第三幕
逃走
ようやく正気を取り戻した純香は、ただひたすらに走った。女医は後ろから追いかけてはこなかった。代わりに、内線で連絡を取っているらしかった。
「N棟へ逃走。道具などは何も持っていません。近くにいる者はただちにN棟へ」
――居場所がまるわかりだ。これじゃあ逃げてもきりがない。
病院内にいる限り逃げ場はないと悟った純香は、出口を探すことにした。後ろや横から、どこから湧いて出たのか分からぬ、看護師の恰好をした何者かが、鬼の形相で純香を追ってきた。
――どこか、この人たちを撒かないと!
追手がいる限り脱出も困難だ。幸い純香のほうが足が速かったので、追いつかれるという心配はなかった。しかし、この病院の構造はどうなっているのか、純香は全く知らない。非常に不利だ。
「とまれ! とまれええ!」
背中のほうで、獣の雄たけびにも似た、何かが響いていた。人の声であったのか、はたまた本物の鬼の怒号であったのか。いずれにしろ、それらが純香の命を狩り取ろうとしているのに違いなかった。
しかし、だんだんと追っては少なくなっていった。ある時、ようやく後ろに何もいないのに気が付いた。
ほっとして、一息つきたいところだったが、そんな暇はない。
まず、周囲を見わたし、監視カメラを確認する。しかし。驚いたことに監視カメラは無かった。
――ということは、出口を完全封鎖して、逃げ出さないようにしている可能性が高い……。
走って喉がカラカラになっていたが、自動販売機どころか、蛇口や洗面所も辺りにはなかった。どうやらN棟には、患者の個室は無いらしい。あるのは、やはり閑散とした、実験室のような部屋だ。ここらは全体的に暗かった。他と違って、窓の数も少なく、部屋には実験のためか、日光を遮るカーテンがあったからだろう。
――病院ならこんなカーテンは付けないよね。
何か武器を見つけるために、純香は謎の実験室に入った。
*
五十代ほどの黒いスーツを着た男は、煙草をふかしながら、長く白い廊下を、まっすぐ歩く。そして、左手にある白い扉の鍵を開けた。
「どうだ、様子は?」
「はい、たった今、N308の部屋に入りました」
この施設の管理者である篠田は、入口の一番近くにいた若い男に聞いた。
そこは、皆が一斉に目の前の画面に目を落とし、ただずっと、身じろぎもせずに監視の映像を見ている管理室だ。病院の地下にあり、その総勢は五十人。
「そうか」
篠田は小さくそう呟いて、煙草の火を消し、そのさらに奥の部屋へ入っていった。
ガラス張りの小さな部屋は、資料室になっている。篠田が今まで関わった事件、取引、その他重要な書類は、ほとんどこの部屋にあった。
棚に隙間なく並べられているファイルの中から、一つの青いファイルを取り出す。何度もめくって読んでいたため、既にファイルもその中身もボロボロだ。
最初に開いて見えるのは、ある事件の新聞の切り取りだ。見出しには「またも放火 犯人は中学生」という痛ましい言葉が書かれていた。
篠田は、その記事を今にでもくしゃくしゃにして捨ててしまいたかったが、まさに今、長年の計画が果たされようとしているのだ。震える手を抑え、頁をめくる。
次の頁には、放火の犯人が捕まったと書かれていた。記事の最後には、未成年のため、刑務所ではなく、少年院行きだということも書かれていた。
「……こいつには死刑がお似合いだ」
悲しい目でそう呟く篠田は、ガラスの向こうの管理室を振り返る。
皆が画面に目を落とし、監視、資料作成、その他システム管理など、各々の仕事をしている。ここには、システムエンジニアから警備員まで、本当に様々な職種の人が集まっている。今日の為に、篠田が元刑事である人脈を駆使し、各種の精鋭を集めたのだ。ネットなどの公のコミュニケーションツールは、足が付きやすいためあまり使えなかった。
「まさか法を厳守する刑事が、犯罪者まで堕ちちまうとはなあ」
少し感慨深く思っていると、資料室に一人の青年がコーヒーを持って入ってきた。
「何をそんなに寂しがっているんです? ようやく本番の日がやってきたと言うのに」
高校生くらいの齢の青年は、どこか嬉しそうにも思えた。
「ああ、智君、ありがとう」
コーヒーを受け取り、資料室内の小さな机に腰かける。
「ようやくこの日が来たんだな」
よみがえるのは古い記憶。弟の栄介が野球を始めたいとごねるので、とりあえず浜辺で一緒にキャッチボールをして遊んでやったこと。高校の入試で推薦が決まったと喜んで報告してきたこと。
もちろん良いことばかりでは無かった。喧嘩をして殴り合いになり、力余って家の窓をわってしまったこと。足を壊して野球ができなくなった栄介が、自暴自棄になって家出をしたこと。
ただ、今思うとどれも思い出だ。
――俺が無意識に、記憶をきれいに書き換えているだけかもしれないけどな。
遠くに想いを寄せながら、コーヒーを一口飲んだ。いつもより少し苦いと感じた。
管理室は依然と静けさを保っていた。誰もなにも言わない時間は、その場が緊張感に支配されていて、気が休まらない。
「やっぱり、皆気が休まらないよな。こんなところに拘束してしまって、申し訳ない」
煙草に火を付けながら篠田が言った。
「まあ、しょうがないですよ。うまくいけば、今日一日の辛抱です」
智は感情を隠すため、平坦な声を意識していたように見えた。
篠田は管理室から智のほうに視線を移す。
「そういえばあまりよく聞いていなかったが、智君はなんでこの作戦に協力したんだ。話したくないならそれでいいが」
智は、最初下を向いて何やら考え事をしていたようだった。
「理由は二つあるんです。一つは、あの女が俺の親友を傷つけたから。もう一つは―― 」
篠田と視線を合わせ、意を決したように頷くと、何かを思い出すように、視線を上にして話し始めた。
――――俺がまだ小学生だったころの話です。ある時、父に連れられて、遠縁の親戚だという家に行きました。電車で片道一時間はかかるところでしたが、そこは都会で、自分が暮らしている環境と全然違う街並みに感動しました。
駅から十分ほど歩いて、住宅街がありました。その一角の茶色いアパートが目的地です。表札には福原とありました。着いたのは、午後三時くらいだったと思います。
「やあ、いらっしゃい。どうぞ上がって」
家からは、優しい顔をした少し細いお父さんが出迎えてくれました。その後ろには、俺と同じくらいの女の子が、そっと玄関を覗いていました。
「久しぶりですね、福原さん。これ、つまらないものですが、お菓子を持ってきました。お子さんとご一緒にどうぞ」
そう言って、父は、家の近くの菓子屋で買った、団子や饅頭の詰め合わせを手渡しました。
福原さんの家は、娘が生まれてすぐに母親が亡くなってしまったため父子家庭だったんです。部屋に入ったら、母親の仏壇が目につきました。父はその仏壇に手を合わせてから、居間で福原さんと楽しそうに会話をしていました。二人ははとこで、年も近かったので、小さいころからよく遊んでいたそうです。いわゆる幼馴染ですね。
俺は、最初は一緒に隣に座って話を聞いていたんですが、やはり大人同士、幼馴染同士の会話は、俺は入っていけなかったんです。だから、父が持ってきた大福を二個ほど食べた後は、奥の仏壇のある部屋で、近くの棚から勝手に本を取り出して、読書をしていました。
数頁読んだところで、やはり普段読書なんてしない俺はすっかり飽きてしまいました。他にやることは無いかと模索していると、部屋の入口から女の子がひょっこり出てきました。
「暇なの?」
ただその一言を掛けてきました。
「うん。何か面白いことは無い?」
俺が聞くと、女の子はまたひょっこりどこかへ行ってしまいました。
からかいに来ただけかと思って少しむっとしましたが、俺の思い違いだったようで、女の子はすぐ帰ってきました。その手にはノートとペンがありました。
しかし、女の子は部屋の前でもじもじしていて、なかなか入ろうとしませんでした。俺の顔が怖かったのでしょうか。
「入っていいよ」
努めて優しく語りかけました。
すると女の子は、目をぱっと輝かせて、笑顔で俺のほうにやってきました。
「私ね、交換ノートっていうのをやってみたいの」
まっすぐな目で俺を見て、ノートを差し出してきました。表紙は無地の水色で「交換ノート」という題が書かれただけの、白紙のノートでした。
交換ノートなんて言葉は初めて聞いたので、女の子に聞きました。
「交換ノートっていうのはね、日記や、相手に対して書きたいことを書いて、それを交換しながら繰り返すものだよ」
やはり、女子が好きそうな遊びだなあ、と思いました。日記なんて付けたことが無いし、もっと言えば字を書くのもあまり好きではありません。
でも、その子が楽しそうに話すのを見て、断わることができず、仕方なく始めることにしました。
「そういえば、君の名前は? 俺は、智」
交換ノートをするのに、互いの名前も知らないのはおかしいでしょう。
「私は、涼菜」
こうして、二人の交換ノートが始まりました。
「じゃあ、最初は私が書くから、少し待っててね」
そう言って涼菜は部屋に戻っていきました。
それからしばらく、俺は父に言って、辺りを散歩していました。駅の近くのゲームセンターに行ったり、その近くの商店街で漫画を買ったりしました。あと、普段はあまり食べないコロッケを買って食べました。俺の家の近くには無い、人の多いその街は、子供の俺にとっては一人旅をしているようでとても楽しかったんです。
それから、近くの公園や小学校、中学校を見つけて、一通り眺めてからゆっくり帰りました。いつの間にか日は沈み、人で賑わっていた商店街からは、静けさが漂ってきました。
福田さんの家に戻ったとき、父が福田さんと夕飯の話をしていました。
「近くにピザ屋があるらしいですね。出前はどうです?」
「ああ、ごめんなさい。涼菜があんまりピザ好きでは無いんです」
「そうですか、全然大丈夫ですよ。じゃあ、近くのファミリーレストランはどうですか? お子様ランチもあるでしょうし」
「はい、そこにしましょう」
そう言って、福田さんは涼菜の部屋に向かいました。父は俺に気づいて、手招きをして言いました。
「今日は福田さんと外食だよ。家に帰るのは少し遅くなってしまうけど、お母さんには連絡したから大丈夫さ。好きなものを食べなさい」
久しぶりの外食で、俺は素直に喜びました。
涼菜も部屋から出てきて、四人で近くのファミリーレストランへ歩いていきました。外は晴れていて、上弦の月がよく見えました。ただ、住宅街が明るかったので、星はあまりよく見えなくて、少しがっかりしました。
俺は、ふと気になって、涼菜に流れ星を見たことがあるかと尋ねました。
「流れ星なんて、テレビでしか見たことない。本当にあるの?」
存在そのものを疑っているようでした。俺の小学校は、流星群が来るとたびたび屋上で観測会が開かれるので、何度か見たことがありました。
「今度見に行こう。俺の家の近くにはちょっとした山があるから、そこから見えるかもしれない」
涼菜は嬉しそうに笑いました。
それから数分歩いて、大きな通りに出ました。曲がり角に、家族連れが目立つレストランがありました。
「ここですね。ああ、いい匂いだ」
早速中に入り、テーブル席に案内されました。
メニュー表を見ると、ハンバーグ、オムライス、チャーハンなど、子供がよろこぶもがたくさん並んでいました。俺も例にもれず、即座に「ハンバーグ!」と指をさして言いました。
「ははは、やっぱり男の子は、肉が好きだよね。元気でいいことだよ」
福田さんはそう言ってから、涼菜にも注文を聞きました。涼菜は迷った末に、カレーを頼んでいました。
食べ終わった後は、もう時間も七時を回っていたので、あまり遅くなりすぎたら母が怒ると言って、俺たちは帰りました。
涼菜は帰り際に俺にノートを渡してきました。
「家に帰ってから読んでね」
家に着いたのは、夜八時で、母はテレビを見ていたようでしたが、いつの間にか寝てしまったようです。ソファに横たわったままの母に、父はタオルケットを掛けてやりました。
それから俺、父の順で風呂に入りました。母は、俺が風呂から上がった時には起きていました。
「どうだった、都会は? 確か、同じ年くらいの女の子がいたでしょう。仲良くできた?」
「道路がでかかった。あと星があんまり見えなかった。涼菜とは、これから交換ノートをすることになった」
母は、少し驚いた様子で俺のことを見返してきました。それから、ほっとしたよう笑って言ったんです。
「それは良かった。あの子は恥ずかしがり屋で、友達作りが苦手らしいのよ。だから、まさかあんたが初対面でそこまで距離を詰められるとは思ってなかった」
確かに、少しそんな気はしていました。でも割とすぐに話せるようになったので、心配しすぎなのではというのが本音でした。
部屋に行って、早速交換ノートを開きました。
『初めまして。まずは、お互い自己紹介からはじめましょう。
私は福原涼菜。小学五年生です。好きなものはそば、お菓子(特に駄菓子)、犬。嫌いなものは雷、辛いもの、虫。よろしくね。
今日言ってた流れ星、いつか見られるのを楽しみにしてるよ。約束忘れないでね。
私の家の近所には、智君の家のほうみたいに綺麗なものは少ないかもしれないけど、面白いものならたくさんあるよ。例えば、今日智君が来たミヨサカ駅は、外に出たところに商店街があって、ちょっとしたゲームセンターもあります。私は一人でどこかに出かけたことがあるのは本屋くらいだから、今度来たら一緒に行きたいな。
あと、少し遠いけど、ミヨサカ駅の三つ後の駅は、出たところから少し歩くと、すぐ海に出るよ。三潮ビーチって呼ばれてる。暑くなったら、海に行くのも楽しそうだね。
ああ、私ばっかり行きたい場所押し付けてごめんなさい。智君も、行きたいところとか、綺麗なところあったら、教えてください。涼菜』
少し丸まった小さな文字で、こう記されていました。嫌いなものの中に「虫」が入っているのは、やはり女の子だなあと、少し、かわいいと思いました。
ゲームセンターは、整備されているとはいえ、やはり少したばこ臭かったので、涼菜を連れては行きたくないなあと思いました。でも、ビーチには興味があります。山は近くにあって良く行くけど、海には家族ともあまり行ったことが無かったので、今度涼菜と一緒に行こうと心に決めました。
『初めまして、俺は大河 智(おおかわ さとし)。小六だ。涼菜の一つ上だったんだな。これからよろしく。
俺の好きなものは、肉、ごはん、野球とか、他にもたくさんある。嫌いなものは暑さだ。俺は野球の少年団に入っているんだけど、やっぱり練習中に暑いと辛い。
海は俺もあまり行ったことがない。今度行こう! 楽しみにしてる』
ゲームセンターのことはあえて書きませんでした。楽しいところだったけど、やはり勧められるようなところではないと思ったんです。
一週間後、俺はまたミヨサカに行きました。ノートを渡すためです。
「あ、智、福原さんの家に行くなら、これも持って行ってくれないか?」
そう言って、父は前に買っていた土産の大福が数個入った箱を渡してきました。
「福原さん、その大福気に入ってくれたんだ。本当は父さんが渡しに行くはずだったんだが、用事が入ってしまってね。頼めるかい?」
「分かった。行ってきまーす」
前と同じように、切符を買って、電車に乗り込みます。木をかき分けるように進んでいったんですが、三十分後にはもう高層ビルに挟まれていました。。
家に行く前に、少しゲームセンターで遊びました。いつもは泥だらけになって遊んでいたので、やはり画面を見て座って遊ぶというのはどこか新鮮でした。
――ピンポーン
「はーい」
涼菜の声がして、玄関が開きました。
「いらっしゃい。どうぞ上がって」
その日は、涼菜のお父さんはたまたま仕事で居ませんでした。父から預かった大福を代わりに涼菜に渡しておきました。
二人で涼菜の部屋で、海に行く計画を立てました。
「……でも、やっぱり小学生同士で行くのはだめだよね」
いまさら言うのは申し訳ないというように、遠慮がちに涼菜が言いました。
考えてみれば確かに、小学生二人で海なんて行けるはずありませんでした。
「じゃあさ、俺が高校生、涼菜が中学三年生になったら、一緒に行こうぜ。高校生の男子なんて、ほとんど大人みたいなものだろ」
今ならそうではないと分かるんですが、小学生からすると、高校生は立派な大人に見えたんです。
「それまでずっと、私と交換ノートしてくれるの?」
「もちろん」
涼菜は、本当に嬉しそうに笑いました。
それから俺たちは、一週間、長くても二週間ごとに互いの家に行き、交換ノートを続けていました。
しかし、高校受験で、俺は自分にとっては少し難しい場所を選んだので、受験勉強を本格に始めてから、交換ノートは徐々に少なくなり、最終的に、俺が「受験が終わるまで待ってくれ」と言って、涼菜としばらく会わなくなりました。
やっと高校生になり、涼菜を驚かそうと、連絡も入れずにミヨサカに行くことにました。
近くの山でスミレが咲いていたので、涼菜が好きな黄色と白のスミレを二、三本摘んで、水色の和紙に包んで持って行きました。
しばらく見ていなかった、電車からの風景は、初めて父と一緒に行った時とは違って、雨が降っていました。天気は湿っぽくても、俺の心は晴れやかだったんです。久しぶりに涼菜に会えるのが、何より嬉しかったんです。
でも、俺は涼菜と会えなかった。
ミヨサカは、俺が通わなくなって一か月たったころにある事件が起きて、すっかり荒廃していました。
ニュースすらろくに見ていなかった俺は、そんなこと夢にも思っていません。体は勝手に涼菜の家に走り出していました。そして、俺は本当の絶望感を初めて知りました。家に着くどころか、一帯の住宅地が更地になり果てていたんです。
気が付くと、俺は雨に濡れて、ミヨサカの駅のプラットホームに立ち尽くしていました。スミレはどこかで落としてしまったようです。
家に帰って父に聞こうか迷いましたが、もしかしたらあえて黙っているのではないかと思うと、結局何も聞けませんでした。初めて、雨に感謝しました。涙も、走った汗も、雨と一緒に流れていきました。
それからしばらく、俺はミヨサカのことを、涼菜ごと忘れてしまおうと思い、努めて普段どおり過ごしました。でも……忘れようとすればするほど、涼菜が……あいつの笑顔がちらつくようになったんです。俺は意を決して、墓参りに行こうと決めました。
墓と言っても、そんなものどこにあるかもわかりません。だから、涼菜の家があったところに、俺が勝手に手を合わせに行くだけです。
普通墓には花を飾るでしょう。花を摘みに、俺はまた山に行きました。墓に飾る花はどんなものがいいのかなんて、調べたくなかったんです。だから、遊びに行くときのように、軽い気持ちで花を摘みました。幸いスミレがまだ咲いていたので、今度は紫とピンクのスミレを持って行きました。
相変わらず、ミヨサカは悲惨な光景が広がっていました。でも今度は、雨は降っていませんでした。気持ちとは裏腹に、晴れ渡っていました。
そんな空から目を背けるように、俺はただじっと下を見て、涼菜の家があった場所まで歩きました。落とさないように、スミレを優しく握りながら――――
智の話の途中、管理室から篠田を呼ぶ声があった。
「少女に動きあり! それに……これは、副監理室の――」
急いで戻った篠田が目にしたのは、ある女が純香と共に逃げる姿だった。
「まさか――――」
*
純香が、入った部屋を実験室の〝ような〟と言ったのは、まるで物置のように、物が乱雑に置かれていて、しばらく人が入っていないような雰囲気があったからだ。
――この病院は、やっぱり変だ。
そもそもここが本当に病院であるのかは怪しいところだが、機能としてはやはり病院に一番近い気がした。もっと言えば、人体実験場というほうが適切だろう。
こんな施設を管理しているのは一体だれか。純香は、やっと冷静さを取り戻し、様々な疑問を挙げる。
しかし考えたところで答えは出ない。
とりあえずなにか武器を探そうと思ったが、扉の向こうから誰かが走ってくる音が聞こえた。
――まさか、この部屋に入ったのが見られていた?
足音はどんどん近くなる。
――お願い、止まらないで!
しかし純香の願いは届かず、足音は丁度純香が通った扉の前でぴたりと止んだ。
――どうしよう。戦う? ……いや、武器も何も持ってないのにそれは無理だ。また走って逃げる? ……いや、もう体力も限界だ。絶対追いつかれる。
とうとう足音は部屋に入ってきた。そして、背後に気配を感じ、純香は死を覚悟した――。
――……あれ、生きてる?
しばらく目を瞑ってじっとしていたが、首に手をかけられる感覚も、刃物で刺される感覚も無かった。
――もしかして、もうここは地獄?
純香が恐る恐る目を開けると、目の前には看護師の服を着た女の人が立っていた。
慌ててまた下を向くと、今度は声をかけられた。
「私はあなたの味方です。もう大丈夫、ここから逃げましょう」
予想外の言葉に純香は困惑し、目を開けた。目の前には、自分と同じくらいか、もっと下の、女の子がいた。看護師の服が少し大きくて、コスプレでもしているような感じだった。
「驚かれるのも無理はありませんよね。でも、事情をゆっくり説明している時間はありません。ここから出たいのであれば、私についてきてもらえませんか」
そう言って、純香の手を引き、部屋の奥、実験準備室に入った。少女はものが乱雑に置かれた棚から、地図を取り出した。この病院の地図だ。
「あなたがこの部屋に入ってくれて良かった。ここは、私がこの時のために色々準備していた場所だったんです」
そう言いながら、次に少女は拳銃を取り出した。
「いざという時のためです。あなたが持っていてください」
純香は本物の拳銃なんて触ったことが無かった。
――こんなの使える訳ない。
少女は純香の考えていることを見透かしたように言った。
「大丈夫、これは偽物。本物なんて、私はどこで手に入れるのかも分からない。だからこれは、もう道がなくなった時、脅して強行突破するときに使うんです」
悪だくみしている子供のように笑って、少女は言った。
純香は少女に地図を貰い、現在地を確認する。N棟の三階。出口はC棟の一階だから、かなり遠いところにいるようだ。
「私がいたのは、一階の副管理室。あ、管理室は別で、地下にあるらしいです。私は入ったことは無いけど。それで、副管理室は、地図を見てもらえば分かるとおり、出口の真横にあります。ですから、その出口から出るのは無理です。だから、ここから出ようと思います」
そう言って、少女が指したのは、A棟の非常階段だった。
「ここは、警備が手薄なはずです。私たちがN棟にいることは皆知っているので、恐らく反対側にそんな労力は割かないでしょうから。ただ、ここに行くまでに見つかってしまっては元も子もありません。だから私、事前に調査して、監視カメラの位置を確かめておいたんです」
よく見てみると、赤いバツ印がいたるところに記されていた。だが一部分、ほとんど監視カメラが無いところもあった。それはとても奇妙な場所だった。
「この病院の構造は面白くて、アルファベット順に棟が並んでいるんですけど、J棟とK棟の間から、B棟とC棟の間は、別ルートがあるんです。それは二階にあって、空中トンネルって呼ばれてます」
再び地図に視線を落とすと、二階だけ、確かに道が多かった。他と違って個室があるわけでも、実験室があるわけでもなかった。窓すら無い。本当に、ただの通路としてつくられた場所のようだった。
「不自然でしょう。私も最初気になって、見に行ったんです。そしたら、この地図には少し間違いがありました。一本道で、階段も無いように描かれているんですが、本当は三階に続く階段が、五か所ほどあるんです。三階でそこに通じているのは、いずれも実験室のところでした」
純香は想像していた。秘密の階段。実験室に隠されている。この病院の狂気……。
やがて一つの答えが出た。この通路は、外部の人間に見られないように〝何か〟を処理するための抜け道だ、と。
*
管理室は、篠田の絶叫で静まり返っていた。
「なぜ裏切る! 総員、この女を取り押さえろ!」
一瞬の間があったが、一斉に椅子を引く音が聞こえ、監視員たちは風のように駆けていった。
「ようやく気付きましたか、篠田さん」
篠田が顔を上げると、智の不敵な笑みに視線がぶつかった。
「言っていませんでしたが、俺はあなたの目的を邪魔するために来たんです」
篠田の顔は、怒りのあまり目が血走り、唇が震え、汗が滴っている。
「何を言っているんだ……? お前、私の何を知っている!」
唾を飛ばしながら、興奮して話す篠田は、さながら野生動物が吠えているような光景だ。
智は再び真面目な表情になった。
「話は途中でしたね。まあ見てのとおり、もうあなたの仕事はありません。俺の話、ゆっくり聞いてくださいね」
――――涼菜の家に着いたとき、俺はこみ上げる感情を無視して、ずかずか入って行きました。もう鳴らすチャイムも残ってなかったんです。
かつてダイニングテーブルがあったところに、持ってきたスミレを置こうとしたとき、俺にとっては奇跡のようなことが起こったんです。
「あれ、智君?」
その声を、俺は待ち焦がれていたんです。聞き違えるはずありません。
振り返ったところに、鮮やかな黄色のワンピースを着た涼菜が、いつも俺を迎えてくれる優しい笑顔で、手を振っていました。情けないと分かっていながら、俺は涙を流しました。
「涼菜……良かった。また会えた…………」
思わず抱きしめました。
「ごめんなさい。最近色々と忙しくて、連絡が遅くなってしまって……」
いまさら事情なんてどうでもいい。そう思っていました。とにかく涼菜に触れられるという現実が嬉しくて、何も考えることができませんでした。
落ち着いてから、スミレを直接涼菜に渡しました。
涼菜は少し驚いたようでしたが、笑って受け取ってくれました。
「ありがとう」
その一言さえ、どうしようもなく嬉しかったんです。
しばらくして、涼菜はゆっくり、ミヨサカに起こった出来事を説明してくれました。
「私が、いつものように学校から帰っているとき、ミヨサカの方から大量の人が逃げるように走ってきた。私は何がどうなっているのか分からなかったから、人の流れに逆らって、ミヨサカに向かったわ。そしてミヨサカ駅まで来た時……血まみれになって倒れてる男の人が見えた。遠くから、数人の男たちが騒ぎながら歩いてくる音が聞こえて、私は駅構内に隠れることにした。駅長室が空だったから、そこに鍵をかけて震えていたの。隙間から少し見てみたんだけど、その男たちはだらっとしたTシャツに、腰まで引き下げたジーパンを着て、先端に少し血の付いたバイクを押してた。男たちは駅の壁にスプレーで落書きをしたり、辺りの窓を割ったり、ポスターを引きはがしたり、やりたい放題に暴れてた。……もし、今隠れているところに男たちが来たら、なんて考えると、恐ろしくて、ばれないように警察に連絡しようと思ったの。それで通報したんだけど、警察は出なかった。よく見ると携帯は圏外だった」
涼菜は、その時のことを思い出して、手が少し震えていました。俺が握ってやると、少しだけ、安心したようで、話を続けます。
「男たちがいなくなって家に帰っていると、途中でお父さんが迎えに来てくれた。少し安心したけど、お父さんの顔は、とても悲しそうだった。私は『何かあったの?』って聞いた。まあ、住宅街から人がほとんど逃げ出していってる状況で、この言葉は可笑しかったかもしれないけどね。……それで、お父さんは一言、『家が燃えた』って。正確には、私の家の近隣一帯が、警察の服を着た人たちに燃やされたの。お父さんはたまたま会社にいたから、無事だったんだけど、近くに住んでたあの人は、家にいて……」
涼菜はそこで言葉が詰まって、うつむいてしまいました。
涼菜の言う「あの人」というのは、涼菜と同じ学校、同級生の男の子です。涼菜は、その人のことを良く交換ノートで書いていました。好きだったんです。俺が交換ノートを止める直前に、涼菜はその人に告白する、と意気込んでいたんです。俺も表面上は応援していましたよ。でも、やっぱり苦しい。俺は、涼菜のことをずっと見てきた。だから、やっぱり素直に応援できませんでした。先刻は受験のためにこうしたと言いましたが、正直、一度涼菜と距離を置いて、冷静になろうと思っていたんです。
涼菜の想い人は、謎の放火のため命を落としました。俺は、いくらその人が羨ましいと思っていても、やはり嬉しくありませんでした。いずれ正面から堂々と、涼菜を振り向かせるつもりでした。
涼菜の想い人が命を落とした原因は、その時は結局謎のままでした。
涼菜はやがて泣き止んで、スミレを見つめていました。
「ねえ、スミレの花言葉、知ってる?」
花言葉なんて、調べたことありません。
「このピンクのスミレと紫のスミレは、希望、幸せ、真実の愛、とかの意味があるの」
そんな意味があるなんて知らなかった俺は、途端に耳まで赤くなりました。
涼菜はそんな俺をからかうように笑って、再び、
「ありがとう」
と言いました。
手はしばらくつないだまま、二人で壊れたミヨサカを見つめていました。
その日はとりあえず帰りました。涼菜も、あの後父と二人で、逃げるようにビジネスホテルに行って、ずっと暮らしていたそうです。
俺はあるアイデアがあったんです。狂気じみてると思われるかもしれませんが、俺は、涼菜の想い人の敵討ちをしようと考えていました。
親にさりげなく、ミヨサカのことを聞いてみました。
「智、最近行ってないもんね。行きたいなら、またお父さんと行ってこれば?」
思った通り、母は何も事情を知らないようでした。
ミヨサカの惨状を見て思ったんです。こんなに荒れてしまったのに、報道の一つもされないなんておかしい。何か、情報がどこかでせき止められているんだと思いました。
涼菜は、放火したのは警察の服を着た人だと言っていましたが、俺は最初から、それは本物の警察だと考えていました。まあ、目的は分かりませんでしたが。
それから、俺は情報集めに骨を折っていました。しかし結局、有力そうな情報は見つかりませんでした。
とうとう自分一人ではどうにもできないと悟って、涼菜に相談しました。この時、反対されたら素直にやめようと思っていました。涼菜を巻き込むわけにはいかないので。もう一度ミヨサカに行って、いつもと同じ場所、涼菜の家で待ち合わせしました。
涼菜は俺がやっていることに驚いていました。何かを言おうと口を開きましたが、何かを考えるように、一度快晴の空を見上げました。
「……分かった。協力するわ」
正直、俺は反対されると思っていました。危険だし、何より、涼菜は復讐なんて望んでいないと思っていたので。
「勘違いしないで。私は敵討ちの方に賛同するんじゃなくて、犯人捜しの方に協力するの」
「ああ、分かった。ありがとな 」
「実は私、前に智君と会った時、ここに調査しに来てたの。ただの推測なんだけど、犯人がこんな大それたことをしたのは、もっと小さな、一つの目的を隠しているんじゃないかと思って。例えば、こんなに多くの家が燃やされたのは、ある一軒だけを燃やしたかったんじゃないかってね」
涼菜の意見は、俺には的を射ているように思えました。涼菜の言う通り、犯人が危険を顧みずこんな暴挙に出たのは、俺の目から見ても不自然でしたから。
「でね、偶然かもしれないけど、一軒だけ、集中して燃やされたところがあったの。あの日逃げた人に聞いたら、最初に燃やされたのは別の家だったから、私の推測が当たっていれば、その家の人に、犯人は何か恨みがあったんだと思う 」
それから、俺は涼菜に連れられて、その家に向かいました。確かに他と比べて跡が黒くのこってたけど、普通に歩いていたら見逃してしまうほどのわずかな違いでした。だから、俺たちは確証を持つには至りませんでした。
その家には、一人のサラリーマンが住んでいたと言います。涼菜はその家に住んでいた人を知っていると言いますが、ミヨサカを出た後、どこに住んでいるかは知らないということでした。安否も定かではありません。
「お父さんの知り合いが、犠牲者の名前が載った資料を持ってるらしいから、今日帰ってお父さんに聞いてみるよ」
そう言われ、その日はミヨサカを後にしました。
帰る途中、俺は犯人の目的を想像していました。
――金銭トラブル、恨み晴らし……もしかしたら、敵討ちか?
涼菜に任せきりになってしまって心苦しかったので、とりあえず、俺は警察の動きを探ろうと思って、様々な方法で情報を集めたんですが、やはりだめでした。しかし、めげそうになっている時、情報漏洩か何かでネットにあげられていた、あるサイトにアクセスできたんです。そこには、警察の中でもトップの人の、名前から生い立ちまでが、詳しく載っていました。
こんな個人情報がネットにあげられるなんておかしいと感じながら、俺はその画面に釘付けになっていました。
俺は、その人たちの出身小学校や中学校を調べていきました。そのサイトは数日で何事も無かったかのように消されてしまいましたが、たかが数十人を調べるのには十分でした。
調べた中で、たった一人、ミヨサカの隣町出身で、涼菜と同じ中学校を卒業した人がいました。それがあなたです、篠田さん――――
逃走
ようやく正気を取り戻した純香は、ただひたすらに走った。女医は後ろから追いかけてはこなかった。代わりに、内線で連絡を取っているらしかった。
「N棟へ逃走。道具などは何も持っていません。近くにいる者はただちにN棟へ」
――居場所がまるわかりだ。これじゃあ逃げてもきりがない。
病院内にいる限り逃げ場はないと悟った純香は、出口を探すことにした。後ろや横から、どこから湧いて出たのか分からぬ、看護師の恰好をした何者かが、鬼の形相で純香を追ってきた。
――どこか、この人たちを撒かないと!
追手がいる限り脱出も困難だ。幸い純香のほうが足が速かったので、追いつかれるという心配はなかった。しかし、この病院の構造はどうなっているのか、純香は全く知らない。非常に不利だ。
「とまれ! とまれええ!」
背中のほうで、獣の雄たけびにも似た、何かが響いていた。人の声であったのか、はたまた本物の鬼の怒号であったのか。いずれにしろ、それらが純香の命を狩り取ろうとしているのに違いなかった。
しかし、だんだんと追っては少なくなっていった。ある時、ようやく後ろに何もいないのに気が付いた。
ほっとして、一息つきたいところだったが、そんな暇はない。
まず、周囲を見わたし、監視カメラを確認する。しかし。驚いたことに監視カメラは無かった。
――ということは、出口を完全封鎖して、逃げ出さないようにしている可能性が高い……。
走って喉がカラカラになっていたが、自動販売機どころか、蛇口や洗面所も辺りにはなかった。どうやらN棟には、患者の個室は無いらしい。あるのは、やはり閑散とした、実験室のような部屋だ。ここらは全体的に暗かった。他と違って、窓の数も少なく、部屋には実験のためか、日光を遮るカーテンがあったからだろう。
――病院ならこんなカーテンは付けないよね。
何か武器を見つけるために、純香は謎の実験室に入った。
*
五十代ほどの黒いスーツを着た男は、煙草をふかしながら、長く白い廊下を、まっすぐ歩く。そして、左手にある白い扉の鍵を開けた。
「どうだ、様子は?」
「はい、たった今、N308の部屋に入りました」
この施設の管理者である篠田は、入口の一番近くにいた若い男に聞いた。
そこは、皆が一斉に目の前の画面に目を落とし、ただずっと、身じろぎもせずに監視の映像を見ている管理室だ。病院の地下にあり、その総勢は五十人。
「そうか」
篠田は小さくそう呟いて、煙草の火を消し、そのさらに奥の部屋へ入っていった。
ガラス張りの小さな部屋は、資料室になっている。篠田が今まで関わった事件、取引、その他重要な書類は、ほとんどこの部屋にあった。
棚に隙間なく並べられているファイルの中から、一つの青いファイルを取り出す。何度もめくって読んでいたため、既にファイルもその中身もボロボロだ。
最初に開いて見えるのは、ある事件の新聞の切り取りだ。見出しには「またも放火 犯人は中学生」という痛ましい言葉が書かれていた。
篠田は、その記事を今にでもくしゃくしゃにして捨ててしまいたかったが、まさに今、長年の計画が果たされようとしているのだ。震える手を抑え、頁をめくる。
次の頁には、放火の犯人が捕まったと書かれていた。記事の最後には、未成年のため、刑務所ではなく、少年院行きだということも書かれていた。
「……こいつには死刑がお似合いだ」
悲しい目でそう呟く篠田は、ガラスの向こうの管理室を振り返る。
皆が画面に目を落とし、監視、資料作成、その他システム管理など、各々の仕事をしている。ここには、システムエンジニアから警備員まで、本当に様々な職種の人が集まっている。今日の為に、篠田が元刑事である人脈を駆使し、各種の精鋭を集めたのだ。ネットなどの公のコミュニケーションツールは、足が付きやすいためあまり使えなかった。
「まさか法を厳守する刑事が、犯罪者まで堕ちちまうとはなあ」
少し感慨深く思っていると、資料室に一人の青年がコーヒーを持って入ってきた。
「何をそんなに寂しがっているんです? ようやく本番の日がやってきたと言うのに」
高校生くらいの齢の青年は、どこか嬉しそうにも思えた。
「ああ、智君、ありがとう」
コーヒーを受け取り、資料室内の小さな机に腰かける。
「ようやくこの日が来たんだな」
よみがえるのは古い記憶。弟の栄介が野球を始めたいとごねるので、とりあえず浜辺で一緒にキャッチボールをして遊んでやったこと。高校の入試で推薦が決まったと喜んで報告してきたこと。
もちろん良いことばかりでは無かった。喧嘩をして殴り合いになり、力余って家の窓をわってしまったこと。足を壊して野球ができなくなった栄介が、自暴自棄になって家出をしたこと。
ただ、今思うとどれも思い出だ。
――俺が無意識に、記憶をきれいに書き換えているだけかもしれないけどな。
遠くに想いを寄せながら、コーヒーを一口飲んだ。いつもより少し苦いと感じた。
管理室は依然と静けさを保っていた。誰もなにも言わない時間は、その場が緊張感に支配されていて、気が休まらない。
「やっぱり、皆気が休まらないよな。こんなところに拘束してしまって、申し訳ない」
煙草に火を付けながら篠田が言った。
「まあ、しょうがないですよ。うまくいけば、今日一日の辛抱です」
智は感情を隠すため、平坦な声を意識していたように見えた。
篠田は管理室から智のほうに視線を移す。
「そういえばあまりよく聞いていなかったが、智君はなんでこの作戦に協力したんだ。話したくないならそれでいいが」
智は、最初下を向いて何やら考え事をしていたようだった。
「理由は二つあるんです。一つは、あの女が俺の親友を傷つけたから。もう一つは―― 」
篠田と視線を合わせ、意を決したように頷くと、何かを思い出すように、視線を上にして話し始めた。
――――俺がまだ小学生だったころの話です。ある時、父に連れられて、遠縁の親戚だという家に行きました。電車で片道一時間はかかるところでしたが、そこは都会で、自分が暮らしている環境と全然違う街並みに感動しました。
駅から十分ほど歩いて、住宅街がありました。その一角の茶色いアパートが目的地です。表札には福原とありました。着いたのは、午後三時くらいだったと思います。
「やあ、いらっしゃい。どうぞ上がって」
家からは、優しい顔をした少し細いお父さんが出迎えてくれました。その後ろには、俺と同じくらいの女の子が、そっと玄関を覗いていました。
「久しぶりですね、福原さん。これ、つまらないものですが、お菓子を持ってきました。お子さんとご一緒にどうぞ」
そう言って、父は、家の近くの菓子屋で買った、団子や饅頭の詰め合わせを手渡しました。
福原さんの家は、娘が生まれてすぐに母親が亡くなってしまったため父子家庭だったんです。部屋に入ったら、母親の仏壇が目につきました。父はその仏壇に手を合わせてから、居間で福原さんと楽しそうに会話をしていました。二人ははとこで、年も近かったので、小さいころからよく遊んでいたそうです。いわゆる幼馴染ですね。
俺は、最初は一緒に隣に座って話を聞いていたんですが、やはり大人同士、幼馴染同士の会話は、俺は入っていけなかったんです。だから、父が持ってきた大福を二個ほど食べた後は、奥の仏壇のある部屋で、近くの棚から勝手に本を取り出して、読書をしていました。
数頁読んだところで、やはり普段読書なんてしない俺はすっかり飽きてしまいました。他にやることは無いかと模索していると、部屋の入口から女の子がひょっこり出てきました。
「暇なの?」
ただその一言を掛けてきました。
「うん。何か面白いことは無い?」
俺が聞くと、女の子はまたひょっこりどこかへ行ってしまいました。
からかいに来ただけかと思って少しむっとしましたが、俺の思い違いだったようで、女の子はすぐ帰ってきました。その手にはノートとペンがありました。
しかし、女の子は部屋の前でもじもじしていて、なかなか入ろうとしませんでした。俺の顔が怖かったのでしょうか。
「入っていいよ」
努めて優しく語りかけました。
すると女の子は、目をぱっと輝かせて、笑顔で俺のほうにやってきました。
「私ね、交換ノートっていうのをやってみたいの」
まっすぐな目で俺を見て、ノートを差し出してきました。表紙は無地の水色で「交換ノート」という題が書かれただけの、白紙のノートでした。
交換ノートなんて言葉は初めて聞いたので、女の子に聞きました。
「交換ノートっていうのはね、日記や、相手に対して書きたいことを書いて、それを交換しながら繰り返すものだよ」
やはり、女子が好きそうな遊びだなあ、と思いました。日記なんて付けたことが無いし、もっと言えば字を書くのもあまり好きではありません。
でも、その子が楽しそうに話すのを見て、断わることができず、仕方なく始めることにしました。
「そういえば、君の名前は? 俺は、智」
交換ノートをするのに、互いの名前も知らないのはおかしいでしょう。
「私は、涼菜」
こうして、二人の交換ノートが始まりました。
「じゃあ、最初は私が書くから、少し待っててね」
そう言って涼菜は部屋に戻っていきました。
それからしばらく、俺は父に言って、辺りを散歩していました。駅の近くのゲームセンターに行ったり、その近くの商店街で漫画を買ったりしました。あと、普段はあまり食べないコロッケを買って食べました。俺の家の近くには無い、人の多いその街は、子供の俺にとっては一人旅をしているようでとても楽しかったんです。
それから、近くの公園や小学校、中学校を見つけて、一通り眺めてからゆっくり帰りました。いつの間にか日は沈み、人で賑わっていた商店街からは、静けさが漂ってきました。
福田さんの家に戻ったとき、父が福田さんと夕飯の話をしていました。
「近くにピザ屋があるらしいですね。出前はどうです?」
「ああ、ごめんなさい。涼菜があんまりピザ好きでは無いんです」
「そうですか、全然大丈夫ですよ。じゃあ、近くのファミリーレストランはどうですか? お子様ランチもあるでしょうし」
「はい、そこにしましょう」
そう言って、福田さんは涼菜の部屋に向かいました。父は俺に気づいて、手招きをして言いました。
「今日は福田さんと外食だよ。家に帰るのは少し遅くなってしまうけど、お母さんには連絡したから大丈夫さ。好きなものを食べなさい」
久しぶりの外食で、俺は素直に喜びました。
涼菜も部屋から出てきて、四人で近くのファミリーレストランへ歩いていきました。外は晴れていて、上弦の月がよく見えました。ただ、住宅街が明るかったので、星はあまりよく見えなくて、少しがっかりしました。
俺は、ふと気になって、涼菜に流れ星を見たことがあるかと尋ねました。
「流れ星なんて、テレビでしか見たことない。本当にあるの?」
存在そのものを疑っているようでした。俺の小学校は、流星群が来るとたびたび屋上で観測会が開かれるので、何度か見たことがありました。
「今度見に行こう。俺の家の近くにはちょっとした山があるから、そこから見えるかもしれない」
涼菜は嬉しそうに笑いました。
それから数分歩いて、大きな通りに出ました。曲がり角に、家族連れが目立つレストランがありました。
「ここですね。ああ、いい匂いだ」
早速中に入り、テーブル席に案内されました。
メニュー表を見ると、ハンバーグ、オムライス、チャーハンなど、子供がよろこぶもがたくさん並んでいました。俺も例にもれず、即座に「ハンバーグ!」と指をさして言いました。
「ははは、やっぱり男の子は、肉が好きだよね。元気でいいことだよ」
福田さんはそう言ってから、涼菜にも注文を聞きました。涼菜は迷った末に、カレーを頼んでいました。
食べ終わった後は、もう時間も七時を回っていたので、あまり遅くなりすぎたら母が怒ると言って、俺たちは帰りました。
涼菜は帰り際に俺にノートを渡してきました。
「家に帰ってから読んでね」
家に着いたのは、夜八時で、母はテレビを見ていたようでしたが、いつの間にか寝てしまったようです。ソファに横たわったままの母に、父はタオルケットを掛けてやりました。
それから俺、父の順で風呂に入りました。母は、俺が風呂から上がった時には起きていました。
「どうだった、都会は? 確か、同じ年くらいの女の子がいたでしょう。仲良くできた?」
「道路がでかかった。あと星があんまり見えなかった。涼菜とは、これから交換ノートをすることになった」
母は、少し驚いた様子で俺のことを見返してきました。それから、ほっとしたよう笑って言ったんです。
「それは良かった。あの子は恥ずかしがり屋で、友達作りが苦手らしいのよ。だから、まさかあんたが初対面でそこまで距離を詰められるとは思ってなかった」
確かに、少しそんな気はしていました。でも割とすぐに話せるようになったので、心配しすぎなのではというのが本音でした。
部屋に行って、早速交換ノートを開きました。
『初めまして。まずは、お互い自己紹介からはじめましょう。
私は福原涼菜。小学五年生です。好きなものはそば、お菓子(特に駄菓子)、犬。嫌いなものは雷、辛いもの、虫。よろしくね。
今日言ってた流れ星、いつか見られるのを楽しみにしてるよ。約束忘れないでね。
私の家の近所には、智君の家のほうみたいに綺麗なものは少ないかもしれないけど、面白いものならたくさんあるよ。例えば、今日智君が来たミヨサカ駅は、外に出たところに商店街があって、ちょっとしたゲームセンターもあります。私は一人でどこかに出かけたことがあるのは本屋くらいだから、今度来たら一緒に行きたいな。
あと、少し遠いけど、ミヨサカ駅の三つ後の駅は、出たところから少し歩くと、すぐ海に出るよ。三潮ビーチって呼ばれてる。暑くなったら、海に行くのも楽しそうだね。
ああ、私ばっかり行きたい場所押し付けてごめんなさい。智君も、行きたいところとか、綺麗なところあったら、教えてください。涼菜』
少し丸まった小さな文字で、こう記されていました。嫌いなものの中に「虫」が入っているのは、やはり女の子だなあと、少し、かわいいと思いました。
ゲームセンターは、整備されているとはいえ、やはり少したばこ臭かったので、涼菜を連れては行きたくないなあと思いました。でも、ビーチには興味があります。山は近くにあって良く行くけど、海には家族ともあまり行ったことが無かったので、今度涼菜と一緒に行こうと心に決めました。
『初めまして、俺は大河 智(おおかわ さとし)。小六だ。涼菜の一つ上だったんだな。これからよろしく。
俺の好きなものは、肉、ごはん、野球とか、他にもたくさんある。嫌いなものは暑さだ。俺は野球の少年団に入っているんだけど、やっぱり練習中に暑いと辛い。
海は俺もあまり行ったことがない。今度行こう! 楽しみにしてる』
ゲームセンターのことはあえて書きませんでした。楽しいところだったけど、やはり勧められるようなところではないと思ったんです。
一週間後、俺はまたミヨサカに行きました。ノートを渡すためです。
「あ、智、福原さんの家に行くなら、これも持って行ってくれないか?」
そう言って、父は前に買っていた土産の大福が数個入った箱を渡してきました。
「福原さん、その大福気に入ってくれたんだ。本当は父さんが渡しに行くはずだったんだが、用事が入ってしまってね。頼めるかい?」
「分かった。行ってきまーす」
前と同じように、切符を買って、電車に乗り込みます。木をかき分けるように進んでいったんですが、三十分後にはもう高層ビルに挟まれていました。。
家に行く前に、少しゲームセンターで遊びました。いつもは泥だらけになって遊んでいたので、やはり画面を見て座って遊ぶというのはどこか新鮮でした。
――ピンポーン
「はーい」
涼菜の声がして、玄関が開きました。
「いらっしゃい。どうぞ上がって」
その日は、涼菜のお父さんはたまたま仕事で居ませんでした。父から預かった大福を代わりに涼菜に渡しておきました。
二人で涼菜の部屋で、海に行く計画を立てました。
「……でも、やっぱり小学生同士で行くのはだめだよね」
いまさら言うのは申し訳ないというように、遠慮がちに涼菜が言いました。
考えてみれば確かに、小学生二人で海なんて行けるはずありませんでした。
「じゃあさ、俺が高校生、涼菜が中学三年生になったら、一緒に行こうぜ。高校生の男子なんて、ほとんど大人みたいなものだろ」
今ならそうではないと分かるんですが、小学生からすると、高校生は立派な大人に見えたんです。
「それまでずっと、私と交換ノートしてくれるの?」
「もちろん」
涼菜は、本当に嬉しそうに笑いました。
それから俺たちは、一週間、長くても二週間ごとに互いの家に行き、交換ノートを続けていました。
しかし、高校受験で、俺は自分にとっては少し難しい場所を選んだので、受験勉強を本格に始めてから、交換ノートは徐々に少なくなり、最終的に、俺が「受験が終わるまで待ってくれ」と言って、涼菜としばらく会わなくなりました。
やっと高校生になり、涼菜を驚かそうと、連絡も入れずにミヨサカに行くことにました。
近くの山でスミレが咲いていたので、涼菜が好きな黄色と白のスミレを二、三本摘んで、水色の和紙に包んで持って行きました。
しばらく見ていなかった、電車からの風景は、初めて父と一緒に行った時とは違って、雨が降っていました。天気は湿っぽくても、俺の心は晴れやかだったんです。久しぶりに涼菜に会えるのが、何より嬉しかったんです。
でも、俺は涼菜と会えなかった。
ミヨサカは、俺が通わなくなって一か月たったころにある事件が起きて、すっかり荒廃していました。
ニュースすらろくに見ていなかった俺は、そんなこと夢にも思っていません。体は勝手に涼菜の家に走り出していました。そして、俺は本当の絶望感を初めて知りました。家に着くどころか、一帯の住宅地が更地になり果てていたんです。
気が付くと、俺は雨に濡れて、ミヨサカの駅のプラットホームに立ち尽くしていました。スミレはどこかで落としてしまったようです。
家に帰って父に聞こうか迷いましたが、もしかしたらあえて黙っているのではないかと思うと、結局何も聞けませんでした。初めて、雨に感謝しました。涙も、走った汗も、雨と一緒に流れていきました。
それからしばらく、俺はミヨサカのことを、涼菜ごと忘れてしまおうと思い、努めて普段どおり過ごしました。でも……忘れようとすればするほど、涼菜が……あいつの笑顔がちらつくようになったんです。俺は意を決して、墓参りに行こうと決めました。
墓と言っても、そんなものどこにあるかもわかりません。だから、涼菜の家があったところに、俺が勝手に手を合わせに行くだけです。
普通墓には花を飾るでしょう。花を摘みに、俺はまた山に行きました。墓に飾る花はどんなものがいいのかなんて、調べたくなかったんです。だから、遊びに行くときのように、軽い気持ちで花を摘みました。幸いスミレがまだ咲いていたので、今度は紫とピンクのスミレを持って行きました。
相変わらず、ミヨサカは悲惨な光景が広がっていました。でも今度は、雨は降っていませんでした。気持ちとは裏腹に、晴れ渡っていました。
そんな空から目を背けるように、俺はただじっと下を見て、涼菜の家があった場所まで歩きました。落とさないように、スミレを優しく握りながら――――
智の話の途中、管理室から篠田を呼ぶ声があった。
「少女に動きあり! それに……これは、副監理室の――」
急いで戻った篠田が目にしたのは、ある女が純香と共に逃げる姿だった。
「まさか――――」
*
純香が、入った部屋を実験室の〝ような〟と言ったのは、まるで物置のように、物が乱雑に置かれていて、しばらく人が入っていないような雰囲気があったからだ。
――この病院は、やっぱり変だ。
そもそもここが本当に病院であるのかは怪しいところだが、機能としてはやはり病院に一番近い気がした。もっと言えば、人体実験場というほうが適切だろう。
こんな施設を管理しているのは一体だれか。純香は、やっと冷静さを取り戻し、様々な疑問を挙げる。
しかし考えたところで答えは出ない。
とりあえずなにか武器を探そうと思ったが、扉の向こうから誰かが走ってくる音が聞こえた。
――まさか、この部屋に入ったのが見られていた?
足音はどんどん近くなる。
――お願い、止まらないで!
しかし純香の願いは届かず、足音は丁度純香が通った扉の前でぴたりと止んだ。
――どうしよう。戦う? ……いや、武器も何も持ってないのにそれは無理だ。また走って逃げる? ……いや、もう体力も限界だ。絶対追いつかれる。
とうとう足音は部屋に入ってきた。そして、背後に気配を感じ、純香は死を覚悟した――。
――……あれ、生きてる?
しばらく目を瞑ってじっとしていたが、首に手をかけられる感覚も、刃物で刺される感覚も無かった。
――もしかして、もうここは地獄?
純香が恐る恐る目を開けると、目の前には看護師の服を着た女の人が立っていた。
慌ててまた下を向くと、今度は声をかけられた。
「私はあなたの味方です。もう大丈夫、ここから逃げましょう」
予想外の言葉に純香は困惑し、目を開けた。目の前には、自分と同じくらいか、もっと下の、女の子がいた。看護師の服が少し大きくて、コスプレでもしているような感じだった。
「驚かれるのも無理はありませんよね。でも、事情をゆっくり説明している時間はありません。ここから出たいのであれば、私についてきてもらえませんか」
そう言って、純香の手を引き、部屋の奥、実験準備室に入った。少女はものが乱雑に置かれた棚から、地図を取り出した。この病院の地図だ。
「あなたがこの部屋に入ってくれて良かった。ここは、私がこの時のために色々準備していた場所だったんです」
そう言いながら、次に少女は拳銃を取り出した。
「いざという時のためです。あなたが持っていてください」
純香は本物の拳銃なんて触ったことが無かった。
――こんなの使える訳ない。
少女は純香の考えていることを見透かしたように言った。
「大丈夫、これは偽物。本物なんて、私はどこで手に入れるのかも分からない。だからこれは、もう道がなくなった時、脅して強行突破するときに使うんです」
悪だくみしている子供のように笑って、少女は言った。
純香は少女に地図を貰い、現在地を確認する。N棟の三階。出口はC棟の一階だから、かなり遠いところにいるようだ。
「私がいたのは、一階の副管理室。あ、管理室は別で、地下にあるらしいです。私は入ったことは無いけど。それで、副管理室は、地図を見てもらえば分かるとおり、出口の真横にあります。ですから、その出口から出るのは無理です。だから、ここから出ようと思います」
そう言って、少女が指したのは、A棟の非常階段だった。
「ここは、警備が手薄なはずです。私たちがN棟にいることは皆知っているので、恐らく反対側にそんな労力は割かないでしょうから。ただ、ここに行くまでに見つかってしまっては元も子もありません。だから私、事前に調査して、監視カメラの位置を確かめておいたんです」
よく見てみると、赤いバツ印がいたるところに記されていた。だが一部分、ほとんど監視カメラが無いところもあった。それはとても奇妙な場所だった。
「この病院の構造は面白くて、アルファベット順に棟が並んでいるんですけど、J棟とK棟の間から、B棟とC棟の間は、別ルートがあるんです。それは二階にあって、空中トンネルって呼ばれてます」
再び地図に視線を落とすと、二階だけ、確かに道が多かった。他と違って個室があるわけでも、実験室があるわけでもなかった。窓すら無い。本当に、ただの通路としてつくられた場所のようだった。
「不自然でしょう。私も最初気になって、見に行ったんです。そしたら、この地図には少し間違いがありました。一本道で、階段も無いように描かれているんですが、本当は三階に続く階段が、五か所ほどあるんです。三階でそこに通じているのは、いずれも実験室のところでした」
純香は想像していた。秘密の階段。実験室に隠されている。この病院の狂気……。
やがて一つの答えが出た。この通路は、外部の人間に見られないように〝何か〟を処理するための抜け道だ、と。
*
管理室は、篠田の絶叫で静まり返っていた。
「なぜ裏切る! 総員、この女を取り押さえろ!」
一瞬の間があったが、一斉に椅子を引く音が聞こえ、監視員たちは風のように駆けていった。
「ようやく気付きましたか、篠田さん」
篠田が顔を上げると、智の不敵な笑みに視線がぶつかった。
「言っていませんでしたが、俺はあなたの目的を邪魔するために来たんです」
篠田の顔は、怒りのあまり目が血走り、唇が震え、汗が滴っている。
「何を言っているんだ……? お前、私の何を知っている!」
唾を飛ばしながら、興奮して話す篠田は、さながら野生動物が吠えているような光景だ。
智は再び真面目な表情になった。
「話は途中でしたね。まあ見てのとおり、もうあなたの仕事はありません。俺の話、ゆっくり聞いてくださいね」
――――涼菜の家に着いたとき、俺はこみ上げる感情を無視して、ずかずか入って行きました。もう鳴らすチャイムも残ってなかったんです。
かつてダイニングテーブルがあったところに、持ってきたスミレを置こうとしたとき、俺にとっては奇跡のようなことが起こったんです。
「あれ、智君?」
その声を、俺は待ち焦がれていたんです。聞き違えるはずありません。
振り返ったところに、鮮やかな黄色のワンピースを着た涼菜が、いつも俺を迎えてくれる優しい笑顔で、手を振っていました。情けないと分かっていながら、俺は涙を流しました。
「涼菜……良かった。また会えた…………」
思わず抱きしめました。
「ごめんなさい。最近色々と忙しくて、連絡が遅くなってしまって……」
いまさら事情なんてどうでもいい。そう思っていました。とにかく涼菜に触れられるという現実が嬉しくて、何も考えることができませんでした。
落ち着いてから、スミレを直接涼菜に渡しました。
涼菜は少し驚いたようでしたが、笑って受け取ってくれました。
「ありがとう」
その一言さえ、どうしようもなく嬉しかったんです。
しばらくして、涼菜はゆっくり、ミヨサカに起こった出来事を説明してくれました。
「私が、いつものように学校から帰っているとき、ミヨサカの方から大量の人が逃げるように走ってきた。私は何がどうなっているのか分からなかったから、人の流れに逆らって、ミヨサカに向かったわ。そしてミヨサカ駅まで来た時……血まみれになって倒れてる男の人が見えた。遠くから、数人の男たちが騒ぎながら歩いてくる音が聞こえて、私は駅構内に隠れることにした。駅長室が空だったから、そこに鍵をかけて震えていたの。隙間から少し見てみたんだけど、その男たちはだらっとしたTシャツに、腰まで引き下げたジーパンを着て、先端に少し血の付いたバイクを押してた。男たちは駅の壁にスプレーで落書きをしたり、辺りの窓を割ったり、ポスターを引きはがしたり、やりたい放題に暴れてた。……もし、今隠れているところに男たちが来たら、なんて考えると、恐ろしくて、ばれないように警察に連絡しようと思ったの。それで通報したんだけど、警察は出なかった。よく見ると携帯は圏外だった」
涼菜は、その時のことを思い出して、手が少し震えていました。俺が握ってやると、少しだけ、安心したようで、話を続けます。
「男たちがいなくなって家に帰っていると、途中でお父さんが迎えに来てくれた。少し安心したけど、お父さんの顔は、とても悲しそうだった。私は『何かあったの?』って聞いた。まあ、住宅街から人がほとんど逃げ出していってる状況で、この言葉は可笑しかったかもしれないけどね。……それで、お父さんは一言、『家が燃えた』って。正確には、私の家の近隣一帯が、警察の服を着た人たちに燃やされたの。お父さんはたまたま会社にいたから、無事だったんだけど、近くに住んでたあの人は、家にいて……」
涼菜はそこで言葉が詰まって、うつむいてしまいました。
涼菜の言う「あの人」というのは、涼菜と同じ学校、同級生の男の子です。涼菜は、その人のことを良く交換ノートで書いていました。好きだったんです。俺が交換ノートを止める直前に、涼菜はその人に告白する、と意気込んでいたんです。俺も表面上は応援していましたよ。でも、やっぱり苦しい。俺は、涼菜のことをずっと見てきた。だから、やっぱり素直に応援できませんでした。先刻は受験のためにこうしたと言いましたが、正直、一度涼菜と距離を置いて、冷静になろうと思っていたんです。
涼菜の想い人は、謎の放火のため命を落としました。俺は、いくらその人が羨ましいと思っていても、やはり嬉しくありませんでした。いずれ正面から堂々と、涼菜を振り向かせるつもりでした。
涼菜の想い人が命を落とした原因は、その時は結局謎のままでした。
涼菜はやがて泣き止んで、スミレを見つめていました。
「ねえ、スミレの花言葉、知ってる?」
花言葉なんて、調べたことありません。
「このピンクのスミレと紫のスミレは、希望、幸せ、真実の愛、とかの意味があるの」
そんな意味があるなんて知らなかった俺は、途端に耳まで赤くなりました。
涼菜はそんな俺をからかうように笑って、再び、
「ありがとう」
と言いました。
手はしばらくつないだまま、二人で壊れたミヨサカを見つめていました。
その日はとりあえず帰りました。涼菜も、あの後父と二人で、逃げるようにビジネスホテルに行って、ずっと暮らしていたそうです。
俺はあるアイデアがあったんです。狂気じみてると思われるかもしれませんが、俺は、涼菜の想い人の敵討ちをしようと考えていました。
親にさりげなく、ミヨサカのことを聞いてみました。
「智、最近行ってないもんね。行きたいなら、またお父さんと行ってこれば?」
思った通り、母は何も事情を知らないようでした。
ミヨサカの惨状を見て思ったんです。こんなに荒れてしまったのに、報道の一つもされないなんておかしい。何か、情報がどこかでせき止められているんだと思いました。
涼菜は、放火したのは警察の服を着た人だと言っていましたが、俺は最初から、それは本物の警察だと考えていました。まあ、目的は分かりませんでしたが。
それから、俺は情報集めに骨を折っていました。しかし結局、有力そうな情報は見つかりませんでした。
とうとう自分一人ではどうにもできないと悟って、涼菜に相談しました。この時、反対されたら素直にやめようと思っていました。涼菜を巻き込むわけにはいかないので。もう一度ミヨサカに行って、いつもと同じ場所、涼菜の家で待ち合わせしました。
涼菜は俺がやっていることに驚いていました。何かを言おうと口を開きましたが、何かを考えるように、一度快晴の空を見上げました。
「……分かった。協力するわ」
正直、俺は反対されると思っていました。危険だし、何より、涼菜は復讐なんて望んでいないと思っていたので。
「勘違いしないで。私は敵討ちの方に賛同するんじゃなくて、犯人捜しの方に協力するの」
「ああ、分かった。ありがとな 」
「実は私、前に智君と会った時、ここに調査しに来てたの。ただの推測なんだけど、犯人がこんな大それたことをしたのは、もっと小さな、一つの目的を隠しているんじゃないかと思って。例えば、こんなに多くの家が燃やされたのは、ある一軒だけを燃やしたかったんじゃないかってね」
涼菜の意見は、俺には的を射ているように思えました。涼菜の言う通り、犯人が危険を顧みずこんな暴挙に出たのは、俺の目から見ても不自然でしたから。
「でね、偶然かもしれないけど、一軒だけ、集中して燃やされたところがあったの。あの日逃げた人に聞いたら、最初に燃やされたのは別の家だったから、私の推測が当たっていれば、その家の人に、犯人は何か恨みがあったんだと思う 」
それから、俺は涼菜に連れられて、その家に向かいました。確かに他と比べて跡が黒くのこってたけど、普通に歩いていたら見逃してしまうほどのわずかな違いでした。だから、俺たちは確証を持つには至りませんでした。
その家には、一人のサラリーマンが住んでいたと言います。涼菜はその家に住んでいた人を知っていると言いますが、ミヨサカを出た後、どこに住んでいるかは知らないということでした。安否も定かではありません。
「お父さんの知り合いが、犠牲者の名前が載った資料を持ってるらしいから、今日帰ってお父さんに聞いてみるよ」
そう言われ、その日はミヨサカを後にしました。
帰る途中、俺は犯人の目的を想像していました。
――金銭トラブル、恨み晴らし……もしかしたら、敵討ちか?
涼菜に任せきりになってしまって心苦しかったので、とりあえず、俺は警察の動きを探ろうと思って、様々な方法で情報を集めたんですが、やはりだめでした。しかし、めげそうになっている時、情報漏洩か何かでネットにあげられていた、あるサイトにアクセスできたんです。そこには、警察の中でもトップの人の、名前から生い立ちまでが、詳しく載っていました。
こんな個人情報がネットにあげられるなんておかしいと感じながら、俺はその画面に釘付けになっていました。
俺は、その人たちの出身小学校や中学校を調べていきました。そのサイトは数日で何事も無かったかのように消されてしまいましたが、たかが数十人を調べるのには十分でした。
調べた中で、たった一人、ミヨサカの隣町出身で、涼菜と同じ中学校を卒業した人がいました。それがあなたです、篠田さん――――