その湿地帯は、地図には記されていない。聖石の強奪によるマナの暴走で発生した「やまない暴風雨」がこの地形を生み出した。

 川の氾濫は山野を削り取って無数の湖沼を作り、降り続ける雨は草木を腐らせ、地面は泥に覆われた。街道も寸断されている。討伐軍は動きはここで止まった。

『ったく、忌々しい沼だぜ。あのクソ野郎が裏切ったのもこのあたりだった』

 糸電話越しの声を聞いて脳裏にあの強面の坊主頭の顔が浮かんだ。アグリだ。だいぶはっきりと声が聞こえる。リョウの奴、かなり近くに潜入したな。

『隊をふたつに分ける。オレの本隊は泥の上に橋を渡してそこを進む。橋掛けはシホ、お前がやれ』
『橋を掛ける? どうやって?』

 今度は知らない声。女性のもので日本語だった。仲間の転生者か?

『港に戻って戸板や丸太材を徴発すればいい』
『徴発って……まさか民家の玄関を壊せっていうの?』
『仕方ねえだろ、先へ進めねえんだから。それとセイヤ、お前も港に戻って川船をもってこい。お前の隊はそれで湖を渡れ』
『はい』

 今度は男の声。こちらも転生者か。港町の人々が気の毒になってくる。玄関を壊され、船を奪われ……そしてそれらが戻ってくることはないのだろう。

『こっちの道は使えないの? アンタたちが前に行った古城の山道。ここを迂回すれば……』

 シホと呼ばれた女の声に、オレはギクリとした。湖沼地帯を大きく迂回し、山岳地帯を抜けて村の西に出るルート。このルートには罠らしい罠は何もしかけていない。というよりも険しい山道そのものが足止めになるので、2千人の軍勢が通るルートにはならない、とオレたちは考えていた。この道を使われると、村まで奴らを阻むものはなにもない。

『バカかお前? そんな道使ったら5日は行軍が遅れるぜ』
『こっちの食料は十分にある。多少時間かかっても万全な兵力で……』
『お前さぁ、察しろよ』

 アグリの声が業を煮やす。

『オレは早くあの裏切り者をブッ殺したいんだわ。だからこの泥道を突っ切る。今更あんな山道通ってられっかよ!!』

 その道は、かつてアグリ本人がくさきをかき分けて進んだ道だ。奴が面倒くさがるのも道理だった。けど、自分がいやがる選択肢は、相手も予想していない選択肢でもある。最初の駆け引きにオレたちは勝った。

『そ。ならせ私の部隊だけでもそこを進む。橋掛けはアンタんところでやってよ』
『けっ、オクトの女の一人だからっていい気になりやがって! 村攻めに遅れたらタダじゃ置かねえぞ!』

 シホという女性が率いる部隊は、ここで分散した。残されたアグリ軍は千五百。
 翌日、奴らは即席の橋と川船で湖沼地帯を越え始めた、とハルマは報告してきた。よし、それで良い。始めよう。オレ達の戦いを!