――普通じゃない一日を迎えても、次の日は変わらぬ朝がやってくる。
翌朝私はいつものように会社へと向かい、そして気が重いままタイムカードを打刻する。
時間は朝7時。
雑居ビル内の弊社の掃除に共有トイレ掃除、郵便の仕分けから今日の営業が使う資料準備と整頓と、その他、昨日丸投げされた細かなタスク。やることが多くて慌ただしい。
やっている間に気がつけば他の社員が出社し、あっという間に朝礼の時間になる。
社長の足音で、私はゾクゾクと嫌な予感がする。
ああ、私が今日は標的になりそう。
「諸君、おはよう!」
9時から出社した社長は朝礼では相変わらず声が大きい。
早速彼は、私を睨みつけた。
「菊井くん!! 君は営業成績が伸び悩んでいるそうだが、有給を取ったそうだね!」
「申し訳ございません……」
「全く、最近の社員は権利だの主張だのが強いばかりで、仕事もできないで……」
うんぬん、かんぬん。大抵私が悪者になって、それで終わり。
朝礼が終われば打ち合わせの準備をしていた私に、当然のように主任がヒールを鳴らして近づいてくる。
「菊井さん、資料作っといた?」
「はい。そこにおいてます」
「ありがとー。あたしこういう生産的じゃない仕事、絶対したくないのよね」
主任はひらひらと手を振り、営業に向かう。主任は社長の親戚の娘なのでいつもこんな感じだ。
主任に頼まれた資料数は23部だったけれど、なんとなく足りない気がするので3部多めにまとめておいた。
「あ」
その時。ちょうど部長がデスクに座っていたので、私は意を決して近づいた。
「あの、部長……先日の辞表の件ですが……」
「うん、処分しておいたよ」
「えっ!?」
「うちの会社、君がいないと回らないんだよ。君もうちのチームの一員なの。わかってるよね? 社会人として普通だよ。代わりの子を雇うほど、今は余裕がないの。君もわかってるんじゃないの?」
部長はそのまま話を打ち切り、スマートフォンをいじり始めた。
「そうだ。普通といえば君」
「は、はい」
ドキッとして私は反射的に背筋を伸ばす。
「君ねぇ? うちの社用車にいきなり文句言ったそうじゃないか」
文句を言った覚えはないけれど口答えをしたら面倒なので頭を下げる。昨日の出勤時、駐車場でたまたま目に留まった社用車がなんとなく『危ない気がする』と思ったのだ。車検記録を確認すれば次の車検まで後一ヶ月もある。
できれば早めに見せに行った方がいいかも、と思ったので、それとなく車検の話題を営業さんに振っていたのだ。
「君は車屋かい? プロでもないし、普段もろくに乗っていないんだろう?」
「はい。ペーパードライバーです……」
「それなら余計な事は言わない! うちがまるで車検を適当に済ませていると侮辱しているようなものだよ! 君!」
「はい。おっしゃる通りです……申し訳ありませんでした」
そこまでは言ってないけれど、部長がこれだけ感情的になるのだから何か痛いところをついてしまったのだろう。口答えせず、私は粛々と頭を下げる。
「君は気持ち悪いほど勘がいいだの、『霊感女』だの言われているようだね? でもまずは『普通』の社会常識を身につけてから、辞めたいだのなんだの、言うようにしなさい」
「かしこまりました」
余計なことなんて、言わなければよかった。
---
「……またかあ……」
私は溜息を吐く。もう数ヶ月以上、退職の相談を握りつぶされている。
休み時間にもコピーをしながら、やっぱり辞められないよねと考える。
空の青さがむなしい。
私も営業職として就職内定を貰ったのだが、実際に配属されたのは「たった一人」の営業事務職だった。
事務職でも文句はない。けれどなぜか営業成績だけは、しっかり営業専門の人と一緒に計算されていた。
なんで!?
「菊井くんは相変わらず営業成績が悪いな! もっと真面目に仕事をやりなさい!」
「事務をしながらでも電話営業なり、業務時間外に営業するなりできるだろう!」
そういわれても。
先ほど私に資料を作らせた主任だが、主任は私が作った資料でそれなりの営業成績を収めてる。顧客と喧嘩してきたり一人で勝手に「あの客はダメね」なんて切り捨てたりしているのを踏まえると、営業成績としては多少は貢献できているとは、思う。
けれど、もちろんそれは主任の業績であり、私の業績にはならない。
その時、電話が鳴る。
受話器を上げると苛立った主任の声が聞こえた。
「ちょっとぉ! 菊井さん、午後にアポ入れてる吉出巣商事の担当の名前知らない!?」
「お待ちください。ええと……主任のパソコン開いていいですか?」
「いいに決まってるでしょ!? とにかく、さっさとメールで送って!」
ぶつりと一方的に電話が切られる。私は溜息をつく。
主任はいつも担当者の連絡先を確認せずに営業に飛び出していく。それで失敗すると営業事務の私がどやされるので、私が把握している限りの情報はいつも揃えて主任に渡していた。けれど、主任が私に教えないまま飛び出して行っている情報までは流石に把握が追いつかないでいた。
「個人情報保護の面でも、私が主任の営業先把握しすぎるのもよくないんじゃないかな…」
でも、新卒で入った会社で何が普通で何が普通じゃないのかなんて正直わからない。私は主任のパソコンを開き、すっかり覚えてしまったパスワードでログインして、主任の営業記録を引っ張り出して送信した。
ついでになんとなく、必要そうな商品パンフレットのPDFも送信、と。
「ふう……もう、休み時間終わりか」
そろそろ社長以下の社員が戻ってくる頃だ。永久電話番の私は外にも行けない。
私は水筒のお茶を飲んで、ふう、と椅子に沈む。
これが二年目なら普通かな、と思って過ごしてきた。
だいたいの取引先の好みは覚えたし、資料作りも覚えた。事前に何を準備すれば気に入られるのかも、取引前後の手紙の送るタイミングもわかってきた。
けれどそれは、ただの私の自己満足だ。実際はとにかく毎日怒られてばかりで…
「やっぱり私……普通の能力すらないのかな……」
転職活動もうまくいかない。会社でも「普通」にできない。
それに文句を言ってしまうのは、普通ではないのかな。
昨日仕事を断ってしまったことを、少し後悔していた。
翌朝私はいつものように会社へと向かい、そして気が重いままタイムカードを打刻する。
時間は朝7時。
雑居ビル内の弊社の掃除に共有トイレ掃除、郵便の仕分けから今日の営業が使う資料準備と整頓と、その他、昨日丸投げされた細かなタスク。やることが多くて慌ただしい。
やっている間に気がつけば他の社員が出社し、あっという間に朝礼の時間になる。
社長の足音で、私はゾクゾクと嫌な予感がする。
ああ、私が今日は標的になりそう。
「諸君、おはよう!」
9時から出社した社長は朝礼では相変わらず声が大きい。
早速彼は、私を睨みつけた。
「菊井くん!! 君は営業成績が伸び悩んでいるそうだが、有給を取ったそうだね!」
「申し訳ございません……」
「全く、最近の社員は権利だの主張だのが強いばかりで、仕事もできないで……」
うんぬん、かんぬん。大抵私が悪者になって、それで終わり。
朝礼が終われば打ち合わせの準備をしていた私に、当然のように主任がヒールを鳴らして近づいてくる。
「菊井さん、資料作っといた?」
「はい。そこにおいてます」
「ありがとー。あたしこういう生産的じゃない仕事、絶対したくないのよね」
主任はひらひらと手を振り、営業に向かう。主任は社長の親戚の娘なのでいつもこんな感じだ。
主任に頼まれた資料数は23部だったけれど、なんとなく足りない気がするので3部多めにまとめておいた。
「あ」
その時。ちょうど部長がデスクに座っていたので、私は意を決して近づいた。
「あの、部長……先日の辞表の件ですが……」
「うん、処分しておいたよ」
「えっ!?」
「うちの会社、君がいないと回らないんだよ。君もうちのチームの一員なの。わかってるよね? 社会人として普通だよ。代わりの子を雇うほど、今は余裕がないの。君もわかってるんじゃないの?」
部長はそのまま話を打ち切り、スマートフォンをいじり始めた。
「そうだ。普通といえば君」
「は、はい」
ドキッとして私は反射的に背筋を伸ばす。
「君ねぇ? うちの社用車にいきなり文句言ったそうじゃないか」
文句を言った覚えはないけれど口答えをしたら面倒なので頭を下げる。昨日の出勤時、駐車場でたまたま目に留まった社用車がなんとなく『危ない気がする』と思ったのだ。車検記録を確認すれば次の車検まで後一ヶ月もある。
できれば早めに見せに行った方がいいかも、と思ったので、それとなく車検の話題を営業さんに振っていたのだ。
「君は車屋かい? プロでもないし、普段もろくに乗っていないんだろう?」
「はい。ペーパードライバーです……」
「それなら余計な事は言わない! うちがまるで車検を適当に済ませていると侮辱しているようなものだよ! 君!」
「はい。おっしゃる通りです……申し訳ありませんでした」
そこまでは言ってないけれど、部長がこれだけ感情的になるのだから何か痛いところをついてしまったのだろう。口答えせず、私は粛々と頭を下げる。
「君は気持ち悪いほど勘がいいだの、『霊感女』だの言われているようだね? でもまずは『普通』の社会常識を身につけてから、辞めたいだのなんだの、言うようにしなさい」
「かしこまりました」
余計なことなんて、言わなければよかった。
---
「……またかあ……」
私は溜息を吐く。もう数ヶ月以上、退職の相談を握りつぶされている。
休み時間にもコピーをしながら、やっぱり辞められないよねと考える。
空の青さがむなしい。
私も営業職として就職内定を貰ったのだが、実際に配属されたのは「たった一人」の営業事務職だった。
事務職でも文句はない。けれどなぜか営業成績だけは、しっかり営業専門の人と一緒に計算されていた。
なんで!?
「菊井くんは相変わらず営業成績が悪いな! もっと真面目に仕事をやりなさい!」
「事務をしながらでも電話営業なり、業務時間外に営業するなりできるだろう!」
そういわれても。
先ほど私に資料を作らせた主任だが、主任は私が作った資料でそれなりの営業成績を収めてる。顧客と喧嘩してきたり一人で勝手に「あの客はダメね」なんて切り捨てたりしているのを踏まえると、営業成績としては多少は貢献できているとは、思う。
けれど、もちろんそれは主任の業績であり、私の業績にはならない。
その時、電話が鳴る。
受話器を上げると苛立った主任の声が聞こえた。
「ちょっとぉ! 菊井さん、午後にアポ入れてる吉出巣商事の担当の名前知らない!?」
「お待ちください。ええと……主任のパソコン開いていいですか?」
「いいに決まってるでしょ!? とにかく、さっさとメールで送って!」
ぶつりと一方的に電話が切られる。私は溜息をつく。
主任はいつも担当者の連絡先を確認せずに営業に飛び出していく。それで失敗すると営業事務の私がどやされるので、私が把握している限りの情報はいつも揃えて主任に渡していた。けれど、主任が私に教えないまま飛び出して行っている情報までは流石に把握が追いつかないでいた。
「個人情報保護の面でも、私が主任の営業先把握しすぎるのもよくないんじゃないかな…」
でも、新卒で入った会社で何が普通で何が普通じゃないのかなんて正直わからない。私は主任のパソコンを開き、すっかり覚えてしまったパスワードでログインして、主任の営業記録を引っ張り出して送信した。
ついでになんとなく、必要そうな商品パンフレットのPDFも送信、と。
「ふう……もう、休み時間終わりか」
そろそろ社長以下の社員が戻ってくる頃だ。永久電話番の私は外にも行けない。
私は水筒のお茶を飲んで、ふう、と椅子に沈む。
これが二年目なら普通かな、と思って過ごしてきた。
だいたいの取引先の好みは覚えたし、資料作りも覚えた。事前に何を準備すれば気に入られるのかも、取引前後の手紙の送るタイミングもわかってきた。
けれどそれは、ただの私の自己満足だ。実際はとにかく毎日怒られてばかりで…
「やっぱり私……普通の能力すらないのかな……」
転職活動もうまくいかない。会社でも「普通」にできない。
それに文句を言ってしまうのは、普通ではないのかな。
昨日仕事を断ってしまったことを、少し後悔していた。