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「ただいま」
 扉を開けた瞬間、埃と木の混ざった香りが、僕の鼻を掠めて、高校までの僕の人生を想起させた。
 前に帰った時よりも、少し頬の辺りが太った母さんがエプロン姿で僕を迎えた。
「おかえり」
「ただいま」
「あれ、彼女は?」
「彼女じゃないよ。別行動をとっている」
「そう」あからさまに残念そうな顔をする母さん。「まあいいや、みんな集まっているから、あんたも食べな」
 廊下を行った居間から、男共の「がははは」っていう下品な笑い声が聞こえた。
「誰を呼んだの?」
「みんな呼んだよ」
 にやっと笑う母さん。対して、僕は顔を顰めた。
 タイル張りの風呂場で、汗ばんだ足を洗ってから居間に入ると、長机を取り囲んで、叔父に伯父、母方の爺ちゃんに、父方の爺ちゃん。さらには、去年就職したばかりの兄貴までもが昼間からビールを突き合せて呑んでいる。さらに、煙草をふかしているので、台所と居間の空気の色が明らかに違った。
 一瞬で部屋に立ち入る気が失せて後ずさると、伯父さんが赤らめた顔で僕を呼んだ。
「おい! 正樹じゃねえか! ほら、こっち来て一緒に呑めや!」
 その言葉で、居間の男たちが一斉に僕の方を見る。
「おお! 正樹!」「大きくなったなあ!」「もう二十歳やろ!」「大学はどんなだ?」「なんや、陰気臭い顔しとうの!」
 酒に酔った男達が一斉にしゃべるものだから、誰が何を言っているのか聞き取れなかった。
「うるさいなあ」
 この、べたべたした感じが嫌いだった。ただ、息子が帰ってくるだけじゃないか。
 母さんがおしぼりを持って僕の後ろに立っていた。
「みんな、あんたの帰りを楽しみにしとったんよ」
「いや、酒を楽しみにしていただけだろ」
「違うよ。あんたが遅いから、待ちくたびれて呑み始めただけやん」
「いや、予定時刻よりも早く着いているんだけど?」
 僕はおしぼりを受け取り、手を拭き、顔を拭いた。
 長机の上には、そうめんとか、刺身とか、夏らしい清涼感のある食べ物が並べてある。が、ほとんど食べつくされていた。残ったのは、酒屋で買ってきたスルメとか、チーかまのみ。
 とりあえず、長い運転で疲れた僕は、伯父さんと母方の爺ちゃんの間に座った。
 母さんが目の前に、結露の浮いた、麦茶のグラスを置く。
「ほら、みんなあんたの話聞きたがっているんよ?」
「残念ながら、土産話は無いな」
「嘘つけえ」
 兄貴が顔を赤くして言った。
「お前、彼女おるんやってな!」
 僕はイエスともノーとも答えず、母さんを睨んだ。萩上のことは、母さんにしか言っていない。つまり、兄貴や他の親戚の人がそれを知っているってことは、この人が嬉々として語ったに違いなかった。
「母さん、ボケたの?」
「なんでよ。ボケとらんよ」
「いや、ボケただろ、僕は『友達と行く』って言っただけだよ?」
「恥ずかしがらんでええって!」
 背中をバシバシと叩かれた。
「将来のお嫁さんなんやから、ちゃんと私らに話さんと!」
「だから、彼女じゃないって…」
 だから、帰省は嫌なんだよ。帰るたびに、「彼女できた?」とか「もう初体験はしたか?」とか、高校の時は聞いてこなかった癖に、僕が巣立った瞬間、遠慮なしに僕の領域に踏み込んでくる。その図々しさにうんざりだった。
 だけど、ここで「彼女じゃないって言っているだろ!」と怒鳴って、この楽し気な雰囲気をぶち壊すのも大人げない気がした。
「彼女じゃないから。たまたま帰省の日が被って、泊まる場所が無いって言うから、泊めてやっているだけだから」
 余計それっぽくなってしまった。
 それからも、親戚や母さん、兄貴は、萩上のことをしつこく聞いてきた。「もうキスはしたの?」とか、「いつ出会ったんか?」とか、「孫の名前はどうするんだ?」とか、冗談だとしても笑えない。
 その質問には一切答えず、僕は残りの刺身やそうめん、おつまみをコーラと一緒に食べて、空腹を紛らわせた。
 ふと、萩上のことが気になった。
 あいつ、「夕方には帰る」って言ってたけど、飯はどうするんだろう? 
 一応、金は持たせているから心配は無かったが、念のために、カルパスとチーズをジーパンのポケットの中に忍ばせることにした。
 大学生活とか、生活はちゃんとやれているのか、そう言った質問には、閊えることなく答えた。まあ、半年前も親戚一同集まった時に同じ話をしたけど。
 萩上の話抜きにして、一人暮らしのことを語っているだけで、時間は飛ぶように過ぎていった。
 何時間と口が疲れるまで話し続けたころ、叔父さんが酒をを一口呑み、しみじみと言った。
「正樹、お前は本当に、親孝行な息子だよ!」
 呂律が回っていなかった。
 壁にもたれて、親戚たちの話に耳を傾けていた母さんが「うんうん」と、感慨深く頷いた。
「正樹は、親孝行な息子。ほんと、産んでよかったわ」
「なんで?」
 まさか「親孝行」と言われるとは思わなかった僕は、素直に母さんに聞いた。
「なんで、そう思うの?」
「そりゃそうでしょう。中学の時、あれだけ成績が悪くて、高校も大したところ行けなかったのに、今は国立大学に行ってくれているんだから」
 と、母さんは誇らしげに言った。
 カルパスを齧っていた兄貴が「本当だよ」と頷く。
「お前が国公立大学に行ってくれたおかげで、金に余裕ができたんだよ。あーあ、こんなことなら、オレも大学に行けばよかったよ」  
 兄貴は冗談ぽく言ったが、僕の胸の辺りがちくっと傷んだ。
 父親が早くに死んで、母さんは一人で僕と兄貴を支えなくてはならなくなった。親戚の支えは無いわけではなかったが、それでも、僕と兄貴の二人も大学に進学させる余裕は無い。兄貴は、進学することを諦めて就職し、僕に大学に行くチャンスを譲ったのだ。
 地元では、「国公立大学に行くやつは偉い!」という風潮があった。学費が私立に比べて掛からないし、就職率が高いと言われているからだ。
 中学の頃は頭が悪くて、親に迷惑ばかり掛けていた息子が、国公立大学に進学。
 こんな親孝行な話は無いというわけか。 
 母さんの目にきらっと光るものがあった。
「あの高校で、よく大学に行ってくれたよ」
「まあ、確かに、あの学校の奴らは勉強してなかったからな」
 僕の進学した高校は、生徒のほとんどが、卒業をしたら無職になるか、近くのスーパーや工場に就職するような底辺校だった。中には、妊娠して中退したやつだっていた。
 その中で、僕は一人勉強をして、大学に進学したのだ。
 今更だけど、あの頃の自分はよくやったと思うよ。
 まだまだ元気な母方の爺ちゃんと、父方の爺ちゃんが同時に手を伸ばして、僕の頭をわしわしと撫でた。 
 声を揃えて、
「「末は博士か大臣か!」」
 と今の若者にはわからないであろうことを言った。