一週間後。私は無事にスムーズに退職を済ませ、たっぷりとした有給休暇を使うことができた。すると休みになった途端に疲労性の高熱を出し、ぐったりと一週間寝込むことになってしまった。
 家族から随分と心配されたものだ。実家暮らしじゃなかったら大変だった。

「大丈夫? 楓」

 母がお粥を持って部屋に入ってきてくれる。私は起き上がり、ありがたく昼食をお盆ごと受け取った。

「いただきます」

 はふはふと食べる私をみながら、母が不意に言葉を漏らす。

「辞めてくれてよかった」

 働いている間は一度も聞かなかった言葉に私は驚いた。

「お母さんも、そう思ってくれていたの?」
「そりゃあ当然よ。けれど楓が一度決めたことだから、すぐに親が口出しするものではないでしょう?」

 湯気と母の優しさで、胸がじんと熱くなる。私は一人で頑張っているような気持ちでいたけれど、ちゃんと家族に見守られていたのだ。

「……ありがとう」

 家族のためにも早く元気になって、そして新しい仕事で頑張る姿を見せなきゃ。
 気持ちを告げてほっとしたのか、母が興味津々の顔で矢継ぎ早に質問してくる。

「新しい会社はどんなところ? もう終電終わるまで働くようなところじゃないでしょうね? 長く続けられそうなの?」
「大丈夫大丈夫。社長の篠崎さんって方、すごく良い人だから」

 色々訊ねたそうな母には笑ってごまかす。嘘をつくのが下手だから、あれこれ突っつかれると普通じゃないことをペラペラと漏らしてしまいそうだ。

「お粥ありがとう。もう少し横になるよ」
「ええ。何も考えずにゆっくりしなさい」

 バタン。

「……」

 母が部屋を出たところで、私はベッドの布団をめくって覗き込む。

「夜さん、顔出していいよ」

 中では黒い饅頭のようになった夜さんが丸くなって眠っている。出てこないからどうやら熟睡しているらしい。
 夜さんはなんだかんだで時々窓から私の部屋に入ってきては、一緒に寝たり膝に乗ったりして霊力を充電しにくる。そして去っていく。
 美男子に変身できる猫を部屋に入れて良いものなのかなと最初は気にしなくもなかったけれど、疲労と高熱で何も考えられない間に、結局受け入れてしまった。
 寝込んでいる私を心配してくれているのかもしれない。

「普通じゃない、っていうのも……悪くないのかな」

 丸くなった夜さんの毛並みを撫でながら、私は一人微笑んだ。

—-

 有給を使い果たしてたっぷり休んだあと、私は篠崎さんの経営する『福岡あやかし転職サービス』のいち社員として働くことになった。 
 日曜日の午前中、本格的な入社日の前に一度会社を案内すると言った篠崎さんは、わざわざ私を車で香椎の家まで迎えに来てくれた。

 篠崎さんを見た私の両親は、目と口を見開いて呆然としている。

「あらあら……あらやだ、すごいお綺麗な社長さんで…」
「あの……娘は一体、どんな仕事をするのでしょうか……?」

 篠崎さんの美貌に、一目で顔を染めてミーハーな顔をする母と、篠崎さんの柄の悪い風貌に緊張感を高める父。
 家の前のカーブミラーに映る篠崎さんは黒髪のさっぱりした短髪で、私が直接肉眼で視る篠崎さんは、耳と尻尾が生えた狐色の髪に、ふさふさの尻尾が生えている。不思議だ……。
 篠崎さんはよそ行きの笑顔でにこやかに名刺を渡す。

「初めまして。今度から娘さんにお力添えいただきます篠崎と申します」
「あらあら、まあ……」
「なんだ、市町村とも仕事をしているのか」

 母は安心し、公務員の父も連携した地方公共団体の名前をみてほっとする。

「じゃあ、行ってきます」
「楓! 頑張るのよ!!!」

 母の言葉がなんか違う言葉に聞こえる。車に乗ると、篠崎さんは何か鋭い目をしてじっとしている。気配を探っているような顔だ。

「篠崎さん……?」
「……結界は張ってないし、住居にも全く霊力の気配がかけらもなかった」
「それを調べに来ていたんですね?」

 実家までわざわざ来てくれた理由はそこにあるらしい。車は両親の熱心な見送りを背に、都市高へと向かっていく。

「そりゃそうだろ。楓は本当にどう考えても怪しいくらい霊力がだだもれだ。結界や祠が壊れたのならわかるが……」

 篠崎さんは私へ目を向け、そして独り言のように呟く。

「まあいい。とりあえず応急処置をすれば良いか」
「応急処置できるんですか?」
「このままじゃいつあやかしに食い殺されても知らねえぞ」
「ヒッ」

 車はそのまま都市高の香椎線に入り、博多湾海上で弧を描く環状線を通過して天神北で降り、渡辺通りが貫く天神地区市街地を抜けていく。日曜日の天神は通行量が多く、信号のたびに車は停車する。呑気なとおりゃんせのメロディが流れると、一斉に多くの人々がスクランブル交差点を歩いていく。

「……なんだかすごく久しぶりです。日曜日に天神に出るなんて」
「帰りに飯でも食ってくか? 楓が嫌じゃないなら」

 私は篠崎さんを見やる。元々背が高い人なので、いくら足が長くても、日本車の座席だと長い狐耳が天井にくっついてペタリと曲がっていた。可愛い。

「どうして名字じゃなくて名前なんですか?」
「別に楓が猿渡や鈴木って名字ならそっちで呼んでたさ。俺が井戸が嫌いなだけだ」
「井戸が嫌いだから菊井が嫌って、全国の菊井さんに謝ってくださいよ」

 篠崎さんは私を無視して車を発車させる。
 車は渋滞に遭いながらゆったりしたペースで今泉に入り、細い入り組んだ路地を巧みに抜けて駐車場へと入っていく。

 今泉は飲食店やファッションビルが入った雑居ビルと古い寺院、それに古い大きな屋敷が混在していて独特の雰囲気がある一角だ。
 離合(すれちがい)もできない上に歩行者も多い裏路地でも、無駄なハンドル捌きなしにすいすい運転できるのはすごい。

「こんなところ運転できるんですね……」
「慣れだよ。離合の暗黙の了解を知ってたらそう難しくはない」
「いやいや……私だったらここまでで車の角全部取れてますよ」
「なぁに言ってんだ」

 篠崎さんは笑う。

「ま、慣れない運転でこの辺に来るのは、あまりお勧めしねえな」

 確かに天神まで車でくることは、香椎育ちの私でも滅多にない。営業車を回す人でもちょっと遠慮する場所だ。
 篠崎さんは細い道を何度も曲がった末、小さな駐車場の隅に車を停める。
 車を降りると彼は、同じ駐車場に生えた老木の片隅に向かう。そこにはよく見なければ気づかないような、百葉箱の三分の一ほどの大きさの小さな社があった。

「楓。ここで二礼二拍手一礼な」
「はい」

 言われるままに並んで頭を下げ、手を叩く。するとめまいが起こったようにぐるりと視界が反転する。

「っ!?」

 気がつけば、目の前に雑居ビルが出現していた。
「え……え?」
「許可されたあやかししか入れない社屋だ。2階だ」
「え、あ、はい……」

 一階には昭和レトロからそのまま持ち出したような、飴色の窓ガラスが嵌められた古風なカフェ。そしてスタスタと上がっていく篠崎さんについていくように登っていくと、2階にはこじんまりとした会社事務所があった。
 篠崎さんが鍵を開ける。どこにでもあるような、雑居ビルに入った小綺麗なオフィスだ。机は3、4つほど、観葉植物や空気清浄機、デスクトップPCにプリンター。ファイルボックスが整頓された棚。高い場所には神棚と榊まで置いてある。

「びっくりするほど普通の会社ですね……」
「普通の会社だって言ってんだろ」

 篠崎さんはそれから、私に簡単に会社の説明をしてくれた。
 私の仕事は移住や就職などの相談をしたいあやかしの窓口担当。ヒアリングして困りごとを把握したり、相手にぴったりのお仕事やお住まいといった解決プランをご提案するお仕事だ。
 しかし最初はまだあやかしにもお仕事にも慣れていない。最初は既に篠崎さんがお世話をした既存顧客さんへのご挨拶や対応の仕事から始めることになるらしい。

 PCの前に座った私に、篠崎さんが隣に立って情報の見方などを教えてくれた。
 さらさらとした髪が肩を滑って、フカフカの耳がふわふわと揺れる。なんだかいい匂いがして集中できないのを、奥歯を噛み締めて堪える。篠崎さんが綺麗すぎるからよくない。

「顧客情報や求人情報、企業情報は、今は全部うちの事務担当がやってくれてる。彼女の仕事が多すぎるから、手が空いてる時は手伝ってやって欲しい」
「承知いたしました」
「……まあ、今日はそう難しい話はやめよう。せっかくの日曜日だしな」

 篠崎さんはPCの電源を落として立ち上がる。私も合わせて立ち上がると、彼はあらためて、私に向き直った。金色の双眸に射抜かれ、どきりとする。

「……そろそろ応急処置しとくか」
「はい」
「んじゃ、少し大人しくしていてくれ」

 篠崎さんはそう言うと、私の頬へと手を伸ばす。そして顎を持ち上げるとーーじっと、私の瞳を見つめた。
 射抜くような金色の輝きが。まるでぎらぎらと、夏の夕日のように輝く。
 綺麗。思った瞬間、篠崎さんの金髪がふわ、と風をはらんで長く伸び、背中を覆うように広がる。
 尻尾が輝きを纏って大きくなる。肌がまるで淡く発光しているかのように輝きを帯びている。

 あまりの美しさに言葉を失っていると、次の瞬間私は口付けられていた。