薄暗くなってきた山の中で、葛原は困惑していた。
引き連れていた兵達は、一人、また一人と、膝を付き、崩折れてゆく。
まだ立っている者達も、槍や木の幹を支えにようやくという有様で、それは葛原も例外ではなかった。
(何だこの状況は……。本当に呪いのかかった山だとでも言うのか……)
後ろを振り返っていた葛原は、視線を先に戻そうとして、酷い目眩に襲われる。
「ーーっ……」
歪む視界の中で、葛原はただ一人真っ直ぐに立つ人物に気付いた。
「葵、お前は何ともないのか?」
「はい」
葛原の刺すような視線に、葵はほんの少し考えてから答える。
「……そうですね、先程は私もこの辺りで具合が悪くなったのですが、今回はまだ……。耐性でもついたのでしょうか?」
「……」
眉を顰めたまま黙ってしまった主人を、葵は気遣う。
「お体の調子が優れないようでしたら、少し戻りましょうか?」
「…………そうだな」
葛原は青白い顔でそう答えると、続けた。
「では、我々は先に城へ戻っておくとしよう。お前はこのまま菰野達を追え。菰野か、あの女のどちらかを攫ってくるんだ」
その命に「はい」と答え切れずに、葵が言葉を返す。
「お、お言葉ですが、菰野様はこのまま放っておいても、もう城には戻って来られないのでは……」
せめて、お助けする事はできなくとも、生きていてさえくれれば。
葵はそう願う。
けれど葛原はハッキリと告げた。
「だから追うのだ」
「え……」
「さっさと行け!」
「は、はいっ」
葛原に殺意の滲んだ声で命じられ、葵は返事と同時に地を蹴った。
揺れる視界の中、葛原は葵の向かった方向を睨みつけるようにして、胸中で叫ぶ。
(このまま逃してたまるものか!!)
葛原の、刀を握る手に、決意と共に力が込められる。
(菰野だけは……私のこの手で必ず……!!)
菰野の息の根を止める瞬間を、葛原は強く強く願った。
----------
葛原の明確な殺意は、離れている菰野へ悪寒として伝わる。
ぞくぞくと背筋を震わせた主人に、久居は気付いた。
「どうかなさいましたか?」
「あ、いやちょっと寒気が……」
答える菰野の頬は先程よりもずっと赤かった。
熱い息を吐く主人の額に、久居は手を当てる。
「熱が出てきてしまいましたか……」
菰野の受けた傷の大きさを思えば不思議ではなかったが、久居はどこか不安に思った。
従者のヒヤリとした手が心地良かったのか、菰野は静かに目を閉じる。
「とにかく横になってください。水を汲んで参ります」
久居の声に、リルが申し出る。
「あ、ボク家から布団持って来ようか?」
久居は一瞬迷ったが、熱のある菰野を冷たい草の上で寝かせたくなくて、それに甘えた。
「お願いできますか」
「うんっ」
駆け去るリルの後ろ姿を見送りながら、久居は自身が周囲の警戒に一層気を配ろうと緊張を高める。
二人きりとなった森の中で、久居は木の葉を集めて枕を作り、なるべく草の乾燥していそうなところへ菰野を横たえると、手ぬぐいを絞って額へと添えた。
かなり暗くなってきた森の中を、リリーの残していったランタンが不思議な光で満たしている。
そのランタンは火のかわりに中央に据えられた石のようなものが輝いていて、温かみのある炎の色とはまた違う、揺れのない白っぽい光に、二人はぼんやりと横顔を照らされていた。
「寝苦しくありませんか? やはり私のマフラーを……」
「それはもう、やめておけ」
菰野の脇で正座している久居に、菰野はほんの少し苦笑を浮かべて答えた。
優しい声色ではあったが、菰野の息は少しずつ上がりつつある。
熱に頬を染め、汗を滲ませ、痛みに耐えながら、それでも久居を気遣う菰野に、久居は堪らず口を開いた。
「傷が、疼きますか……」
聞かずにいられなかったのか、久居は思い詰めたような瞳で自身より幼い主人を見つめていた。
「ああ……まあ、少しだけな……」
菰野は、痛くない無いとも言えない状況に、仕方なくそう答えた。
突然、久居がハッと顔を上げる。
(人の気配!?)
久居の様子に菰野も体を起こす。
「どうした?」
「いえ……少し様子を見てまいります。菰野様は休んでいてください」
久居は起きあがろうとする菰野をもう一度横にさせると、額の手ぬぐいを乗せ直す。
こう暗くなってきては、ランタンを持って移動すれば逆に目立つだろう。
ここは夜目の効く久居に任せる方が良さそうだ。と、菰野も判断する。
「ああ……気をつけろよ」
菰野は久居の言葉に大人しく従うと、たった一人の従者の背を、その無事を祈りながら見送った。
----------
「……どうして葛原様は、こうも菰野様に御執心なのかしら……」
暗くなってきた森を進む葵には、それがどうしても理解できなかった。
あの兄弟は、葵が城に入った頃は、とても仲の良い兄弟だった。
仲違いをするような出来事も、葵には思い浮かばない。
確かに譲原皇は、葛原様に比べて菰野様をより可愛がっていたように思う。
それが葛原様には面白くなかったのかも知れない。
けれど、そんな譲原皇は、もうご崩御されてしまったのに……。
だからこそ、葵は『どうして』と思わずにはいられなかった。
「それにしても、先程と違って、ほとんど苦しくならない……」
すいすいと進む足が、何だか不思議に思えて呟く。
「そこにいるのは誰ですか!!」
鋭い声は、葵には聞き馴染みのある声だった。
「久居様!」
「葵さん!?」
葵は久居に駆け寄りながらうったえる。
「まだ皆さんはこんなところにいらしたんですか!? 葛原様は明日にもまた、この山にいらっしゃるおつもりです!!」
葵の様子に、久居は柄を握る手を弛めた。
「落ち着いてください。この山はもう何百年もこの地に人を寄せ付けていません、そう簡単にどうにか出来るようなものでは……」
言いながら、久居は気付く。
「ですが、現に私はこうして……」
「葵さん、菱形の小さな石を拾いましたね?」
「え」
久居の言葉に、葵は懐へと手を入れる。
「あ、これの事ですか? どうしてご存知……」
紐を握って取り出した石が、葵の肌から離れる。
「ーーっ!!」
途端、葵は体の制御を失った。
膝から崩れる葵を、久居が抱き止めると同時に石をその身に押し当てた。
「体から離しては危険です!」
久居は、葵の手にしっかりと石を握らせる。
「その石が今、貴女の身を守っているのですから」
葵は久居の腕の中で、どぎまぎとした動揺を抑えつつ、じわりと顔を上げた。
その頬はほんのりと朱色に染まっている。
「それは……どういう……」
「詳しくは話せませんが」と前置きしつつ久居は葵をそっと地におろす。
「こちらとしてはその石を回収しなくてはならないのです」
久居の言葉に、葵はまだ赤い頬のまま素直に頷く。
「は、はい、お返ししま……」
「葵さん」
その言葉を、久居は敢えて遮った。
「貴女が現在受けている命は何ですか」
久居は何かを堪えるように、自身の腕を握りしめて続ける。
「先皇亡き今、貴女が仕えているのは葛原皇のはずです……」
伏せられた黒い瞳は、森の闇の中、僅かに赤く映る。
だが久居のその色を見る者は、誰も居ない。
「お気持ちは本当にありがたいです……。しかし、葵さんにも、里の代表として城に仕えるというお立場が……」
葵を気遣う久居の言葉は、今の葵には、ただただ苦く聞こえた。
黒髪の内側に表情を隠した葵は、しばらくそのまま黙っていたが、やがて、俯いたままに重い口を開く。
「……葛原皇は、菰野様に固執しておいでです。
お二人が城に戻らないと知ってなお、追うおつもりなのです」
葵の胸に、幼い菰野と久居を見守っていた日々が蘇る。
あの頃から、久居はよく陰に潜む葵の視線に気付いていた。
隠密として、警護対象に気取られるのは力不足だと分かってはいたものの、こちらに気付く度、感謝を込めて頭を下げる少年の気持ちが、葵にはとても嬉しかった。
譲原皇より二人の警護の命を受けてから、もう八年になる。
ここまでずっと見守り続けていた二人を、まさか、殺すための命を受ける日が来るなんて……。
葵の心は、まだこの現実を受け入れられずにいた。
「……このままでは、いずれ菰野様も、……久居様も……」
表情こそ隠しているが、葵の声は僅かに震えていて、久居はなるべく柔らかい声で答えた。
「分かりました」
葵が、思ったよりもずっと優しい久居の声に、顔を上げる。
「今回は、葵さんのご厚意に甘えさせてください」
微笑んだのか、久居の纏う空気がふわりと和らぐ。
「いつもすみません……助かります」
葵は、救われたような気持ちになる。
(久居様……)
どこかスッキリしたような顔で、小柄な隠密は微笑んだ。
「はいっ」
引き連れていた兵達は、一人、また一人と、膝を付き、崩折れてゆく。
まだ立っている者達も、槍や木の幹を支えにようやくという有様で、それは葛原も例外ではなかった。
(何だこの状況は……。本当に呪いのかかった山だとでも言うのか……)
後ろを振り返っていた葛原は、視線を先に戻そうとして、酷い目眩に襲われる。
「ーーっ……」
歪む視界の中で、葛原はただ一人真っ直ぐに立つ人物に気付いた。
「葵、お前は何ともないのか?」
「はい」
葛原の刺すような視線に、葵はほんの少し考えてから答える。
「……そうですね、先程は私もこの辺りで具合が悪くなったのですが、今回はまだ……。耐性でもついたのでしょうか?」
「……」
眉を顰めたまま黙ってしまった主人を、葵は気遣う。
「お体の調子が優れないようでしたら、少し戻りましょうか?」
「…………そうだな」
葛原は青白い顔でそう答えると、続けた。
「では、我々は先に城へ戻っておくとしよう。お前はこのまま菰野達を追え。菰野か、あの女のどちらかを攫ってくるんだ」
その命に「はい」と答え切れずに、葵が言葉を返す。
「お、お言葉ですが、菰野様はこのまま放っておいても、もう城には戻って来られないのでは……」
せめて、お助けする事はできなくとも、生きていてさえくれれば。
葵はそう願う。
けれど葛原はハッキリと告げた。
「だから追うのだ」
「え……」
「さっさと行け!」
「は、はいっ」
葛原に殺意の滲んだ声で命じられ、葵は返事と同時に地を蹴った。
揺れる視界の中、葛原は葵の向かった方向を睨みつけるようにして、胸中で叫ぶ。
(このまま逃してたまるものか!!)
葛原の、刀を握る手に、決意と共に力が込められる。
(菰野だけは……私のこの手で必ず……!!)
菰野の息の根を止める瞬間を、葛原は強く強く願った。
----------
葛原の明確な殺意は、離れている菰野へ悪寒として伝わる。
ぞくぞくと背筋を震わせた主人に、久居は気付いた。
「どうかなさいましたか?」
「あ、いやちょっと寒気が……」
答える菰野の頬は先程よりもずっと赤かった。
熱い息を吐く主人の額に、久居は手を当てる。
「熱が出てきてしまいましたか……」
菰野の受けた傷の大きさを思えば不思議ではなかったが、久居はどこか不安に思った。
従者のヒヤリとした手が心地良かったのか、菰野は静かに目を閉じる。
「とにかく横になってください。水を汲んで参ります」
久居の声に、リルが申し出る。
「あ、ボク家から布団持って来ようか?」
久居は一瞬迷ったが、熱のある菰野を冷たい草の上で寝かせたくなくて、それに甘えた。
「お願いできますか」
「うんっ」
駆け去るリルの後ろ姿を見送りながら、久居は自身が周囲の警戒に一層気を配ろうと緊張を高める。
二人きりとなった森の中で、久居は木の葉を集めて枕を作り、なるべく草の乾燥していそうなところへ菰野を横たえると、手ぬぐいを絞って額へと添えた。
かなり暗くなってきた森の中を、リリーの残していったランタンが不思議な光で満たしている。
そのランタンは火のかわりに中央に据えられた石のようなものが輝いていて、温かみのある炎の色とはまた違う、揺れのない白っぽい光に、二人はぼんやりと横顔を照らされていた。
「寝苦しくありませんか? やはり私のマフラーを……」
「それはもう、やめておけ」
菰野の脇で正座している久居に、菰野はほんの少し苦笑を浮かべて答えた。
優しい声色ではあったが、菰野の息は少しずつ上がりつつある。
熱に頬を染め、汗を滲ませ、痛みに耐えながら、それでも久居を気遣う菰野に、久居は堪らず口を開いた。
「傷が、疼きますか……」
聞かずにいられなかったのか、久居は思い詰めたような瞳で自身より幼い主人を見つめていた。
「ああ……まあ、少しだけな……」
菰野は、痛くない無いとも言えない状況に、仕方なくそう答えた。
突然、久居がハッと顔を上げる。
(人の気配!?)
久居の様子に菰野も体を起こす。
「どうした?」
「いえ……少し様子を見てまいります。菰野様は休んでいてください」
久居は起きあがろうとする菰野をもう一度横にさせると、額の手ぬぐいを乗せ直す。
こう暗くなってきては、ランタンを持って移動すれば逆に目立つだろう。
ここは夜目の効く久居に任せる方が良さそうだ。と、菰野も判断する。
「ああ……気をつけろよ」
菰野は久居の言葉に大人しく従うと、たった一人の従者の背を、その無事を祈りながら見送った。
----------
「……どうして葛原様は、こうも菰野様に御執心なのかしら……」
暗くなってきた森を進む葵には、それがどうしても理解できなかった。
あの兄弟は、葵が城に入った頃は、とても仲の良い兄弟だった。
仲違いをするような出来事も、葵には思い浮かばない。
確かに譲原皇は、葛原様に比べて菰野様をより可愛がっていたように思う。
それが葛原様には面白くなかったのかも知れない。
けれど、そんな譲原皇は、もうご崩御されてしまったのに……。
だからこそ、葵は『どうして』と思わずにはいられなかった。
「それにしても、先程と違って、ほとんど苦しくならない……」
すいすいと進む足が、何だか不思議に思えて呟く。
「そこにいるのは誰ですか!!」
鋭い声は、葵には聞き馴染みのある声だった。
「久居様!」
「葵さん!?」
葵は久居に駆け寄りながらうったえる。
「まだ皆さんはこんなところにいらしたんですか!? 葛原様は明日にもまた、この山にいらっしゃるおつもりです!!」
葵の様子に、久居は柄を握る手を弛めた。
「落ち着いてください。この山はもう何百年もこの地に人を寄せ付けていません、そう簡単にどうにか出来るようなものでは……」
言いながら、久居は気付く。
「ですが、現に私はこうして……」
「葵さん、菱形の小さな石を拾いましたね?」
「え」
久居の言葉に、葵は懐へと手を入れる。
「あ、これの事ですか? どうしてご存知……」
紐を握って取り出した石が、葵の肌から離れる。
「ーーっ!!」
途端、葵は体の制御を失った。
膝から崩れる葵を、久居が抱き止めると同時に石をその身に押し当てた。
「体から離しては危険です!」
久居は、葵の手にしっかりと石を握らせる。
「その石が今、貴女の身を守っているのですから」
葵は久居の腕の中で、どぎまぎとした動揺を抑えつつ、じわりと顔を上げた。
その頬はほんのりと朱色に染まっている。
「それは……どういう……」
「詳しくは話せませんが」と前置きしつつ久居は葵をそっと地におろす。
「こちらとしてはその石を回収しなくてはならないのです」
久居の言葉に、葵はまだ赤い頬のまま素直に頷く。
「は、はい、お返ししま……」
「葵さん」
その言葉を、久居は敢えて遮った。
「貴女が現在受けている命は何ですか」
久居は何かを堪えるように、自身の腕を握りしめて続ける。
「先皇亡き今、貴女が仕えているのは葛原皇のはずです……」
伏せられた黒い瞳は、森の闇の中、僅かに赤く映る。
だが久居のその色を見る者は、誰も居ない。
「お気持ちは本当にありがたいです……。しかし、葵さんにも、里の代表として城に仕えるというお立場が……」
葵を気遣う久居の言葉は、今の葵には、ただただ苦く聞こえた。
黒髪の内側に表情を隠した葵は、しばらくそのまま黙っていたが、やがて、俯いたままに重い口を開く。
「……葛原皇は、菰野様に固執しておいでです。
お二人が城に戻らないと知ってなお、追うおつもりなのです」
葵の胸に、幼い菰野と久居を見守っていた日々が蘇る。
あの頃から、久居はよく陰に潜む葵の視線に気付いていた。
隠密として、警護対象に気取られるのは力不足だと分かってはいたものの、こちらに気付く度、感謝を込めて頭を下げる少年の気持ちが、葵にはとても嬉しかった。
譲原皇より二人の警護の命を受けてから、もう八年になる。
ここまでずっと見守り続けていた二人を、まさか、殺すための命を受ける日が来るなんて……。
葵の心は、まだこの現実を受け入れられずにいた。
「……このままでは、いずれ菰野様も、……久居様も……」
表情こそ隠しているが、葵の声は僅かに震えていて、久居はなるべく柔らかい声で答えた。
「分かりました」
葵が、思ったよりもずっと優しい久居の声に、顔を上げる。
「今回は、葵さんのご厚意に甘えさせてください」
微笑んだのか、久居の纏う空気がふわりと和らぐ。
「いつもすみません……助かります」
葵は、救われたような気持ちになる。
(久居様……)
どこかスッキリしたような顔で、小柄な隠密は微笑んだ。
「はいっ」