菰野の母である加野が、自室で倒れたのは、今から五年ほど前の事だった。
女官が慌ただしく城を駆けていた。
血を吐いて倒れたと、断片的に耳にして、菰野が母の部屋を目指して走り出す。
その背を久居は必死で追った。

「母様!! 母様っ!!」
「お止めください菰野様!!」
倒れた母に縋ろうとする菰野を、久居は全力で抑えた。
「離せ久居!」
「出来ません!」
加野には持病もなく、前日までに体調不良などは無かった。
「未知の伝染病である可能性もあるんです!」
久居はそう言ったが、おそらく毒殺であろうことは理解していた。
だからこそ、久居は菰野を加野に触れさせるわけにはいかなかった。
どこに毒物が残っているか、まだ分からない以上は。
「久居っ!!」
菰野の悲痛な叫びに、久居の奥歯がギリッと鳴った。
その音に、母ばかりを見つめていた菰野がはじめて久居を見る。
久居は目を伏せていたが、その横顔は今まで見たどの顔よりも苦し気に見えた。
「私は、どのように思われても構いません……」
菰野の視線に、久居が低く唸るように告げる。
「けれど、菰野様のお命だけは、この身に代えてもお守り致します」
「……久居……」
菰野は、そんな久居の姿に、母へ触れることは、今は叶わないのだと知る。

加野の部屋はしばらく代わる代わる訪れる人々で騒然としていたが、加野が運ばれたのは医務室ではなかった。
菰野の母は既に処置のしようもなく、事切れていた。

「……なぜ、母様は急に……?」
菰野の震えるような小さな声が、ざわめきの残る廊下に落ちる。
「昨日はあんなに……お元気でいらしたのに……」
誰一人居なくなった母の部屋の前に、菰野は立ち尽くしていた。
譲原皇からは、まだ室内への立ち入りは禁じられている。
久居は、慎重に言葉を選んで答えた。
「加野様が迷い込まれた山は、人が踏み入ることのできない山です……。
 私達の知らない毒を持った植物があったとしても、おかしくありません……」
「……毒……?」
不安を滲ませ聞き返す、菰野の声。
それに答えたのは、久居ではなかった。

「毒なんかじゃない」
現れたのは葛原だった。
彼の言葉に、遠くを通り過ぎようとしていた女官達も、足を止めこちらの様子を窺っている。
葛原は、いつから聞いていたのか、はっきりと強い言葉で続ける。
「加野伯母様は、神の山を侵し……妖精まで目にしてしまったそうじゃないか」
菰野はおずおずと振り返り、久居はその場に膝を付く。
「これは妖精の呪いだよ」
敬愛する義兄の言葉に、葛原を見上げる菰野の顔がじわりと青ざめる。
「妖精の……呪い……?」
「さあ、分かったらもう部屋に帰るんだ。菰野まで呪われてしまうよ?」
葛原は優しげに言いながら、宥めるように菰野の頭を撫でる。
「は……はい……」
身長差もあり、菰野から葛原の顔は見えなかったが、葛原の口端が大きく歪むのを、久居だけが目にした。

それまでずっと菰野に優しかった葛原が、徐々に態度を変えていったのは、あの時からだったのかも知れない……。と久居は振り返る。

葛原は、その後も加野の件に関して妖精の呪いという見解を示し、譲原皇が発言を控えたこともあってか、城の者達はすっかり加野の死を妖精の呪いだと信じたようだった。


「久居ー、準備できたよー」
リルに呼ばれて、久居はそちらを振り返る。
リルは、かき集めた土を盛り上げて、その山のてっぺんに棒を一本刺したものの前にしゃがみ込んでいた。
手招きをされて、久居もリルに向かい合うように山の前にしゃがむ。
「リルからどうぞ」
促されて、リルは両手でざっくりと山から土を取り除ける。
どうやら二人は棒倒しを始めたようだ。

久居は土を除けながらも、考える。
加野の死因が分からない以上、いずれはそうなっていたのだろうが、それにしても葛原の発言は決定的だった。と。
(やはり……、菰野様がこの山に近付くのは、自殺行為ですね……)

「久居、どうしたの?」
土を除けたまま手を止めていた久居に、リルが心配そうに声をかける。
「いえ、何でもありませんよ」
久居は、いつも通りに微笑んで答えた。
偽りの言葉にホッとした様子で、またウキウキと土を除けるリル。
嬉しそうな表情に、久居は胸の奥が軋んだ。

……自分でも気付かないうちに、自分をまっすぐ慕ってくれるリルに、弟の面影を重ねてしまっていたのだろうか……。

命に代えても、菰野を守り抜くと誓ったはずなのに……。
自身の甘さが、今も菰野を危機にさらし続けているという事実を、久居はもう一度噛み締めた。

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一方で菰野は、深く暗い夢の中にいた。
どんなに目が慣れてもそこは薄暗く、右も左も分からない。
何もない場所を、少年は手探りで彷徨っていた。
その姿は、今よりも五つほど幼く見える。

手足に纏わりつくような重苦しい空気の中、少年は母を探して駆けていた。
「母様……。母様、どちらですか……?」
不意に何か柔らかいものを踏んで、それが自身の探していた母だと気付く。
「母様!」
床に倒れた母は、血溜まりに沈んでいた。
「しっかりしてくださいっ! 母様! 一体何があったのですか!!」
菰野の声に、母はピクリと指先を動かす。
「母様!!」
悲痛な菰野の叫びに応えるようにして、母は、緩慢に血溜まりから顔を上げる。
どろりと血のしたたり落ちる、血塗れの顔を。
ゆっくりと口を開いた母は、溢れる赤いものとともに、ごぼりと囁いた。

「……妖精の……呪いよ……」

衝撃に、菰野は目覚めた。
心臓が激しく跳ね、息が詰まる。
夢だったのだと気付いた途端、全身から汗がどっと噴き出した。

ふと、自身に触れる体温に視線を振れば、菰野の肩に寄りかかるようにして、フリーが寝息をたてていた。

菰野の肩が大きく揺れる。
至近距離のフリーの顔は、あんな夢の直後に見るには刺激が強すぎた。
思わず全身に入ってしまった力を、意識的に抜きながら、菰野は空を見上げる。
陽はもう随分と動いていた。

菰野は心を落ち着けながら、もう一度フリーの顔を見る。
フリーは菰野の肩に頬を寄せて、静かに寝息を立てている。
彼女が寝てしまったのは、自分が寝ていたせいだろう。

(……起こさないで、待っててくれたんだ……)

彼女がひとりで、自分の隣で、待ちくたびれて寝てしまった事を思い、じわりと解れかけた心を、さっきの夢の光景が上から暗く塗り潰す。
妖精の呪いだと囁く母の言葉が、耳の奥で繰り返されて、菰野はたまらず悪寒に背を震わせた。
それを振り切るように、力一杯、頭を振る。

(そんな事あるわけない!)

フリーは、すっかり気を許した寝顔を菰野に見せている。
そんな妖精の姿を、菰野はもう一度見つめると、心の中で強く叫ぶ。

(そんな事……絶対……あるものか!!)

菰野の激情にあてられたのか、フリーが小さく身じろぐ。
もにょもにょと眠そうに顔を動かして、フリーは目を開いた。
その僅かな間に、可能な限り、菰野は心を整える。
「おはよう。待たせちゃったね、ごめん」
柔らかく声をかけられて、フリーは自分が寝てしまっていたことに気付く。
「あ、ううん。私こそ寝ちゃったみたいで、ごめんね……」
フリーは焦りつつ答える。
顔を上げると、菰野は、いつものように静かに微笑んでいた。

さっきは確かに、苦しそうな顔をして眠っていたのに。とフリーは思う。
フリーと目が合うと、菰野はまた、ふわりと微笑んだ。

やはりそうだ。とフリーは確信する。
この人は、たとえ辛いことがあっても、その直後でも、笑える人なんだ……。
そう気付くと、目の前のこの笑顔さえ、どこか辛そうに思える。
ううん。きっと、本当に、辛いんだろう。
理由はまだ分からないけれど、眠れないほどの何かがあったのは、間違いないのだから。

フリーは、しっかりと息を吸う。
彼の心の芯に、自分の声を届けるために。
「……菰野、何があったの?」
栗色の瞳を、金色の瞳が真っ直ぐ見つめている。
フリーの言葉に貫かれ、菰野は思わず小さな声を漏らした。
「え……」
その声は、いつもよりも掠れて聞こえた。


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(菰野を育ててくれた、叔父さんかぁ……)
フリーは、手を動かしながら数日前の会話を思い浮かべていた。
(どんな人だったのかな……)
と、手元でブチッという音とともに、何かが千切れる感触が伝わる。
「あ゛」
やっと半分まで編めていた帯飾りは、結んだばかりの紐の付け根から引き千切られていた。
「うわぁぁぁんっ! またちぎれたぁぁぁ!!」
「力任せに引っ張るからよ……」
頭を抱えて絶叫する娘の手元を覗き込みながら、リリーがため息と共に告げる。
「リルはあんなに綺麗に細工編みできるようになったのにねぇ」
言われて、机の反対側で編んでいる弟にフリーが目をやると、リルは既に三十センチ以上はありそうな紐を、まだ編み続けていた。
「って、そんなに長く編んでどうするのよ!!」
「えっと……、紐を作ろうかなーって……」
なぜか、はにかむように答えるリルに、フリーはがっくりと肩を落とす。
「紐って……。そのまんまだ……」

フリーは自分の席に戻ると、千切れてしまった帯飾りから、ガラス玉を一つずつ取り出して、また並べる。
別れ際に、菰野は言った。
『服喪が30日あるから、また来月のこの日に、ここで会おうね』と。
30日も会えないのかとフリーはショックだったが、それでも、こうまで自分が不器用だったと知った今、時間はたっぷりあって良かったようにも思える。
(次会うまでには、絶対完成させてみせるんだからっ!!)
フリーが、決意も新たに力一杯拳を握り締める。
「わー……フリーがやる気満々だ……」
リルが、隣で燃え上がるフリーの決意に、身の危険を感じて後退る中、フリーは何十回目かになる編み直しを始める。

(待っててね、菰野!!)
紐は、その身に余るほどの気持ちを込められ、力一杯引かれた途端に勢いよく千切れ飛んだ。
「あ゛っ!」