ち込む息子の背を叩いて、クザンが明るく励ました。
「まーまー。髪なんて、ほっときゃいくらでもまた伸びるって」
それから、リルの髪でリルの耳を覆ってみたクザンが、一筋、汗を浮かべる。
「あー……。けど、思ったより……透けるなぁ」
早まった。と、その顔には書かれている。
「お前、髪の色、結構薄いんだなー……」
そんな父の顔を見て、リルが顔を引き攣らせる。
二人を少し離れたところで眺めていたリリーが、そっと声をかけた。
「分かってたけれどね」
「「え」」
二人の声が重なる。
「こうなるって」
リリーはにこにこしながら、夫と息子を見つめていた。
母はどうやら、二人が試行錯誤している様が微笑ましく、分かっていながら黙って見守っていたらしい。
リルは思わず鏡を取り落とした。
「うわーんっ、だったら切る前に言ってよーっ!」
堪えきれず泣き出したリルを、リリーはまだにこにこと眺めていた。

三年。
三年間の間を、ほとんど離れて暮らしていた息子は、鬼の血のせいか見た目は九歳ほどになっていただけだったが、それでも、どこか自分の知らない子になってしまったように感じた。
そんな子が、父に髪を切られて泣いている様は、リリーには今までと何も変わっていない気がして、何となく嬉しく思えていた。



久居は、菰野とフリーの凍結膜が置いてある部屋に居た。
この小屋は、菰野とフリーの姿を隠すように、二人が凍結した膜の周りを囲うように立てられた。
この部屋の隣には、三人分の布団を敷けばいっぱいになる程度の部屋もあり、リル達は今その部屋にいるようだ。

久居は隣の部屋から聞こえるワイワイとした声を耳にしながら、三年の間に伸びた自身の髪を手に取った。
後ろの高い位置で結んだ状態で、なお腰下まで伸びた黒髪を、肩のあたりで切り取る。
(菰野様……)
久居は菰野の顔を見つめる。
いつ見ても、菰野の血に塗れた姿は、久居に激しい後悔と強い決意をもたらした。
久居は切り取った髪を半紙で包むと、紐で束ねて菰野の傍へと捧げる。
(お傍をしばし離れる事を、どうかお許し下さい……)
菰野もフリーも、目を閉じたまま時を止めていた。
そのため久居はもう三年もの間、栗色の瞳を目にしていない。
その瞳に、もう一度映る事だけを、久居はずっと願ってきた。
(必ずや凍結を解除するすべを手に入れて、戻ってまいります)
久居は、目を閉じ、決意を胸に拳を握り締める。

三年の時を経て、久居は十八歳から二十一歳になっていた。
顔立ちはすっかり青年らしくなり、背も多少伸びている。
けれど、菰野は今も、十五歳のままだった。

今も変わらぬ主人に、今も変わらぬ忠誠を誓い、久居はその部屋を後にした。



久居が戸を開けると、クザンが顔を上げる。
「お、久居。今リルの……」
クザンの隣では、リルがべそべそと泣いていた。
「あれ? お前も髪切ったのか」
クザンに言われ、久居はほんの少し俯いて答える。
「ええ、せめて髪だけでもと……、菰野様のお傍へ……」
「えっ」
リルが慌てたように久居を振り返る。
「久居も髪切ったの? じゃあ、ボクとお揃い?」
顔じゅうを涙で濡らしたまま、リルが期待に満ちた顔で尋ねてくる。
「え、ええと……そうですね。髪を切ったという行為はお揃いと言えるかも知れませんね」
その期待を裏切れず、久居は話を合わせた。
「わーいわーいっ! 久居とお揃いになったーっ!」
笑顔を取り戻した少年に、久居は(髪型は全く違いますが……)と心の中だけで付け足す。
どうやら、リルは伸ばしていた髪が切られた事より、それによって久居とお揃いでなくなった事を悲しんでいたらしい。
すっかり機嫌を直した様子のリルに、クザンがホッとしながらフードを被せた。
予告もなしにいきなり頭に布をかけられて、リルが小さく「わぷっ」と言っている。
「やっぱフードかなー」
クザンの言葉に、
「フードは、布越しに角の輪郭が見えるわね……。フード自体も外れやすいし……」
と、リリーがやんわり否定を示す。
「何をなさっているのですか?」
尋ねる久居に、リリーが答える。
「リルの耳と角を隠すための方法を考えているところよ」
答えに礼を告げ、久居は自身の首巻きを解くとリルの頭に巻付けた。
「こういうのはいかがでしょうか」
ターバンのように頭を覆われたリルは、頭のふかふか具合に嬉しそうな顔をしている。
「……行き先がもう少し違ったら良かったかも知れないわね」
やんわりと却下するリリーに、クザンが首巻きを強引にひっぺがしながら尋ねる。
「リリーは何か案無いか?」
「そうねぇ……」
クザンに勢いよく布を引かれる反動で、リルがその場でぐるぐると回っているのを、久居が止めるべきかと焦っている。
そんな三人を、リリーは眩しそうに目を細めて見ていた。
夫と二人きりでは、きっとリルは苦労をしただろう。
夫は良い人ではあったが、何かにつけ力任せで、生活力がまるでない。
その点、久居はよく気の付く性格で、リルも非常に懐いていたし、何より家事の全てを万全に行えた。
きっと、この三人なら、リルも楽しく暮らせたのだろう。と、リリーは長く胸につかえていた罪悪感がじわりと溶けてゆくのを感じていた。
まだぐるぐると余韻に目を回している息子に近寄ると、リリーは手ぬぐいを頭に被せる。
その上から、昨日の晩の差し入れを届けた片手鍋をガポッとかぶせた。
「これでどうかしら」
すっかり目を回して「きゅー……」と、か細く鳴いているリルを余所に、クザンと久居は感嘆の声をあげる。
「「おおー」」
「それなら良さそうだな」
クザンはうんうんと頷きながら、鍋を被った息子を満足げに見下ろした。
「風対策に、布の先に錘があるといいかも知れませんね」
久居の言葉に、リリーが答える。
「そうね、じゃあ鍋の取っ手を外して、錘をつけて……色でも塗っておけばいいかしら」
リリーが作業を請け負おうとしている様子に、久居が申し訳なさそうに尋ねる。
「明日までに間に合いますか?」
かわりにその作業を引き受けようかとしている久居に気付いて、リリーは微笑んで応えた。
「ええ、任せておいて」
可愛い息子のために、この作業を彼女が行いたいと思っている事を、久居はその笑顔から感じ取った。

隣では、クザンがリルの被った鍋をコンコンとつついて、リルに「響くーっ」と嫌がられている。
「じゃあ戻るわね」
リルの頭の鍋を回収しながらリリーが声をかけた。
「はーい」と素直なリルの返事に「よーし、俺らはさっさと寝るぞー」とクザンが二人を見回す。
「はい」と久居も返事をした。