久居は、フリーの前で言葉を失っている菰野に、知る限りの真実を伝えようとしていた。
主人の背を見つめて、必死に口を開く。
しかし、押さえられた首は息を吸うことすら困難で、ほんのわずかに漏れた息も、声になる事はなかった。
(この状態では、声も出せませんか……)
グラグラと揺れる足元に回る世界の中、久居は心で強く叫ぶ。
(菰野様……! 違うんです……!!)

「私は、お前が悪い妖精に呪いをかけられぬよう、助けてやったのだ」
フリーの首筋から刃を逸らさぬままに、葛原が神妙な面持ちで告げる。
「分かったら、腰の刀から手を離せ」
菰野はまだ鯉口こそ切っていなかったが、鞘を握る左手の親指は鍔にかかっていた。
どこか祈るような菰野の視線は、妖精の隣に立つ義兄に注がれている。
「今ならまだ、寛大な処置で済ませてやる事もできるぞ?」
葛原は、ほんの少し口元だけで微笑んだ。
久しぶりに見た義兄の笑顔に、菰野は胸が締め付けられる。
この人は、こんな事をできるような人ではなかったのに……。

義兄は寂しく、悲しい人だったけれど、間違いなく、優しい人だった。
俺の事を、本当に、可愛いがってくれた。

それがどうして……、こんなことになってしまったのか。
菰野は縋るような瞳で、葛原を見つめる。
葛原はその視線から逃れるように、妖精に視線を落とした。
「何せ、お前は騙されていたのだからな。この妖精に……」
「違ーーっ!」
フリーが、反射的に顔を上げる。
「その触角と翅を隠していたのは何の為だ?」
言われて、フリーは息を呑んだ。
「菰野を欺く為なのだろう?」
冷たい男の言葉に、金色の瞳に溜まっていた涙が、音もなく頬を伝い落ちる。
(……その通りだ……私……)
翅も、耳も、触角も、フリーは今までずっと、菰野に隠していた。
(菰野に嫌われたくないからって……。菰野にずっと、嘘ついてたんだ……)
少女は自覚する。
(私……最低だ……)
嫌われてしまうかも。なんて、そんな自分勝手な理由で。
(こんなの嫌われて当然だよ……)
堪らず目を閉じてしまった少女の様子に、菰野は口を開いた。
「違うよ」
少年は、自分のせいで宙吊りにされている少女へ、静かに謝罪する。
「僕のほうこそ、ずっと黙っててごめん……」
同時に、心を決める。
罪のない彼女の事は、何としても救おうと。
そのためには、義兄を……城での生活を、諦めなくてはならないと。
悲しみを隠して、菰野は続ける。
「本当は、フリーさんが妖精だって、出会った時から気付いてたんだ……」
そう。隠していたのは、彼女だけでは無かった。
菰野もまた、気付いていたのに気付かないふりを続けていたのだから。
「けど、それを伝えたら、もうフリーさんに会えなくなっちゃうんじゃないかって、そう思うと……怖くて言えなかったんだ……」
菰野は正直な気持ちを告げる。
彼は、弱い部分を見せる事には慣れていた。
「菰野……」
フリーは、真っ直ぐな言葉に心を打たれる。

あからさまに動揺したのは、葛原だった。
「何だと!?」
葛原は、菰野に叫ぶ。
「妖精は、お前の母を殺した相手だぞ!?」
対する菰野は、静かに答えた。
「私には……少なくとも彼女が、そんな事をするとは思えません……」
その言葉に、フリーは胸が熱くなる。
(妖精の事……ずっと黙ってたのに、それでも私を信じてくれるの……?)
少女は、震える声で、辿々しく尋ねた。
「菰野は……私が妖精でも、その……。……怖がったり、嫌いになったりしないの……?」
どこか祈るような、願いを込めた金色の瞳が、菰野を見つめる。
少年は、ふわりと微笑んで答えた。
「うん、もちろん」
栗色の髪と瞳を揺らして、いつものあたたかな笑顔で、菰野は続ける。
「僕は、フリーさんが好きだよ」
その言葉に、少女は頬を桜色に染めた。
「菰野……」

「チッ」
葛原は舌打ちを落とす。
こんな会話をさせるために、わざわざ攫わせたわけじゃなかった。
葛原は頭を切り替える。
(この女が菰野にとって大事なことに変わりないなら、それを利用するまでだ!!)
脇差を左手に持ち替えると、告げる。
「もういい。菰野、こちらへ来い」
刃は変わらずフリーの首筋を狙っている。
「はい……」
抵抗する術もなく近寄る菰野へ、葛原は左手の脇差をそのままに、体を捻って右腕で本差を抜刀する。
義兄に、木刀でなく真剣を向けられて、菰野は戸惑いを浮かべた。
美しい刃文を浮かべた抜き身の刀は、菰野の左肩にそっとその刃を乗せられた。
「葛兄様……何を……」
葛原は、どこか優しげに目を細める。
「妖精に取り憑かれてしまったお前を、この私の手で、あの世に送ってやろう」
囁くような言葉とともに、葛原はその手に力を込める。
「有り難く思えよ」
葛原の口端がじわりと上がる。
刃は力を込めて引かれる事で、菰野の服を裂き、その下の肉へと食い込んだ。
「ーーっあ゛!」
菰野が堪らず声をあげる。
刀は、ゆるやかに彼の身を裂く。
そこから鮮血がじわりと滲み、広がってゆく。

((え!?))
幾人かの動揺が部屋に広がる。
「菰野っ!!」
フリーは必死で叫んだ。

久居は、葵が動揺から力を弛めたと気付くと、すぐさま手首を引き抜き、肘を彼女の鳩尾に突き立てる。
(すみません、葵さん!)
耳元で聞こえた彼女の呻きに、久居は心で謝罪しつつ、菰野の元へ走る。

「久居!? こいつの命が」
葛原の声は、大きく響いた金属音に掻き消される。
ギィンと耳を刺すような音に葛原が振り返ると、天井に固定されていた鎖を切られた少女が、菰野に抱えられていた。
「な……」
切られた鎖の欠片が、断面をキラキラと反射させながら床へと落ちてゆく。
その欠片のひとつひとつが、とてもゆっくり動いて見えるほど、それは本当に一瞬の事だった。
(何だ……今の動きは……)
葛原は、信じられない出来事に、呆然とする。

「久居! 頼む!!」
「はいっ」
菰野は、まだ棒に固定された少女を従者へと預けた。
後ろで鎖が外される音を聞きながら、菰野は義兄へと刀を構える。
痛む肩よりも、菰野には自分が義兄に刃を向けてしまった事の方がずっと辛かった。
「菰野様!」
久居が、フリーの拘束が全て外れた旨を伝えようと名を呼ぶ。
「大丈夫だ! フリーさんを連れて外へ出ろ!!」
菰野は振り返らず命じ、久居は躊躇う事なくフリーを連れて櫓を出た。

葵は壁に叩きつけられたまま動かない。
急に二人きりとなった室内で、葛原が呻いた。
「大丈夫……だと?」
葛原は、左手の脇差を後ろへと放り捨て、両手で刀を正眼に構える。
菰野はそんな義兄の姿を、これで最後になるかも知れない義兄の姿を、焼き付けるように見つめた。

「私に、剣術で勝った事もないお前がよく言う……」
葛原の刀から、菰野の血がぽたりと滴る。
(そうだ……、私は菰野に負けたことなど、一度もない!!)
葛原は、自身を奮い立たせると、裂帛の気合いとともに斬りかかった。
「はぁぁぁぁぁぁっ!!」
菰野は義兄の刀を受け止める。金属同士がぶつかり合う音。
しかし、二度目は一度目とは違う音だった。
葛原の持っていた刀は、その手を離れ、吹き飛んだ。
それが落ちる音がする頃には、菰野の刃は葛原の首元にあった。
首に触れる直前でピタリと止められた刃。そこから伝わる僅かな冷気に、葛原は知らず震えた。
「な………………何故…………だ……」
震える声で、それでもどうしても、彼は問わずにはいられなかった。
菰野は顔面蒼白となった義兄を哀しく見つめて、彼の問いに答えた。
「私は、立場上……葛兄様に勝つわけにはいかなかったのです」
外へと駆け出した菰野の後ろで、葛原はガクリと両膝を付く。
(……何だと……?)
葛原は理解しきれなかった菰野の言葉を、もう一度反芻する。
(それは、つまり……)
理解する事を拒否しようとするように、頭がゆっくりとしか動かない。
葛原は、今まで一度も、菰野を疑ったことが無かった。
あの可愛い義弟が、自分に嘘をつくなど、あり得ないと心のどこかで思っていた。
……どうしてそんなに、信じてしまっていたのだろうか……。

(私は今まで……、本気を出してもいない菰野を倒して、勝った気になっていただけだと、いうのか……)

ようやく理解できたそれは、やはり、理解したくない事実だった。

「う……」
壁際で小さな呻きが聞こえ、葛原は我に返る。
壁に強か叩きつけられていた葵が、ふらつく頭を押さえながら、小柄な体を起こそうとしていた。
「葵! 兵を出せ!」
葛原は、震え出しそうな体を気取られないよう、大きく腕を振って指示を出す。
「菰野を絶対逃すな! !」