静かな森の中を、手足まで黒尽くめの小柄な女性がふらつく足取りで進んでいた。
息も上がっているのか、小さな肩が絶えず上下している。
山を登り進むほどに、彼女の体調は悪化していた。
(いけない……。これ以上近付くと、山の気にあてられてしまう……)
葵は、繰り返される目眩にふらつく頭を押さえて、その先へと意識を集中させる。
この山を、自分よりも先に登って行った、自分よりも幼い二人の姿を思う。
(菰野様と久居様はご無事なのでしょうか……)
あからさまに尾行を警戒しつつ山の奥へと進んでいった菰野と、それを気付かれぬよう慎重に追っていた久居。
どう見ても挙動不審な二人ではあったが、その程度の不審では揺るがぬほどに、葵は二人が幼い頃からずっと、二人の日々を見守っていた。

そんな二人が、自分のように体調に異常をきたしているのではと、山の奥へ不安を残しながらも、葵は元来た道を戻ることにして振り返る。
登り始めた頃は何ともなかったはずだ。
どこまでなら体調に異変をきたさずいられるのか、その境界を見極めるべく、葵は慎重に下山する。
どうか、この体調不良を引き起こしている呪いが、死に至るようなものでないように。と祈りながら。
震える手足は呪いによるものなのか、それとも呪いへの恐怖からなのかは、自分にも分からなかった。

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「え……?」
リルは、自分の耳に届いた言葉を飲み込みきれず、聞き返す。
「……じゃあ、今日から一年も……、久居に会えないの……?」
自分の声が震えて聞こえて、リルは小さな手で口元を押さえた。
「……すみません……」
久居は、ただ静かに頭を下げる。
そんな仕草に、リルはじわりと罪悪感を感じた。
「う、ううん。お仕事だもん、仕方ないよね……」
風が木々を揺らす。
静かな森に、葉擦れの音だけが波紋のように広がった。
「でも……ちょっと」
リルが、久居から目を逸らす。
俯いた薄茶色の大きな瞳には、涙がじわりと滲んでいた。
「……淋しい……かな……」
溢れた言葉とともに、涙がポロポロと足元に降り注ぐ。
我慢しきれなかった涙を隠すように、リルは久居に背を向ける。
泣きつく事もなく、心配させまいと背を向けて、こしこしと小さな指で涙を拭う少年の様子に、久居は胸が痛んだ。
(リル……貴方にとって私はどのような存在なのですか……?)
少年の後頭部には、前に結ってやった髪が、同じように括られていた。
紐には、久居の譲った古いものがそのまま使っていて、それもまた、久居を苦しくさせた。
「フリーも、しばらくコモノサマとはお別れなんだね……」
背を向けたままのリルが、小さくぽつりと呟く。
「そうですね……」
同じく悲しい思いをしているだろう姉を思う少年の背に、久居は自分が何を見ているのか、自問する。
(では、私にとって、リルは……、どのような存在なのでしょうか……?)
けれど、その答えは、まだ久居には出せなかった。

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「じゃあそろそろ戻るね」
おもむろに立ち上がる菰野に、フリーは思わず手を伸ばす。
「あ……」
それに気付いて、菰野は柔らかい笑顔で尋ねた。
「うん、何?」
「えー……と」
思わず伸ばした手を、慌てて引っ込めながら、フリーは言葉を探す。
「き、気をつけて行ってきてね」
「うん」
「お土産、期待してていいのかな?」
「何か選んで帰ってくるね、楽しみにしてて」
フリーの直接的な要求にも、菰野は変わらぬ笑顔で答える。
「それじゃ、フリーさんも元気でね」
背を向けた菰野の服の裾を、フリーは思わず掴んでいた。
「うわっ!!」
一歩進むはずだった菰野が、姿勢を崩して転びかける。
「あ……、ごめん……」
フリーは謝りながら、その手を離した。

「ど、どうしたの?」
菰野がまだバクバクしている心臓を押さえつつも、極力変わらぬ表情で尋ねる。
「えー……、えーと……」
フリーは、自身の行動を説明できずに困惑していた。
(何だろう……。何か、菰野をこのまま行かせちゃいけない気がして……。
 けど、これって、ただ私が菰野と離れたくないだけなのかな……?)
困った顔で黙ってしまったフリーに、菰野が気遣わしげに尋ねる。
「……フリーさん?」
そんな声に、フリーは俯いていた顔を少しだけ上げると、どこか必死さのある潤んだ瞳で菰野を見つめて尋ねた。
「し、下まで一緒に行ってもいい?」
(もう少しだけなら平気だよね、結界……)
フリーの脳裏で母の姿がチラつく。
「う、うん。いいけど……」
菰野は、そんな彼女を可愛くと思いながらも、そんなに村から離れて大丈夫なのかと、心配せずにはいられなかった。

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「……あ」
久居の膝の上で甘えていたリルの瞳に、悲しみが宿る。
「どうしました?」
「コモノサマ帰っちゃうみたい……」
音を聞き取るために上げていた顔を、リルはもう一度久居に押し付けた。
「そうですか……。では私も戻りますね」
そう答えながらも、久居は優しくその小さな頭を撫でる。
「うん……早く帰ってきてね?」
縋るように囁かれて、久居は答えに詰まった。
(それはーー……)
久居は、もう彼らに会わない。いや、会わせないつもりでいた。
けれどそれを、どうしても、まだ、この少年に告げることができないでいる。
「あれ?」
思い詰める久居の耳に、リルの焦るような声。
「フリーも一緒に山を下りてきてる!?」
「え……」
「うわわ……。ど、どうしようこれ以上近付くとフリーにもボクの声聞こえちゃうよぅ」
あわあわと慌てる少年に、久居は声をかける。
「リル」
「ののの登れないけどぅぅぅ下りるのは怖いよぅぅぅ」
「リル」
ぐるぐると混乱している様子のリルには、久居の言葉が届いていないようだ。
「リル、こちらです」
久居は、小さな少年を片手で小脇に抱えると、そのまま移動を始めた。
登るでも下りるでもなく、山に対して水平に移動する久居に抱えられたまま、リルはぼんやり気付く。
(あ。そっかー。横に移動すればよかったんだ……)
(山を下りそびれてしまいました……。
 こうなってしまっては、菰野様が下りきった後を追うしかありませんね……)
この判断を彼が悔いるのは、そう後ではなかった。