夢うつつ?

 二人は長い事眠っていた。それでも外は不変に、丁度良い光が降っていた。
「時間は止まったままだ。もはやここがどこかなんて、どうでもいいがな」
「ああ、そうだな」
 このまま永久にこの空間から出られなかったとしても、それはそれで、良い最期になるだろう、なんてことまで考え出した。
「おい、せっかくこんな場所に来られたんだから、もっと満喫しようぜ。お前、木登りとかしたことあるか?」
「いや、ないよ。登ってみたい。手伝ってくれる?」
 智はにやっと笑い、子供のように、外へと走って飛び出していった。明信があくびをしていると、智は、早く来いよ、と言って大きく手を振った。
 智は、ここらで一番登りやすい木――太く丈夫な枝が数多く分かれている、足を掛けやすい木を選び、下から明信の事を支えてやった。明信は、智の支えもあったが、ほとんど自力で上に達することができた。しかし、普段こんな運動することは無いので、上についてすぐにへばってしまった。
 そのうち智も追って登ってきて、もう少し上まで行くことができた。
 登ったところからは、やはり空も途中で無くなっているのだ、と知ることはできたが、少し、物足りなさがあった。しかし、不思議なことに、どこからか心地の良い風が吹いて、かいた汗を乾かしてくれた。
 何も無いと分かっているのに、それでも二人は遠くを見つめた。高いところに上ると、人はだれでも、ただ遠くを見ようとするものだ。たとえその先が、人々が行き交う繁華街であっても、日々命が失われる紛争地域であっても、同様に、ただ純粋に見つめる。まさか山の頂上で、足元の砂利の数を数える人はいないだろう。
 空模様は相変わらずだが、十分に時間が経ったと思われる頃、ようやく智が「戻ろう」と口を開いた。
 下りるときには、明信も要領が分かって、造作もなく地面に着いた。

 お堂に戻り、二人は石段に腰かける。
「明信、今みたいにゆっくり話せる時がまた来るか分からないしさ、その……俺、聞きたいことたくさんあるんだ」
 明信には、智の言いたいこと、言えない理由も、良く分かった。親しいからこそ、余計に聞きにくい事もあるのだ。
「いいよ、智。思い出話でもしよう」
 智はほどけたように笑い、仰向けに倒れこんだ。
「俺さ、ずっと明信にお礼したかったんだよ」
「お礼?」
 智に何かしただろうか、と明信が思考を巡らしていると、
「ずっと前の事なんだが、そうだな、あれは小学一年生の時だ」
 そりゃあ思い出せないのも無理はない。
「その時、俺は友達と喧嘩して、公園で一人泣きそうになりながら、ブランコに乗ってた。むしゃくしゃしてたから、いつもより大きく、高くなるまでずっと漕いでたんだ。でも、俺もまだ小さくて、そこまで高くなったら危険だろうとか、何も考えずにひたすら漕いでた。そして、俺は立ち乗りしてたから、高くなってから座ろうとして、足を踏み外したんだ。高さは二メートルくらいだったが、スピードが結構出てたから、俺は地面に叩きつけられるように衝突した。右足と右手の捻挫で済んだのは不幸中の幸いだったが、直後は起き上がれないくらい痛くてな。膝から流れる血を見て、ようやく俺は、自分が落ちたことが分かった。柄にもなく、大泣きしたよ。でも近くに喧嘩中の友達の家があったから、泣いてるところを見られたくないと思って、自分で家まで帰ろうとした。でも動けないんだ。足も痛いし、手も痛い。どうしようもなくなって、また泣き出しそうなときに、同じくらいの齢の少年が近くに来て、俺を心配してきた」
 明信は、その時の事を思い出そうとしたが、なんだかもやがかかったようで、よく思い出せなかった。
「大丈夫かと言って手を差し出してきたが、俺はそれが、もしかしたら喧嘩中のやつじゃないかと思って、思い切り睨みつけたんだ。でも、よく見ると知らない顔で、怯えた目で俺を見てたよ。そんなに怯えてるにもかかわらず、手は引かなかった。それが可笑しくてなあ、俺は思わず笑ってしまったさ」
 明信は思い出した。あの頃、明信はこの街に、父の仕事の都合で越してきたばかりだったのだ。友達ができなくて公園でしょげていたところ、機嫌の悪そうな少年が来たので、怯えて隠れていたのだった。
「本当に目つきが怖かったよ。まさか同い年だなんて思わなかった。智は昔から強がりだよな」
 智は照れくさそうに下を向いて、笑った。
「あの時、ろくに話さないで帰っただろ、お前。ずっとお礼を言いたかったんだよ」
「そんな昔の事、もういいよ。それに、助けてもらったのは、きっと俺の方が多いだろう」
 時の止まっているここで、過去に思いを馳せながら、二人今を生きている。

 どれくらい経っただろうか、二人は、いつの間にか眠っていた。相変わらずの空を見上げながら、明信は微笑を浮かべる。
 しかし、空の変わらぬ様子とは裏腹に、お堂の正面には、先刻まで無かった参道が現れていた。
 ――ここは、やはり――――。
 明信は、この場所に見覚えがあった。しかし、なぜ来たのか、いつ来たのかは、全く思い出せなかった。
「……ん? 寝てたのか、俺」
 智も目が覚め、異変に気付く。
「こんな道、先刻までは無かったよな? 寝ている間にできたのか」
 しかし、二人ともこれといって驚いた様子は無かった。時間の流れが無いこの空間で、もはや何が起こっても不思議はない。
「そうみたいだね。智、僕、実はここに見覚えがあるんだ。いつ来たかは分からないけれど、確かにこの参道を見たことがあるんだ」
「おいおい、本当かよ……デジャヴ現象では無いのか?」
「いや、違うと思う。少し覚えてるんだ。ここの参道を、子供たちが走っていったり、旅の僧や、お爺さん、お婆さんが歩いていったり、そういう光景を見た記憶があるんだ。多分――」
 明信が言い終わらないうちに、状況が一変した。参道の先に、何やら巨大な、ゆっくり動いているものがあった。
 身構える二人の前に現れたのは、太く長い蛇だ。
「小僧、また会ったな」
 地の底から響くこの声に、やはり明信は聞き覚えがあった。
「なんだよ、このでかい蛇! お前、会ったことあるのか?」
「ああ、やっぱりそうだ。うん、夢でね。前に智と神社に来ただろう? その前の日、僕は夢でここに来ていたんだ。お前はあの祠で眠っていた、この山の守り神だろう」
 話についていけない智は、目を瞬いて明信と大蛇を交互に見る。
「ああ、そのとおりだ。お前は優しい。お前が私に伝えてくれた言葉、決して忘れることは無いだろう。長らく古びた祠にいた私は、あの時既に消えかかっていたのだ。せめて、この地を人に知ってほしくて、最後の力でお前を導いた。そうして、私は消えるつもりだったのだ」
 地から響く優しい声に、いつの間にか智も聞き入っていた。
「だがお前の言葉を聞いて、私は、この世から消えてしまうのが惜しく思えた。二人が来てくれたおかげで、僅かではあるが、力を取り戻すことができた。この力尽きるまで、ここからこの山を守っていくのもまた一興だと思ってな」
 大蛇の話を黙って聞いていた二人は、なぜこの場所がこんなにも穏やかで、安心できるのかが分かる気がした。この大蛇にとっては、お堂が人々の休息所となっていたあの頃が、とても懐かしく、大切な記憶なのだろう。
「そうか。僕もこの場所、結構好きだよ。またどこかで、会えるかもしれないな」
 明信は、あの小さな祠を想いながら、それでもこの地に残ってくれる大蛇に感謝した。なぜだか無性に、嬉しかったのだ。
 どこかから優しい風が吹いてきた。
「おい、一つ聞いていいか? ここを出る方法が知りたいんだが、お前は何か知らないか? これはただの推測だが、この場所を作り出してるのはお前だろう。気持ちの良いところだが、いつまでもいるわけにはいかないんだ」
 智は大蛇に聞いた。明信も同じような考えを持っていた。少なからず、この場所は、あの世でもこの世でもない。
「ああ、そうだ。本題に入ろう。お前たちがなにやら慌てた様子でお堂に入ったのを見て、私がここに招待したのだ。人間には〝神隠し〟などと呼ばれるな。帰る方法ならあるぞ、心配せずとも、すぐに帰してやろう」
 しかし、大蛇は心配そうな表情を浮かべて、二人を見つめた。
「だがお前たち、ここに来る前の事は覚えているか?」
 その言葉で、二人は純香に追われていた事を思い出した。今帰ったら、純香に会うことにもなるかもしれない。
「人間というのは怖いな。なぜ同じ生き物同士で、命を奪い合うのか。私は長い事この山にいるが、やはりどうも理解できない。お前たち、どうかこの無知に教えてはくれないか」
 二人は応答に困ってしまった。確かに人間は、非道で、愚かな生き物だろう。だが、それは人間に感情があるが故の問題だと思うのだ。それに――――
「俺らはあなたの考えを否定するつもりは無い。一つ、これもまた無知の一つの意見として聞いてくれないか」
 智は改まった様子で、大蛇にそう告げた。
「俺は、確かに人間の中には非道な者もいると思ってる。でも、あんたにとっては一呼吸するくらいの短い時間かもしれないが、この十数年生きて、本当に優しい、素敵な人間もいるってことが分かった。だから、あんたも分かるはずだ。この、俺の友人のように、清い心を持つ者もいるんだ。それに、かつてこのお堂を訪れた人々は、みんな笑顔だったでしょう。みんな優しい心を持っていたんだろう。人間がみんな争い合っている訳では無いんだ」
 明信は智に続けて言った。
「確かに、人間は思い上がりが強い、自己中心的な存在だ。その一因は、感情と、発達したコミュニケーション能力にあるんだと思う。でも、だからと言って、その二つが無くなってしまうのは、僕には惜しく思える。人に個性があるように、これは人間の個性なのかもしれない。個性が無くなってしまうのは、とても悲しい事だよ」
 大蛇は無表情で、じっと二人を見つめていた。
「大蛇様、どうか、人間を嫌いにならないでください」
 しばらくの間、この場を沈黙が支配した。二人にとってこの時間は、生きてきた中で最も緊張する時間だった。少しでも動けば、晴天から稲妻が落ちてくる。考えてみれば可笑しな話だが、そんな気さえした。
 長い沈黙の後、大蛇が口を開いた。
「そうだな、私は確かに、人間に好意を持っているとは言えないかもしれぬ。私は人間を愛していたよ。私に願い、その願いをかなえてやるのが楽しかった。人間の喜ぶ顔が好きだった。だが、いつからか、ここを訪れる人間はいなくなり、力も衰え始めた。私はただ孤独だったのだ。お前たちのおかげで目が覚めた。礼を言おう」
 それから二人は、大蛇から昔話を聞いた。
 大蛇の名はホノカミというらしい。昔、農村の者が作物の豊作を願って付けた名だという。
 農村の物は、晴れの日も、雨の日も、変わらぬ愛をもってこのホノカミを崇めた。おかげで最初こそ力も何もなかったが、人々の信仰が多く集まるうちに、天候をわずかに操るほどの力を手に入れた。そして、晴天が続いて作物が枯れてしまわないように、時々雨を降らしたり、災害をできるだけ防いだりしていた。
 しかし、文明の発展と共に信仰心は薄れ、祠は存在すら知られなくなった。それに伴い、ホノカミも力を失い、今に至るということだ。
「祠に一人でいるのはつまらなかったが、たまに来る、お前ら人間のことを、どうしても嫌うことはできなかった」
 ホノカミは、どこかを懐かしむように空を見つめていた。
「ありがとう、ホノカミ」
 
 二人は最後にあの木に登った後、帰ることに決めた。
「本当に、行くのか。私は別に、ここにずっといさせてやっても構わないのだぞ。特にお前は、あまり人の生きる世に、満足している訳では無いのだろう」
「僕はまだ、十数年しか生きていないんだ。なんだか、この世を見限るのには、少し早すぎる気がする。もう少しの間、この滑稽な演劇をして過ごすのも一興だと思ったのさ」
 ホノカミは、初めて笑い声を上げた。智はきょとんとした顔で、大蛇と明信の会話を聞いていた。
「ここの時の流れは、現の世とは少し違うのだ。恐らく現の世では、お前たちがここに来てから、半日も経っていないはずだ」
「分かった。ありがとう」
 二人はお堂の中へ入り、少し経って床や壁が光りだした。
「辛くなったら、いつでもこのお堂を訪れるといい。私はいつでも、待っているぞ」
 部屋全体が光に覆われたころ、どこからかホノカミの声が聞こえた。

 目が覚めると、そこは夜明け前の古堂だった。
 眠っていたのかと思ったが、二人とも、木に登ったような痕が手に残っていた。
「……帰ってきた、のか?」
「うん、帰ってきたんだよ」
 妙な疲労感と高揚感が残って、二人はしばらく会話せずに座り込んでいた。
 しばらくして、純香の事を思い出した。まだ探しているかもしれないと思うと、途端に恐怖がわいてきて、お堂から静かに外を観察した。この辺りにはいないようだった。
 いつまでも古堂にいる訳にもいかず、そっと、なるべく音を立てずに、二人で家に帰った。もちろん家族にはこっぴどく怒られたが、ひどく安心したのを覚えている。明信は緊張が解けて、思わず泣きそうになってしまった。

 翌日は土曜で学校は休みだったが、明信はなんだかよく眠れなくて、早朝に公園まで散歩した。
「よお、休みなのに起きるの早いな」
 公園には智もいた。考えていることは同じらしい。
「そっちこそ。今日は朝部活無いの?」
「ああ、今日はたまたま休みなんだ。そんな事より、お前、純香があの後どうなったか知ってるか?」
 ――すっかり忘れていた。思い出すと、今でも恐怖を感じる。
「純香は昨日、俺たちを追ってあの古堂のところまで来たみたいなんだ。でも、俺たちがいないのを確認して山を下りたらしい。それからここら辺を徘徊して、俺たちが帰ってくるのを待っていた」
 明信は背中に嫌な汗が流れているのが分かった。腕には鳥肌が立っている。
「でも、包丁を持って何かをぶつぶつ言いながら歩いている純香を見て、近所の誰かが警察に通報したらしい。純香は保護されて、今は精神疾患を疑われてカウンセリングを受けてるってよ」
 今ここに来る心配が無いと聞いて安心したが、なんだか複雑な気持ちだった。少なくともその結末を聞いて、喜ぶことはできなかった。
「それは、誰から?」
「父親さ。仕事から帰ってくるときにパトカーが来ていて、見ると、包丁を持った女子高生が警察に連れていかれるところだったらしい。警察の話が少し聞こえたんだとよ」
 どこかで鳥の鳴き声が聞こえた。朝焼けの空が、今にも消えてしまいそうで、とても美しかった。
「智、純香は、なんであんなことになってしまったんだろうな。これは、一体だれが悪いんだろうな。少なくとも、誰も幸せにはならないだろう」
 行き場の無い憤りを感じて、明信は震える声でそう言った。
「……お前には黙っていようと思っていたが、純香の家族について、聞くか?」
 とにかく純香以外の誰かの所為にしたくて、明信は反射的に頷いてしまった。
「純香の父親は、純香が小さい時に亡くなったんだ。まあ詳しくは、失踪した。そして、間もなく母親は再婚した。しかし、その新しい父親が結婚して早々に本性を出した。家庭内暴力だな。母親は、既に父に逝かれ、母は早くも認知症を患っていたから、本当に、頼れるのはその父親しかいなかったのさ。それをいいことに、妻子を暴力で支配していた。しかし、そんな父親も早死にした。職場のトラブルということになっているが、実は暴力団関係だって話もある。これはまあ、風の噂だがな」
 智は少し苦い顔をして言った。
「ということは、母子家庭にはなってしまったが、やっと穏やかな生活を手に入れたんだろう? 言い方は悪いかもしれないが……不幸の原因は消えたわけだ」
「ああ、普通はそう思うよな。でも、純香の場合、悪の根源が消えたことが、あろうことか不幸の始まりとなってしまったんだ」
 二人の間に緊張が走る。
「男のもたらした不幸は、予兆に過ぎなかったと?」
 明信は半笑いで言い返す。誰が、悪い?
「そういうことだ。父親がいなくなってから、母親と純香は、とりあえず喜んだ。お前の言う通り、やっと平穏が訪れるとな。まあ、金の問題は残っていたが、職場から――これはほぼ暴力団関係で間違いないだろうな――金が入ったんだ。それも、数年は生活に困らないような額だった。口止め料と考えるのが妥当だな。だから、警察が介入することなく父親の葬儀まで済ました。日常を取り戻しつつあったんだ。でも悲劇はそこからだ」
 明信はごくりと息をのんだ。
「幼い頃から暴力が隣にあるのが普通だと思っていた純香は、平和で、静かすぎるくらいの生活に、違和感を覚え始めた。別に、飯は三食きちんと食べれていたし、学校にも行ける、ごくありふれた毎日だ。だが純香は、何かが足りないと思い始めた。そしてある時、純香は思いついた。自分があの最悪な父親の代わりを演じればいいと」
「純香の幸福には、暴力という不幸が必要だというのか」
 智は頷く。
「かつての再婚相手のように、暴力、暴言という恐怖を振りまく純香に、母親がどう思うかは言うまでもないだろう。本当に、報われないよな」
 二人の間に沈黙が流れた。

 何も言わずに、二人は昨日の裏山に向かって連れ立った。お堂へ行けば何かが分かる。そんな漠然とした期待を胸に抱きながら。
 あの時と違い、やはり古く寂れた雰囲気を纏うお堂に行き、寝転がって空を見つめる。もう太陽が見えてきて、雲は少し光っているように見えた。雲は何も知らずに、ゆったり空を泳いでいた。
 明信は自分の無力感に打ちひしがれる。純香には散々な目に合わされてきたが、これでも一応恋仲だったのだ。そこそこ親しい関係にあったというのに、何も知らなかった自分を恥じた。
「純香はこれから、やり直せるかな?」
 正しい答えが欲しい訳じゃあない。
「明信、お前は優しいな。あんなことになってもなお、あの狂人の幸せを願うのか」
 智はつぶやくようにそう言った。
 智の言った〝狂人〟という言葉が気になったが、言及はしない事にした。
 確かに、普通なら呪いの一つでも言ってやりたくなるのかもしれないが、明信にはどうしても出来なかった。純香には単なる過程に過ぎなかったのかもしれないが、少なくとも明信にとって、純香と共に過ごした時間は本物だった。
 ――どうか、純香が救われますように。

 ――私はどこにいるのだろう? 自分の部屋じゃない……。
 目が覚めた純香が最初に見たのは、クリーム色の天井だった。
「ねえ、ここはどこ?」
 近くにいた、医師と思われる背の低い女性に尋ねた。
「病院ですよ。精神が少し混乱していたようだから、この病院で保護することになったの。これからゆっくり治していきましょう」
 女性医師はありきたりな嘘はつかず、真実を明確に述べ、その上で落ち着かせるように優しく話した。
「母は?」
「お母さんも入院していますよ」
 一言こう答えただけだった。これ以上何か言えば、純香を刺激することは明らかだったのだ。しかし純香は既に意識がはっきりしていた。そして全てを察し、笑った。それから、涙が溢れてきた。ただ静かに流れる涙を、純香は受け入れた。手に落ちたしずくをなめる。しょっぱい味がした。
 女医は念の為、周囲に体を傷つけるような物が無いのを確認した上で、「何かあったら呼んでくださいね」と言い残して部屋を後にした。ドアの閉まる音を聞いた途端、糸が切れたようにわっと泣き出した。嗚咽が漏れるのを抑える様子も無く、声を上げて泣きじゃくった。何年も涙を流していなかった純香にとって、この塩っぽさは新鮮に感じられた。
 それでもなお、純香自身、この涙が一体なんのために溢れ出ているのか分からなかった。後悔、屈辱、羞恥、そのどれでもなく、どれでもある気がした。言葉にならないような気持ちの渦が巻いていたのだ。その渦さえ、できては消え、できては消え……。

 昼頃まで、純香の部屋に入ってくる者はいなかった。どこからか監視はされていただろうが、居心地はそう悪くなかった。
「純香さん、入ります」
 例の女医が、ノックをして昼食を持ってきた。
「こんにちは。調子はどうですか? 今日の昼食は生姜焼きですけど、アレルギーとかあります?」
「いえ、無いです。ありがとうございます」
 母親があんな状態になってしまったので、いわゆる家庭の料理というものを食べた事のない純香にとって、こんなにちゃんとした、温かい料理は、純香を感動させるのに十分なものだった。
 女医はわけもなく涙を流す純香を見てあたふたしていた。
 そんな女医をよそ目に、純香は初めて、心から美味しそうに、食事をした。今まで食べていた冷たい物体を、もはや料理だとは認められなくなっていた。
 昼食は一汁三菜と、栄養バランスの取れた健康的なものだった。先に述べた生姜に加え、蓮根と人参の煮付け、冷奴、味噌汁にはわかめと油揚げが入っている。
 食欲はあったが、いつも食事量の少ない純香にとって、この昼食を全て食べ切るのは至難の技であった。頑張って食べきろうとしたが、結局、煮付けと白米を残してしまった。もっと食べたいのに胃に入らない悔しさと、申し訳なさで俯いていた。
「こんなにたべられるなんて、よほどお腹が空いていたんですね」
 女医は笑顔で純香にこう言った。純香への気休めの言葉に聞こえるかもしれないが、女医は言葉通り、予想以上に食べた純香に感心していたのだ。昼食の総カロリーは、運動部に属する女子高校生並みにあった。病院食にしては味が濃く、出来立てのように自然の湯気が立っていた。だから、純香は、この料理は自分のために作られたのだと分かっていた。だからこそ、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。思わず俯くと、その時にまた涙が出てきた。
「どうしたんですか?」
 今度は女医も気になって聞いてきた。しかし、今度の涙はどこか心地よかった。
「とても美味しかったです」
 純香のその言葉を聞いて、女医は優しく笑った。

 しばらくは女医と話していたが、三十分ほど経った頃、院内のどこかでベルが鳴り、慌てた様子で仕事に戻ると言って、女医は行ってしまった。
 再び一人になったとて、やることがあるわけでもなく、質素な部屋を見回していた。
 部屋には小窓が一つと、その横にカーテン。テレビも申し訳程度に置かれていたが、純香には興味がなく、テレビの横に置かれているリモコンには触ってみようともしなかった。テレビ台の中は空だった。しかし、埃がかぶっていなかったので、純香がこの部屋に入るときに中身だけ移されたようだった。恐らく中身はコンセントか何かだろう。先に述べたように、この部屋には容易に身体を傷つけられるようなものが無い。細い紐もまた、危険なものの一つということだ。
 部屋は個人部屋だったが、流石に中で歩き回っているのも息苦しくなってきて、少し、室外を散歩してみようと考えた。
 ――出ちゃだめなんて言われてないもんね。
 自分にそう言い聞かせて正当化し、そっとドアを開け、耳をそばたてて周囲の安全を確認する。ちょっとした冒険心だ。子供のように純粋なその心は、あの事件の時から変わらずあった。
 ――……よし。
 人の気配が無いのをしっかり確認し、部屋を出て左に進む。
 廊下は外の光のおかげで明るくみえた。風は吹いていなかったが、なんだか涼しいと感じた。
 また、廊下は埃一つ確認できないほど綺麗だった。そのためか、ここがこの世では無いのではという不思議な不安が込み上げてきた。それほど白く、透き通っていた。

 しかし、歩いているうちに、不安のもう一つの原因が分かった。ここは人の気配がしないのでは無い。人の気配が〝無い〟のだ。
 途端に恐ろしくなった。振り返って背後を確認することすらままならない。
 部屋を出る前に、気づくべきだった。病院だと言うのに、医者や看護師どころか、入院している人の気配すら無い。

 純香が慌てて部屋に戻ろうとした時、近くで叫び声が聞こえた。必死に何かを拒んでいるような声だ。今まで人の声なんて聞こえなかったから、突然の大声に耳がキーンとした。なにか恐ろしいことに対して発せられたその声は、純香の不安をも増大させた。
 それでも、自分と同じようにここにいる人の身に起こっていることを他人事だとは思えず、声のした方に急いで駆け付けた。
「いやだ、やめてくれ! そんなもの、手術とは言わない!」
「手術」という言葉に反応し、恐怖は薄れ、先程の冒険心が勝った。
 ――なんだ、もしかしたら、治療を嫌がっているだけかもしれないな。

 しかし、数秒後、純香は自分の愚かさを嘆いた。ドアの隙間から「手術」を一目見て、脳が理解するより早く、体が危機を察知した。ここは危ない。逃げなければ、と。
 その「手術」とは、人の目から薄く伸ばした針のようなものを刺し、脳の前頭葉の切り取るというものだ。頭蓋骨に穴をあけることもある。これはロボトミー手術と呼ばれている。本来これは精神病を治すのに用いられていたのだが、ここではその目的を忘れ、人間を道具として扱う、非人道的な処置が行われていた。
 純香はふと隣の部屋を見て、目を疑った。ここに人の気配が無いのは、単に人がいない訳では無かった。その「手術」を通して、ここの人間は人格を失ってしまっていたのだ。これは手術ではなく、表現としては「改造」が適切だろう。
 生活に必要な最低限の機能以外を失った人間は、何も考えず、椅子に座るか寝床に寝るなどして、ひっそり静かに生きていた。そう、ただ生きていただけだ。それは、あながち必要な時だけ活動するロボットのようだった。
 精神異常を治すと言われるこの治療は、実際に行われていた時にも問題は起きていた。当時はあまり知られていなかったが、副作用で無気力、集中力低下などがあり、稀ではあるが、人格や知能に影響を及ぼすこともあるという。医療が発展した今、こんな治療をしている病院はまず無いだろう。どうやらここで行われているのは、非合法的な人体実験らしい。
「が……あ…………」
 先刻から抵抗していた男は、ついに動かなくなってしまった。
 よくよく考えてみれば、未成年の純香が、なんの同意書も、金もなしに、病院に入院だなんて事があるわけないのだ。親が同意しようにも、その親は純香以上に重症ときた。金なんて、日々の生活にも困っているのに、払えるわけもなかった。
 そう気づいても、足はすくんで動かない。父の暴力に対する恐怖に少し似ている。生命の危機を察知した時の、あの緊張に似ている。
 かすかに人の気配を感じ、振り返ると、そこには先刻のとは別の女医が立っていた。恐ろしい笑顔だった。
「残念です」
「あ――――」
 女医の手には金属製の小さい何かが握られていた。