その森は、今日も耳が痛いくらいに静まり返っていた。
生き物の気配の無いそこは、こんな風に風のない日には木々の揺れる音もなく、自身の草を踏み分ける音と、衣擦れの音、呼吸と心臓の音までもがはっきり聞こえた。

菰野は、木々の隙間から陽の位置を見る。
太陽は真上に近く、彼女との待ち合わせにはまだ早かった。

(ここは、本当に静かだ……)

菰野は倒木の幹にもたれるように座り込むと、自身の膝を抱き抱えた。

(昨日までの事が、全て……。
 夢だったんじゃないかと、思えるほどに……)

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窓の外をチラチラ見ていたフリーが、布を手に、やおら立ち上がる。
「お母さーん。私、散歩してくるねー」
声をかけられ、リリーが振り返った。
「はいはい。気を付けてね」
「明日はビーズ買いに行こうねっ」
リルも気付いて、玄関に向かうフリーをリリーと共に見送る。
「行ってきまーすっ」
「あんまり遅くならないようにね」
ウキウキと楽しそうなその背に、リルも「いってらっしゃーい」と声をかけた。

(いつも、あの布持って行くなぁ……)
と、リルが窓から遠ざかるフリーの背を眺めていると、リリーが声をかける。
「リルも行くんでしょ?」
「うん、もうちょっとしたら出るー」
問われて、少年は笑顔で答えた。
そんなリルを、母はじっと見る。
リルはフリーと同じように、生き生きと瞳を輝かせていた。
「そして、毎回フリーよりちょっと早く帰ってくるのよね……」
「フ、フリーには内緒だよっ?」
慌てる様子のリルに、リリーは細い眉を少しだけ寄せると、苦笑を浮かべて答えた。
「はいはい……。危ないことしないのよ?」
「はーいっ」

素直に答えるリルには『危ないこと』など微塵もするつもりがない。
それを感じ取って、リリーは何とも言えない気持ちになった。

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フリーは流れる小川に自身の背を映しながら「うーん……」と呟く。
「羽、大分伸びてきちゃったなぁ……」
川には、羽が隠れるように、服と肌の間に布を挟み入れた自身の姿が映っていた。
「そろそろ布だけじゃ誤魔化せないかも……。小さめに切る方がいいかなぁ? でも男の子っぽいのも嫌なんだよねー……」
呟きながらも、フリーは菰野との待ち合わせ場所へと向かう。
触角も後ろ側で髪と共にリボンで纏められていたが、耳はやはり髪こそ前に出してあるものの、そのままだった。
どうやら、まだ髪だけでは隠し切れていないことに気付いていないようだ。
「あ、リルにフード付きのケープ借りたらいいかも? あれなら羽のスリットも入ってないし……」
茂みを抜けると、少し視界が開ける。
待ち合わせ場所である倒木の向こうに、優しい栗色の髪がのぞいていた。
(あ、菰野もう来てる。私の方が早いかと思ったのに……)
フリーは、結局家で待ちきれず、約束の時間よりも早く来ていた。
「早かったね、菰野。お待た…………せ……!?」
菰野は、膝を抱え込んだ姿勢のまま眠っていた。

フリーは菰野を見つめる。
菰野は、疲れ切った顔をしていた。
よく見れば、目の下にはクマのようなものまで浮かんでいる。
眉もじわりと苦しげに寄せられており、普段の柔らかい印象とはまるで違う様子の少年に、フリーは思わず息を詰めた。

(起きるまで待ってようっと……)
とても起こせそうにない寝顔に、フリーは会話を諦めると隣に座った。
「……ーーっ」
ほんの少し、掠れた声のようなものが聞こえてた気がして、フリーはもう一度菰野を見る。

菰野の閉じられた瞼の隙間から、涙が一雫、静かに零れた。
(涙……)
音もなく、ゆっくりと頬を伝うその一粒を、フリーは思わず指で拭う。
(菰野……何があったの……?)

少年の肌は、思うよりずっと柔らかかった。
それ以上涙が溢れてこない様子に、フリーはホッとする。

と、一瞬遅れて真っ赤になった。
(って拭く必要ないから!! 全っ然ないから!!!)
フリーは、思わず取ってしまった自分の行動に驚きながら、涙を拭いた右手を握り締める。

フリーが恥ずかしさからバタバタと慌てても、菰野は変わらず、苦し気に眉を寄せたまま眠っていた。

フリーはそんな少年の横顔を見つめる。
(起きたら話してくれるかな……。
 あんまり、悲しい話じゃないといいんだけど……)
フリーは、いつも自分の話を聞いてくれる菰野が、どんな辛さを抱えて生きているのか、今まで全く知らなかったことに気付いた。

菰野はいつも明るくて、あたたかくて。
フリーの話を、いつも遮る事なく最後まで聞いてくれた。
尋ねればいくらでも、自分の失敗談とか、お供の人のおかしな話だとか、そんな話ばかりをしてくれた。
だから、フリーは思い込んでしまっていた。
この人はきっと恵まれた人で、いつも楽しく生きているのだろうと。

……どうしてそんな風に思っていたんだろう。
こんなに優しい人なのだから、私が嫌な気分にならないよう話題を選ぶなんてこと、しない方がおかしい。
こんな簡単なことに、どうして今まで、私は気付けなかったのか……。

まるで、自分ばかりが浮かれていたようで。
菰野を無理に付き合わせていたのかも知れないと思うと、フリーは心の奥が重くなった。

菰野が目を覚ましたら、今度は私が聞こう……。
……本当の、菰野の言葉を……。

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「うーん……」
リルは耳の後ろに手をあて、聞き耳を立てながら首を傾げた。
その様子に、久居は内心の焦りを隠し尋ねる。
「どうしました?」
「ええと……。二人とも、寝てるみたい?」
リルの不思議そうな声に、久居はホッとした。
「そうですか……」
一昨日は譲原の通夜だった。
一晩中起きていた菰野は、それでも日中の仕事をこなしていた。
何かしていないと余計に辛い様子の菰野を止め切れず、久居はいつも通りの鍛錬に付き合った。
けれど菰野は、心も身体も疲労していたにもかかわらず、昨夜もろくに眠れていない様だった。
菰野にとって、城以外に心安らげる場所があってくれた事を感謝しつつ、久居は答える。
「助かります……」
「助かるの?」
リルが不思議そうに、くりっと首を傾げる。
と、その後頭部には、特大のタンコブがあった。

「リ……リル、その大きなタンコブは、一体…………??」
「コブ?」
言われて、リルが自分の後ろ頭を撫でる。
「うわあっ、本当だー! 大きなタンコブーっ!!」
そんなリルに久居は思わず突っ込む。
「気付いていなかったのですか?」
「そういえば、昨日寝るとき上向くと頭が痛かったんだけど……。どこでぶつけたのかなぁ……」

久居はその様子を見ながら思う。
これだけ大きなコブができるほどの後頭部の強打ともなれば、場合によっては気を失った可能性もある、と。
「リル、昨日は何があったのですか?」
「えっとー、昨日はお母さんと封具屋さんに行ってー……、お店のおじさんに、石に手を当ててって言われてー……」
久居は封具屋という聞き慣れない単語を気にかけつつも、頷きを返す。
「けど、気付いたら家に帰ってて、……よく分かんないの……」
やはり。と久居は思った。
(しかし、こんな小さい子に、意識を失うほどの何が……)
リルは半ベソで、痛むらしいコブをつついている。
「うー……。触ると痛い……」
「触らないでおきましょうね」
久居は仕方なく突っ込んだ。