夕方。
 尽紫が香椎駅前から香椎宮の方へ向けて香椎参道を歩いていると、街路樹からガサリと何かが飛び降りてきた。反射的に避けると、影はくるりと回って行く手を阻む。
 華奢な雄の猫又が、ふうふうと毛を逆立てて尽紫に威嚇していた。

「俺の主人に何をした」
「楓のこと?」

 尽紫は大袈裟に肩をすくめてみせた。

「普通の暮らしをさせてあげるだけよ。危険のない、人間としてのただの暮らし」

 猫の方だって数百年、人間と共に暮らしてきたのだから、あやかしに関わらない今の現代人の『此方』の事情だってわかるだろうに。

「ああ、安心して頂戴。貴方の記憶は封印しないわよ。だって貴方、楓ちゃんがいないと霊力が安定しないほど弱っているものね? 流石にそこで縁を切らせて、貴方が逝ってしまったら気分が悪いもの」

 尽紫は黒猫の脇を通り抜け、振り返らずに先に進む。
 背中に向かって何か、怒りに満ちた鳴き声がにゃあにゃあと聞こえた気がするが、すぐに尽紫の意識の外へと消えていった。
 猫なんかに構っている暇はない。
 今、住処には()()()()がいるのだから。

ーーー

 尽紫は立花山の近くで立ち止まると、木々の生い茂る森に向けて手をかざす。
 真っ白な手のひらから正方形の面がクルクルと広がり、暗闇の結界が開かれる。

 その暗闇の真中には一軒の武家屋敷が、仄かに光を帯びて浮かび上がっていた。
 尽紫は結界に入り、武家屋敷の門をくぐって屋敷に入ると、長い板張りの廊下を奥へと進む。

 無人の屋敷の中心には、真四角に開かれた広間が広がっていた。
 敷き詰められた畳の上には、赤い荒縄に吊るされた雄狐(おとうと)の姿があった。

「……尽紫か」

 尽紫に気付くと彼は、疲れ果てた昏い眼差しで姉を睨んだ。

「ただいま、紫野ちゃん。いい子にしてた?」
「縛り上げて吊るして放置して、俺は干し柿じゃねえんだぞ」
「……あら、思ったより元気そうだこと」
「お陰様でなあ」

 尽紫は縛り上げた縄を通じて、傷ついた紫野に霊力を与えていた。お陰様、とはそういう事だ。
 紫乃はスーツを脱がされ、身を清められたのちに袴の和装姿に整えられて吊るされていた。尽紫としても早く解放してやりたいが、今はまだ楓と契約を切りたてで霊力が乱れている。

「楓に余計な手は出してないだろうな」

 唸るように低く問いかける紫野に尽紫は正直に頷く。

「ええ。彼女が関係したあやかしの記憶を封印していて、楓の記憶の整合性を取っているだけ。何かとすぐに何かを思い出そうとするものだから、狐雨を降らせてばかりよ」
「……毎度毎度通り雨か。さぞ天神地区の皆さんは迷惑だろうな」
「でしょうね。天気予報が晴れでも、傘を携帯する人が多いみたい」
「他人事みたいにいうなよ」
「そうね。紫野ちゃんが楓ちゃんと出会っちゃった責任ね」
「……」

 紫野は黙り込み、尽紫から目を逸らす。まるで心を閉ざすかのようだ。弟はまだ、楓の未練を捨てきれないでいるらしい。

「紫野ちゃん」

 尽紫は弟の顎を取り、弟の端正な顔を手のひらで包む。
 弟。体こそは立派な雄に育ったけれど、二匹の小さな毛玉として二人ぼっちで生きていた時代から、弟が愛しくて可愛らしいのは何も変わらない。

「大丈夫よ。貴方の『此方』での仕事が全部片付くまではちゃんとこっちにいるし。楓の記憶の封印が安定すれば、貴方も解放してあげる」

 は、と紫野は鼻で笑う。

「早く解放して欲しいものだな。仕事をすっかり羽犬塚さんに預けっぱなしだ」
「羽犬姫、ねえ」

 尽紫は昼間会った女の意味深な笑みを思い出す。
 もやもやとした気持ちを振り払うように、尽紫は紫野に笑んでみせる。

「私も()として、しばらくは『此方』にいる予定だから。……80年くらい、短い間だけど姉弟水入らずね」

 黙り込んだ弟を抱きしめ、尽紫は愛おしさを込めて額に口付ける。
 無表情の弟に小さく「らい」と呼べば、ぎらりと睨まれた。

「旧い名で呼ぶな」
「もう契約を切ったから、紫野ちゃんじゃないのに?」
「……」

 不意に、弟は何かに気づいたかのように目を見開く。

「姉さんはまだ、尽紫なんだな?」
「……そうよ。何が悪いの」