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 あれは、卒業式の日。
 来賓の方が壇上に足を掛けたタイミングで立ち上がる。
 一礼したタイミングで椅子に座る。
 祝辞を述べ終えたタイミングで立ち上がる。
 階段に足を掛けたタイミングで座る。
 卒業証書を受け取る時は、伸ばした左手でまず持ち、それから、右手で持つ。
 左脇に抱えて、「一、二、三」でお辞儀をする。
 教頭が「校歌斉唱」と言ったタイミングで立ち上がる。
 二月に入ってから、毎日のように卒業式の練習をしてきた。僕たちは送られる側、つまり祝われる側のはずなのに、「来賓の人に失礼の無いように」とか、「在校生の手本になれるように」って注意されてばっかりだった。
 耳たこで望んだ本番は、終わってしまえばあっという間だった。
 あれだけ、立つ、座るのタイミングも練習したというのに、感極まって泣く生徒が続出して、グダグダとなった。練習では、失敗すると声を荒げて僕たちを叱った先生も、舞台袖で涙を流していた。
 生徒代表挨拶は、生徒会長の萩上が行った。
「春の陽が暖かく校庭を包み…、小さな蕾が花開く、今日…、私たち三年生、この学校を卒業します…。花の香りを喉の奥で溶かし、瞼を瞑れば、この三年間の出来事が、昨日のことのように思い浮かびます…」
 一年から三年生までの学校生活で、印象的だった出来事を一つ一つ上げていき、絆の大切さだとか、大人になるということを涙ながらに僕たちに説いた。正直に言えば、萩上の話は、その後の校長先生の挨拶よりも感動的で、胸に響くものがあった。僕の周りの生徒も、それにやられてしくしくと泣き出していた。
 個人的な偏見を言わせてもらう。
 卒業式の時に泣くか泣かないかで、その人間がどのような学校生活を送っていたのかわかるような気がした。泣く者は、友人に恵まれ、勉強や部活なんでもいい。何かを目標にして努力をし続けた者だ。そういう者たちは、萩上の話を聞いて、自分の三年間と照らし照らし合わせ、「ああ、あの時は楽しかったな」「ああ、あの時はもっと頑張ってたらよかった」「あの時は我ながらよくやったよ」と想起し、それがもう二度と戻ってこないことを知り、たまらない焦燥感と虚無感に涙を落とす。
 大して、泣かない者は、心に何かつっかえるものを抱えている。友人と上手く付き合うことができず、目標も持つことができない。持てたとしても、どこか中途半端に終わり、理想と現実のギャップに悶々として、涙が正常に湧いてこないのだ。
 パイプ椅子に腰かけ、能面のような顔で萩上の挨拶を聴いていた僕は、当然後者だった。
 何も感じない。感じない。と言えば語弊になる。この卒業式がめでたいことや、萩上の話が感動的であることは理解できる。理解できても、涙は湧いてこないのだ。
 練習した通り、壇上に足を掛けたタイミングで立ち上がり、相手が一礼したタイミングで座る。「祝辞とします」と言い終えたタイミングで立ち上がり、階段に足を掛けたタイミングで座る。「校歌斉唱」と言ったタイミングで立ち上がり、歌い終わると、すぐに、次の旅立ちの日にの準備のために下唇を潤した。
 練習通りに、完璧にこなしてやった。
 隣でしくしくと泣いていた女子は、僕のあまりにものきびきびとした行動に、信じられないようなものを見る目を僕に向けてきた。
 僕は「さっさと動けよ。練習じゃできてただろ」と言いたい気持ちを抑えていた。
 卒業式が終わると、僕たちは教室に移動した。
 担任の最期の挨拶。その後、一人一人が教卓の前に立ち、クラスの皆に一言。思い出を語ったり、泣いて言葉を詰まらせて時間をとらせる者が多い中、僕は「今までありがとうございました」と、簡潔的なことしか言うことができなかった。
 教室は、生徒のすすり泣く声と、後ろに立つ親御さんたちの香水と口臭が混ざり合い、毒霧のシャワーのようだった。
 保護者代表挨拶として、クラスで頭のいい男子の母親が前に出て、「今までありがとうございました。息子は幸せでした」と言う。名を呼ばれた男子は、照れ臭そうに頭を搔いていた。
 すごいなあ。
 そんなことを思っていた。
 賞賛と人望は比例する。萩上のように、何か優秀な功績を残す者には、人は寄ってくる。その親はさぞかし鼻が高いだろう。そして、流れるように、「保護者代表挨拶」を任されたりする。決して母親が偉いのではなくて、生徒が偉いのだ。この狭い教室の中に、これから僕たちが何度も経験するであろう、「社会の闇」が縮図となって見えているようだった。
 別に、保護者代表挨拶をした女性の息子である彼のことを批判しているわけじゃない。 
 優秀ならば人に信頼されるという、至極当たり前のことを理解していながら、実行に移さない僕の怠惰に嫌気が差していただけだ。
 結局、僕は何か充実感を得られることができないまま、卒業を迎えたのだ。一応、地元の底辺校くらいは受験できる実力を身に着けたものの、結果はどうだろう。合格発表は明日だった。
 解散になると、皆、新しく買ってもらったスマホを持って学校中に駆り出し、親しい者たちとの写真撮影に興じた。
 これと言って親しい友人がいない僕は、とりあえず、兵頭のところに向かった。
 兵頭は相変わらず、「おれ! 卒業式の時に泣かなかったぜ!」とどうでもいいことを自慢して、周りに笑われていた。「そんなことどうでもいいんだよ!」というツッコミを含めてのネタなのかもしれない。
「おい、兵頭」
「ああ? どうした? 正樹」
「卒アルに、なんか書いてよ」
「任せとけ!」
 僕がアルバムを渡すと、兵頭はポケットからペンを取り出し、背表紙に大々的に何かを書いた。
「おら、オレのスペシャルサインだぜ! その内オレは有名になるから、ちゃんととっておけよ?」
 見れば、でっかく、うんこのマークが描かれていた。
 僕が「何やってんだ!」と怒るまでがギャグだと思えば大間違いだ。
「ありがとう、大切にするよ」
 兵頭を調子に乗らせないいように、僕は笑顔で感謝を述べると、卒業アルバムを脇に抱えた。
 それから、特にやることも無かったので、僕は鞄を持って帰ることにした。
 靴をつっかけて外に出て、いたるところで写真を撮り合っている者を横目に校門へと歩いていく。
「あ! 桜井君だ!」
 聞きなれた声に、話しかけられた。
 振り返ると、写真を撮り合っていた人の環から外れて、萩上が笑顔で僕の方に走ってきていた。
 二年生の時よりも髪の毛が伸びた。背も少し伸びて、でも胸は成長していない。
 変わらず、美しいままだ。
「ねえ、今から帰るの?」
「ああ、うん」
「じゃあ、一緒に写真撮ろうよ」
「え…」
 僕が気圧されていると、萩上は僕の横に並び、持っていたスマホの内カメラを使って写真を撮った。
「ありがと!」
 無邪気に笑う。
「桜井君は、スマホ、持っていないの?」
「あ、ああ、持ってる」
「じゃあ、そっちでも撮ろうか!」
 萩上は僕のスマホを使って、写真を撮った。
「うん、よく撮れたね」
 画像を確認してから、僕に返した。
 僕はスマホをポケットにしまう。
 それで終わりかと思いきや、萩上は僕にいろいろ質問を投げかけてきた。
「何処の学校を受験したの?」
「ああ、炭田学校」
「凄いね、ちゃんと県立を狙ったんだ」
「母さんに迷惑は掛けられないからな」言った後で、首を横に振る。「大したこと無いよ。地元じゃ底辺の学校だ」
「それでも、ちゃんと勉強して、県立が受けられるようになったのが偉いよ!」
 中学二年の、しかもたった二日間ほどの出来事を彼女が覚えていることが意外だった。
「頑張ったんだね!」
 萩上は僕を褒めたが、僕は嬉しくなかった。彼女のような、「デキル人間」に言われたところで、気休めにしか聞こえなかったのだ。
「わからないんだ」
 ぼそりと言った。
「頑張り方がわからない。小さい頃からそうだった。何もかも、怒られない程度に、無難に済ませてしまう…。今回だってそうだ。勉強をすれば、もう少しマシな学校に行けたのかもしれない。だけど…、僕は『県立が受験できる』っていうレベルに達すると、それ以上、努力ができなくなった…」
 まるで、地面に接触するかしないかの瀬戸際で飛行機を運転している気分だった。
 これ以上落ちたら、僕は墜落して死んでしまう。だけど、それよりも高度を上げるのが億劫だ。
 対して萩上は、僕よりも遥か上空、遥か彼方を快調に飛行している。
「お前は凄いよ」
 ポケットの中のスマホが重みを持ったような気がした。写真のフォルダの中に、彼女との写真が入っていること自体が、おこがましいのだ。
「何もかも、中途半端だ。学校生活も適当に送ったんだ。友達付き合いだって、嫌われない程度にやった。文化祭の時も、運動会の時も、何もかも、省エネルギーでやってきた。だからこのざまだ」
 自分の乾いた手のひらを見る。
「ごめんな、お前の感動的な生徒代表挨拶…、僕、泣けなかったんだ」
「え…」
「何も感じなかった。感動的なこと並べ立てて、皆の涙を誘っているのはわかったよ。だけど、何も感じない。泣けなかった」 
 式の後、わんわんと泣いている女子に、「解散は何時だっけ?」と聞いて、すごく嫌な顔をされた。
「そっか、泣けなかったか…」
 萩上は、落胆しただろうか? 
 僕がここまで血も涙も無い人間だとは思いもしなかっただろう。
「残念、残念」
 萩上の顔を見た時、僕は自分の目を疑った。
 彼女は、笑っていた。
 綺麗な顔をくしゃっと歪めて、他の者たちにはまず見せないような、満面の笑み。
「皆を泣かせるために、書いたんだけどなあ」
「………」
 春の暖かな風が、僕と萩上の間を通り抜けた。
 彼女の髪が、スカートの裾が、幻想的に舞い上がる。
 鼻先に花びらがくっつき、むず痒い。
 萩上はうざったるく、スカートと髪を抑えて、また、微笑んだ。
「頑張ることができないなら、目標を持つといいよ」
「目標を?」
「うん、こうなりたいって、自分の中に強く願うの」
 言った後で、萩上は慌てて首を横に振った。
「別に、大それたことじゃなくてもいいよ? 『期末テストで何位になろう』とか、『友達を〇人作ろう!』とか、小さなことの積み重ねで良いと思う。最初から『世界一になってやる』なんて、気分的にも無理だもんね」
「萩上は、そうやって、今までやってきたのか?」
「うん、これが結構効果あるんだな!」
 期末テストで全教科百点をとろう。
 合唱コンクールで優勝しよう。
 生徒会長になろう。
 彼女の掲げてきた小さな目標な、どんなものだっただろうか…。
 その時、玄関の方から三人の女子が出てきて、萩上を呼んだ。
「おーい、ちーちゃん、一緒に写真撮ろうよ! あと、アルバムにメッセージ書いてー!」
 この声は、明日香だった。
 萩上は「呼ばれちゃった、行かないと」と、乱れた髪を手櫛で整えた。 
 二、三歩走り出したところで立ち止まり、スカートを翻して振り返った。
「じゃあ、また、いつか会おうね」
「……うん」
 社交儀礼だろうか? 社交儀礼だろうな。
 だけど、その気遣いが嬉しかった。
「次に会うときは、頑張れる自分になれているといいね! 楽しみにしてるよ!」
 そう言って、萩上は女友達の方へと駆け出した。
 友達に囲まれて、あいつは終始笑顔だったが、先ほどのようなくしゃくしゃの笑みは見せていなかった。
 萩上との写真が保存されたスマホの感触を確かめ、僕は歩き出す。
 ああ、だめだ。頭がくらくらする。心臓が、不整脈起こしたみたいに暴れている。
 脚に翼が生えたみたいにふわふわとして、気を抜けば、あの春霞に向かって飛んでいってしまいそうだった。
「……」
 それ以来、僕は萩上と会うことはなかった。同窓会も何度か開かれたものの、ほとんどが、一番思い出深い三年生の時のクラスメイトからの誘いだった。
 ああ、本当、嫌になるよ。
 人の成長には、成功体験が必要だ。
 何かを頑張って成し遂げた時、人は努力することの大切さをその心に刻み込む。特に、幼少期の成功体験は、後々に強く影響すると、どこかの新聞記事で読んだことがあった。
 じゃあ、中学の時の経験は、どうなるのか。
 親にも、先生にも反抗して、自分の存在意義を追及する多感な時期。
 心の奥は、混ざり合うことの無い絵の具をめちゃくちゃに垂らしたように複雑な色に染まり、カプチーノをかき混ぜたような複雑な模様を描いている。
 そこに、萩上の色が落ちてきた。
 ぽちゃんと。
 本人に、そこまでの意図はない。空を高々と飛んでいたら、たまたま、下層の僕がその恩恵を受けただけだ。
 ただの偶然。向こうからしたら、底辺の人間を介護しているようなものだ。
 ただの偶然のはずなのに。
 お城で言うところの、召使とお姫様なのに。
 社交儀礼のはずなのに。
 僕の心の中は、萩上のあの言葉で染まってしまっていた。

「次に会うときは、頑張れる自分になれているるといいね」

 高校に入ると、授業を真面目に受けた。
 テストも真面目に望んだ。
 友達付き合いも頑張った。
 文化祭も、体育祭も、全力で頑張った。
 生徒会長に立候補して、皆に好かれるような人間を目指した。
 先生は「無理だ」って言ったけど、無理やり大学を受験した。
 親には感謝されて、先生にも褒められて。あいつらは「私のために」とか「オレの授業が良かった」なんて言ってたけど、僕は全然そんな気はしてなくて。
 月日が経つ度に、あの頃の記憶は薄れていって…。
 あの写真も、スマホを落とした時に、データごと消し飛んじゃって…。
 でも、僕が勉強を頑張るたびに、誰かと付き合う度に、脳裏に、誰かの言葉と、春風に揺れる姿がフラッシュバックする。
 そうだ。
 僕が頑張る理由。
 それは、多分…。
 萩上千鶴の、あの言葉に背中を押されているからだ。