フリーは、暗い森の中を必死で駆けていた。

(お願い!! 菰野!! 無事でいて!!)

リルはそんな姉の足音を追っている。
けれど、その足音は遠ざかるばかりだった。
(ど……どんどん離されちゃうよ……)
リルの方がフリーよりも夜目が利く。
それでも、背の高さ……脚の長さの違いもあって、リルはフリーに離される一方だった。
(ボクの足じゃフリーには、追いつけない!!)
リルは、現実に涙を滲ませる。
遠ざかる足音と、その先から小さく途切れ途切れに聞こえる叫び。
きっとフリーにはまだ聞こえていない。
コモノサマは今、誰かにやられてる。
でも、伝えたところで姉は余計駆け付けようとするだろう。
どうすれば良いのか分からずに、リルはただ祈りながら、必死に走り続ける。
どうか、姉が危ない目に遭いませんように……と。

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「ぐあっ!!」
菰野の叫びが、暗い森に吸い込まれる。
その両太腿からは鮮血が溢れていた。

「これでもう、逃げる事もないな」
葛原の足元では、荒い息の菰野が後ろに手を付き、崩れそうな身体を何とか支えていた。
「葛兄様……どうしてですか……」
かすれた声で菰野が尋ねる。
栗色の瞳が、それでもどこか縋るような、祈るような色で葛原を見上げていた。

葛原は思う。
父上と同じ栗色の瞳、父上と同じ栗色の髪。
どれだけ欲しいと思ったことか。
いつもいつも羨ましくてたまらなかった。

自身の目と髪は、父上とは似ても似つかない青鈍色で、それは、葛原をいつも冷たく見下ろす母の色だった。
この瞳を隠したくて、前髪を伸ばし始めたのはいつだったのか。
もう、随分と昔の事だ。

「理由など、お前が知る必要はない……」
葛原の言葉に、菰野が荒い息の合間から掠れた声を漏らす。
「……そんな……」
菰野の滲んだ瞳は、まだ疑問や悲しみに惑うばかりだった。
せめて、お前が私を憎んでくれれば。もっと違った目で見てくれたなら……。
そんな願いを込めて、葛原は菰野を刀の鎬で殴り付けた。
「そのお前の、眼も! 髪も!!」
菰野の頬と頭に新たな傷が付く。
「昔からずっと気に食わなかっただけだ!!」

「昔……から……?」
目の端に涙を滲ませながらも、菰野の表情は変わらなかった。
幼さの残る顔に、髪を伝った赤いものがくっきりと色を残して流れてゆく。
「けれど……私が幼い頃、葛兄様はよく遊んでくださって……」
菰野の言葉に、葛原の胸に懐かしい日々が過ぎる。

幼い頃は、常に葛原にべったりだった菰野。
いつもにこにこと私の後ろを付いてきた。
菰野は私に、溢れんばかりの笑顔をくれた。

私を唯一慕ってくれた菰野。

そんなお前が本当に可愛かった……。

だが、お前と一緒に居れば居るほど、父上が、どれほどお前を愛しく思っているのかが伝わってきて、私に対するそれとの違いを見せ付けられているようだった。
『葛原は、いつも菰野と遊んでやって、いいお兄さんだな』
父上はそうおっしゃった。
私が菰野と一緒にいる時、父上は、とても嬉しそうになさった。
それが、従弟と遊んであげている私に向けられたものでなく、従兄に遊んでもらっている菰野に向けられているものだと気付くのに、そう時間はかからなかった。

「……お前の為ではない……」
「え……」
葛原の零した言葉に、菰野の声は震えていた。

「話はここまでだ」

意識を目の前の菰野に集中させるべく、軽く頭を振る。
そのまま静かに息を吐き、腰を落とした。

狙うは心臓。苦しめるつもりはない。

そこへ、駆け寄る足音が近付く。
「菰野!」
声からして、あの女だろうか。
しかし、葛原はもうその手を止めるつもりは無かった。

「あの世で父上に、可愛がってもらえよ……」
袈裟斬りに、菰野の左肩から斜めに刀を振りおろす。
刀は、十分な深さをもって、幼さを残した身体に食い込んだ。

何を求めていたのか、菰野は葛原へと右手を伸ばしかけた姿のまま、崩れるように地に沈む。
勢いよくふき出した鮮血が、菰野の周囲に血溜まりを作ろうとしていた。

「……こ」
駆け付けたフリーが目にしたのは、赤い雫を撒き散らしながら、なすすべもなく崩れる少年の姿だった。
「菰野!!!」
フリーの全身がガクガクと震える。
少女は怖くて怖くてたまらなかった。
「菰野! しっかりして!!」
悲痛な声を上げ、菰野に縋り付くフリーを、葛原は見下ろしていた。
「死んじゃ駄目だよっ! 菰野!!」
涙を零し、菰野だけを必死で見つめるこの少女には、これだけ至近距離で、剥き出しの刀を持って立つ葛原が、まるで目に入っていないようだった。
「菰野の女……か」
葛原の呟きに、驚いたように顔を上げるフリー。

その姿に、葛原は、やはり、と。菰野を羨ましく思う。
父上といい、加野伯母様といい、この妖精といい、久居といい……。
お前は、本当に多くの者に、心から愛されているのだな……。

ピクリともしない菰野に視線を落とす。
(私と……違って……)
菰野はもう死んだのだろうか。
苦しむようなら首を落としてやるつもりだったが。
「よし……特別に、お前も菰野の許へ送ってやろう……」
菰野への最後の手向けに、この妖精を添えることにして、葛原は刀を上段に構える。

フリーは、言葉とあまりに釣り合わない、男の優しげな微笑みに全身を震わせた。
(この人……なんでこんな事して、そんな表情(かお)できるの!?)
「動くなよ……一刀で仕留めてやる」
男の高く掲げた刀は、月光を映して、真っ直ぐ天を指しているかのようだった。
(に、逃げなきゃ……)
恐怖をありありと映して、葛原を見上げる妖精の瞳が、月の光を浴びて金色に輝く。
その体も足も、恐怖からかひどく震えて、力を入れようとしても叶わない。
(駄目……動けない!!)
葛原は、その金の瞳に向けて、真直ぐに刀を振り下ろした。